298話:秘められた魔術
シェイラは一週間を、どこかぼんやりと過ごした。
静かだ。あまりにも静かで、自分の存在が空気に混じってしまったのではないかと思う。
──イディオンが、いない。
彼はよく喋るわけではなく、黙っていることも多かったから、大きく変わらないはずなのに、絵画の中心人物が留守にしてしまったかのようだった。
シェイラの隣にいない。
不在に、ぼんやりとしてしまう。
書をめくって顔を上げれば、いるはずの姿がないことに気づく。そのまま、ぼうっと手を止めて、いるはずのところを見てしまう。
ヴィクトルとひどい別れ方をした時は、身を裂かれ、抉られてしまうようだった。
今はなぜか、時を止めてしまう。気づくと、もらった写生帳を眺めている。その描かれた線や、塗られた水彩の跡を無意味になぞってしまう。
いつの間にか、一週間をそんなふうに過ごしていた。
(頭を切り替えなければ……)
まもなく、春。オルリアの月がやって来る。厄禍に備えて、臨時の星都大陸会議が開かれる。シェイラはそれまでに、まとめあげなければいけないことがある。
(大丈夫です)
イディオンとは、約束した。彼は、三年で魔導師になった人だ。今回の約束だって、絶対に守ってくれる。シェイラも、絶対に守る。
シェイラは思って、椅子を引いた。姿勢を正して、背筋を伸ばす。そうすると自分の軸を感じた。強い意志を思い出し、整えられた自分の研究室で、写本をめくっていく。
──魔導師ノザリアンナの手記。
リマスは、ほんとうに、その手記を{転写}したものをシェイラたちに寄越してきた。
王都ガルバーンの工房街の裏通り。
使いでやってきたマーロは、ほくそ笑んでいた。
「教えてやったのに、みすみす逃すとはな」
暗にマーロが言ったのは、女王グシェアネスとムディアンの力が奪われたことだった。
シェイラは、受け取りながら、つめたくマーロに応じる。
「そもそも、わからせるつもりはなかったのではありませんか? 持っている情報に差がありました。あれだけの情報で、わたしたちがねらわれている対象を絞るのは困難です。ほんとうにわからせるつもりなら、名前を明かしてしまえばいいのですから」
「…………」
「あなたはただ、わたしたちの無様な姿を目にしたかっただけではありませんか?」
シェイラは、マーロを突き放すように言う。
開いている片方の目を見開くと、マーロは呵々と笑った。
「手がかりを伝えてやったというのに、随分な言われようだな? 好いた男の家族を守れなかったことがくやしいか?」
「…………」
「団長から聞いただろう。そもそも、この世界が狂ってるんだ。俺たちは正そうとしてるにすぎねえ」
「ほんとうに?」
シェイラは、首をかしげた。受け取った手記を小脇に抱えながら問う。
「マーロ・スパン。あなたは、ほんとうに、自分がやろうとしていることが正しいと思っているのですか?」
マーロが怪訝に片眼を細める。
「なにが言いたい?」
「ヤルチェさんの時、わたしたちが駆けつけたのが間に合ったように見えますが、そもそも余計な間がありすぎたように思います。
ほんとうに世界を正そうとするなら、彼女にいらぬ情報が伝わるような部下の失態を許すはずがない。わたしたちが{転移}してくるより前に決着をつけられたはずです。まるで、阻止されるのを待っているようでした」
シェイラの語りに、マーロは無言を貫く。
「さらには、リヨンさんです。ねらっているのは、{感応}であると伝わるような話しぶりでした。結果、わたしたちは命を救うことは叶いました。図ったかのように」
「…………」
「偶然ですか?」
シェイラがもう一度首をかしげれば、マーロはふっと笑った。
「さてな」
マーロは長外套を翻す。{転移}で消えていく。
「俺自身もわからんさ」
そう言って、マーロはシェイラの前から消えていった。
シェイラはその光を見送ってから、帰城し、受け取った写本をさらに{転写}した。ひとつはイディオン、もうひとつはシェイラが持って、互いに読み進めて解釈を交わすことになっている。
シェイラは思い起こしながら、手記をめくる。
綴られていたのは、ヴェッセンダスから聞いた{朧竜}。それが話題に上がり、偉大な魔導師たちが作り上げることを決めた経緯であった。
〝竜なんて発想、吐き気がする〟
ノザリアンナは、サージェストと弟子たちの会話を淡々と事実として綴ったのち、一言、そう書いていた。べつの日には、連なる内情が記されていた。
〝……だけど、サージェスたちの案は正しい。敵を作る以外に、わたしの願いを叶える方法なんてない。人間は醜い。戦の炎は尽きず、怨嗟は土を沸かす。神頼みをしたところで変わることはない。わたしたち、魔導師がなさねばならない。これ以上、人間同士の呪いが生まれぬように〟
〝今日、ユベーヌが来た。相変わらずの理想主義。サージェスも理想を夢見るけど、彼は現実もきちんと見たうえで語る。ユベーヌは、ばかの極み〟
〝……でも、少しだけ、うらやましい〟
賭けてみよう。ノザリアンナの字が、綴られていた。
〝わたしは、この魔術を{朧竜}に秘める〟
「〈峡谷より導く竜の角笛〉の魔術……?」
シェイラは文字をなぞった。〈完成された文字〉で記されていたのは、そういう意味のものだった。
〈完成された文字〉は、一文字で多くの意味がこめられる。細部結合によって一字をなす。その分、解釈が複雑で、形や配置場所によって意味がずれることがあるが、完成されたと称されるように、呪術を執り行うにあたって、完成しきった文字だった。
ノザリアンナの手記は、その〈完成された文字〉で陣が描かれていた。切嵌のように配置されて、引いてみれば、角笛の影絵のように見える。角笛を模した陣。円や角で構成されたものではない。
(随分と特殊な陣です)
使用されている〈完成された文字〉は、十二だった。
〈哀れな子どもの魔法〉と称された字が四。おそらく、殺されたアノンたちを意味する。
〈哀れな超克した力〉が一。これはリヨンの{感応}。
そのあとは、すべてひとつずつ。〈冠を待つ偉大なる力〉。これは、ムディオンだろう。〈偉大な女魔導師の力〉。これは、ガザン。
そうして、二箇所、文字が塗り潰されていた。
〈■■■■■■〉。
〈■■■■■■〉。
シェイラは、その塗り潰された文字のうえで、視線を止める。
おそらく、リマスたちが伏せたものだろう。まだ、手に入っていない力だ。マーロが言っていた残りふたつ。
最後に、〈冠を戴く偉大なる力〉が三つ、とあった。ひとつは、グシェアネス。
(もうふたつは……?)
あと、ふたりの王がねらわれていることを示している。
シェイラが思考に沈んでいると、にわかに扉が叩かれた。返事よりも前に声がある。
「──シェイラ、いるかしら?」
入ってきたのは、フェノアだった。
シェイラは、驚く。歌唱の魔導師は、{魅了}の乗った玲瓏とした声を響かせる。
「相変わらずねえ。集中していると、外の音が聞こえないんだから」
「モルリオールぶりですね。いったい、どうしたんですか?」
フィシェーユに赴任しているはずのフェノアがなぜここに。
「大陸全土の魔導師に、召集令がかかったの」
発言に、シェイラは瑠璃の目を見開く。
「なぜ?」
「わからないわ。でも、魔導師たち全員なんて、よっぽどのことね」
「…………」
「大講堂に集合ですって。行ける?」
「……行けます」
シェイラは、暗然とノザリアンナの手記を見やると、表紙を閉じた。




