295話:移ろいの写生帳
シェイラは翌週、ガルバディアからヴェッセンダリアへ戻ることになった。四年前よりも少しはやい季節だったゆえに、紫苑ザクラはまだ蕾で、花々も咲いておらず、冬の名残りばかりの出立の日であった。
前回と異なって、シェイラは王城内の転移陣を用いる。ひと月かかる旅程が、陣であれば一瞬だ。
シェイラは、ムディアンとティアランに見送られて、城内の陣に入るところだった。
「──兄が見送れなくて、すみません」
ムディアンが詫びた。シェイラは首を振る。
「仕方ありません。忙しいですから」
先週、貴族たちに開示された女王の死と王配の失踪、ムディアンの廃太子は、場が整えきった状態で行われたために、一先ずの混乱はなかった。無論、驚愕や動揺がなかったかと言えば、嘘になる。
それをすべて、イディオンは制してしまった。次々と貴族たちに声をかけていき、場の混乱が起きる前に貴族たちの動揺を圧倒した。隅のほうで様子を見ていたシェイラは、舌を巻いた。
(わたしは、ほんとうにとんでもない方を発見して、戻してしまったかもしれませんね)
シェイラはちょっとうれしくなった。イディオンの活躍を目の当たりにして、心があたたかくなる。
「あの、シェイラ師……」
シェイラが思い出していると、指をもじもじとさせたティアラン姫が、シェイラをおずおずと見た。
「このあいだは、物を投げてしまって、申しわけございませんでした」
「……いいえ」
シェイラは、上目に見上げてくるティアランを見て、いつかのイディオンを思い出した。
イディオンは子犬のようであったが、ティアランは子猫のようにかわいらしい。
「お元気になられたようで、よかったです」
シェイラがそう言うと、ティアランは、真っ赤になっている目元にうっすらと弧を描いた。父母のことはそう簡単に乗り越えられることではないだろうが、この姫君には、強い兄がふたりいる。そのうちきっと、立ち直るだろう。
シェイラは、ぺこっとふたりに頭を下げると、転移陣のなかに入った。
ヴェッセンダリアに、戻らなければならない。
シェイラには、やらねばならぬことがある。
──{朧竜}を、止める。
イディオンとの別れは、そのためだ。
決然と、顔を上げる。
「──シェイラ!!」
陣を発動させたところで、ばんっと両扉が開いた。
ひとつに結った髪を振り乱したイディオンが、明滅する光に、なにかを差し出す。
「これ! 来月の! 誕生日の!」
シェイラは、現れた姿にびっくりしたまま、差し出されたものを受け取った。大きな筆記本のようなもので、シェイラは顔を上げる。
「おめでとうが……──」
言いたかった。
イディオンの言葉は、そのまま転移陣の光でかき消えてしまって、最後まで聞くことができなかった。
シェイラは、ぽかんとしたまま、移り変わったヴェッセンダリアの転移城塔のなかにいた。
なにがなんだかわからないまま、手元にある帳面を見つめる。
急いで、ガザンの塔に戻った。ガザンが死んで、空いた老師の席は埋まっていないために、一時的に準師であるシェイラが管理を行っている。
自分の部屋に戻って、寝台に座って、渡されたものを開く。
──写生帳であった。
大きな写生帳は、開くと、画筆で描かれた景色に、水彩で色づけがされている。{保護}の魔法がかかった顔料を使っているのか、擦れた様子がない。
(これは……)
〝あなたと見た移ろいを込めて〟
そう題されて描かれているのは、この一年で旅をした場所の風景だった。
星都からはじまり、モルリオール、花の都、ルーマン、オルリアの国境、ユグラウル岩窟に、女王国の森。隅には、描かれた日付けが記してあって、ふたりの旅路が描かれている。
シェイラは言葉を失いながら、一枚一枚をめくった。
後半は、イディオンの記憶から表象されたもののようで、四年前に見た王都の景色があった。紫苑ザクラ。夏のブナ。秋のイチョウ。そうして、めくるうちに描かれていたのは、王都の夜の景色だった。
シェイラが翅で降りる場面。
それを、蛍モミの高台から見ているような構図であった。優雅に描かれていて、気恥ずかしい。
(あの時……)
はじめて出会った時、イディオンは、シェイラを見ていたのだ。
思い出す。じっと、幼い姿のイディオンが見てきた時のことを。
シェイラはぼうっと、最後の頁に至る。
そこには昨夜の日付けで、素描画があるだけだった。
シェイラの横顔が、描かれている。ためらいのない、けれどやさしい線で、描く指先でなでられているような気分になった。
「……こんな美人じゃありません」
朱を帯びたものから逃げるように言いわけを口にして、そこで隅に走り書きを見つける。怜悧な筆致で、さっと一言、綴られていた。
シェイラは、その字をしばらく見つめると、写生帳をゆっくりと閉じて、胸に寄せる。じんわりと感じたものに、顔を上げた。
──生きよう。
シェイラは、強く、思う。
〝あなたが失った隣は、ぼくの隣に〟
──生きて、必ずまた、イディオンの隣に戻ろう、と。
(第15章:冠を戴く者──了──)
【15章登場人物※再掲】
グシェアネス
ガルバディアの絶対女王。
エヴェリヤン
ガルバディア女王の王配。
ムディアン
ガルバディアの王太子。第二王子。
ティアラン
ガルバディアの王女。一番年下。




