294話:あの日の場所(2)
「──さっき、」
長すぎるほどの間が空いたのち、イディオンはやっと口を開いた。
「ムディアンから、王太子の地位を退きたいという話をもらった」
「……はい」
「魔法が使えなくなった以上、このガルバディアの王太子は務まらない。そういう話だった」
シェイラは、きゅっと唇を結ぶ。
「ぼくは、承諾も承認もできないと言った。母上は亡くなり、代理となる父もいなくなった。そうなると、次に権限を持つのはムディアンだ。そのムディアンから、地位を退きたいと言われても、困ってしまう」
「…………」
「ムディアンは、王廷会の承認があればいいと言った。それがあれば、王太子を退くことも、新たに立太子することも可能だ、と」
イディオンは、言い終えると顔を上げた。
その顔は、シェイラがよく知っている顔だった。自信がなさそうに不安そうなシェイラを見る顔。
「──ぼくは、どうすればいい?」
シェイラは咄嗟に立ち上がると、勢いのままにイディオンの頭を抱え込んだ。
覚悟してきたことなど、どうでもよかった。ただ、この青年が抱えてきたもの、抱えているもの、これから抱えなければいけないものを、今すぐどうにかしてやりたかった。
母の死。
父の裏切り。
弟妹たちの傷。
ほんとうは、イディオンだって、泣きたいはずだ。喚きたいはずだ。繊細な人なのだ。口にしないだけで、心はやさしく、今も血の涙を流している。叫び出したいほど悔いることもあるだろうに、己を律している。
シェイラは、それをどうにかしてやりたかった。
(わたしが……)
わたしがいます。
あなたの隣にいて、一緒にずっと抱えます。
──そう言えたら、どれだけよかっただろうか。
シェイラは、突き上げてきたかなしみと、どうしようもなく象られたもので、イディオンの頭を力強く抱えた。
「ぼくは……」
胸のなかで、イディオンが言う。
「──ぼくは、王になる」
頼りになる言葉とは裏腹に、腕は回ってきて、シェイラに縋りついてくるようであった。
「王になるよ、シェイラ」
イディオンは苦渋を吐き出すように決意を語った。
「王になって、ガルバーンを守る。国を守る。そのために、ぼくは、王子としてこの国に生まれた」
「……はい」
知っている。出会った時から、立派な信念を宿した人だった。ただ、石座から落ちてしまっただけで、その座に戻れば、立派になる人物であった。
「王族とは、そういうものだ。臣民に尽くし、国のためにある。ぼくはその役目をよく理解している。それが生まれてからの当たり前で、知識をつけた。自分を磨いた。そうであるから当然だ、と」
「……はい」
「今も、わかっているんだ。理解している。そうあるべきだ。そうでなければならない。これまで得られた自由を考えれば、ぼくは責務を果たすべきだとわかっている。だが──」
イディオンが、シェイラを上向いた。
「──あなたの隣に、いられなくなる」
その縹は、痛いほどシェイラに自身の感情を語っていた。
「ぼくは、あなたの隣に、ずっといると約束した」
「…………」
「その約束を、たがえることになってしまう。恩を、返せなくなってしまう……」
イディオンは、悄然と頭を下げる。
シェイラは、ただ、その頭を見つめた。銀色を見つめつづけて、しずかに、まぶたを閉じる。
「……もう、十分ですよ」
うまく笑えているだろうか。
「十分返してもらって、たくさん余るくらいです。だから……」
シェイラは、告げる。
「──お別れです、イディさん」
繰り返す。
「お別れです」
「シェイラ……」
イディオンが、ひどく傷ついた顔をした。
きっとイディオンは、シェイラに止めてもらいたかったのだろう。言ってほしかったのだろう。
一緒にいて、と。
シェイラは、つきっと、心ノ臓が痛む。筋膜が引っ張られたような痛みを覚えて、たえられずにぽろっと言う。
「でも……」
少し、笑みを向ける。
「……すごく、寂しいです」
途端に、イディオンに強く引き寄せられた。
寝椅子に倒れ込みそうになりながら、イディオンがシェイラの名を呼ぶ。頭を抱え込まれる。
「あなたの隣にいたい……ずっと。四年前、あなたがぼくを見つけてくれた時から」
「……はい」
シェイラは、弱音を吐くイディオンの頭をなでるようにする。抱え込まれているのに、慰めているのは、シェイラのほうであった。頭をなでながら、どうしようもなく打ち寄せてくる感情を凪ぐようにする。
しばらくすると、イディオンは腕をゆるめた。シェイラは解き放たれて顔を上げる。あとほんの少しで、ふれ合う距離。イディオンは、その距離を詰めようとした。
「──シェイラ、ぼくは、あなたを……」
シェイラは、しーっと指でイディオンの口を塞いだ。
「次に、会う約束をしましょう?」
それ以上を、シェイラは聞いてはいけなかった。指を下ろして、提案する。
「……次?」
願いだった。
「ええ。だって、南瓜のとろみ汁を飲ませてくれるんですよね?」
シェイラがおどけるように言えば、イディオンは、ぱっと顔を明るくした。それから、青年になってから見られるようになった笑みを、シェイラに向ける。
「ああ! 必ず、必ず……!」
シェイラは、はにかんだ。
「わたし、楽しみにしています」
笑みが見れて、胸が弾んだ。
「イディさんとまた会うまで。楽しみにして……生きていますから」
イディオンが、縹を瞠って、シェイラを見つめる。
「絶対に、生きて会いますから」
「……ああ、絶対。ぼくも、あなたに会うよ」
シェイラは、こくんと肯く。
それから、手首に結んでもらった組紐に魔力を流し込んだ。左手の小指、小石が並んだ指輪が光って、服飾魔術の魔法が輝く。{紐解き}の魔法は、シェイラの手首の組紐をほどく。それから、その瑠璃の石がついた紐をイディオンの手首にかける。
「──約束の証に」
シェイラは、祈って結んだ。
「イディさんを守ってくれますように。その道を、照らしてくれますように」
結び終えて、シェイラはイディオンを見上げる。
虚を突かれたイディオンは、シェイラの行動を見終えると、自分の組紐を{紐解き}した。それから、シェイラの結んであった手首に、縹の石がついた自分のを結んでいく。
シェイラは面映ゆく、結び終えるまで、その動きを見つめる。
(ユベーヌの一族では……)
使っていた装身具の交換は、結婚を約束した男女が交わすものであった。
イディオンは、そんなことは知らないだろう。
シェイラだけが、知っている。そう思って、イディオンを見た。
「なにか、祈ってくださいましたか?」
秘密を隠すように破顔する。
「もちろん、祈ったよ」
イディオンは当然だと怒ったように言った。
「なにを祈ったんです?」
「べつに言わなくてもいいだろ」
「わたしは声に出したんですから」
「それは、シェイラが勝手にやったんだ」
「教えてくださってもいいのに」
シェイラは、ぶすっと言った。
イディオンは、悪びれる様子もなくしれっとする。
「秘密だよ」
「意地悪ですね」
「次会ったら言う」
「ほんとうに?」
「ほんとう」
「絶対ですよ?」
「絶対」
シェイラはくすっと笑って、それからもうひとつ、約束を取り付けた。
「じゃあ、その時に、イディさんがどうして、魔法を使うのかも教えてください」
イディオンは聞くと、一瞬悩んだ様子を見せる。それから、真面目な顔になって、強く肯いた。
「──わかった。約束する」




