293話:あの日の場所(1)
シェイラはスヴェリに断ると、〈クチナシ酒場〉から出て、徒歩で城への道を戻った。冬の夜は皆が寝静まり、宵燈の光がうっすらのなか、霧除けの香炉だけが冷えきった空気に揺れる。
氷雨も、降っていた。シェイラは、頭巾を被って、やりすごす。それでも{撥水}に輝く布地の跳ね返しが、シェイラの体をつめたく冷やした。酒場であたたまっていた体は、王子宮に着く頃にはすっかりと凍えて、感覚をなにも感じなかった。
「──お久しぶりです、シェイラ師」
末広がりの階段を上がって、近衛に応接間に通してもらうと、すぐに青い髪の侍女がやってきた。
テニアだ。懐かしい。
シェイラは、四年前を思い出した。
「お久しぶりです、テニアさん」
「まさか、またお会いできるとは思っていませんでした。殿下からは聞いております。すぐに、あたたかいお茶を淹れて参りますね」
「ありがとうございます」
すぐに、アメリ草の香茶を淹れてきたテニアは、よく見ると腹が膨らんでいた。八ヶ月で、まもなく休みに入って、子を生むのだという。
「おめでとうございます」
シェイラが言えば、夫は、なんと赤髪の近衛ゼイドであるということであった。ふたりとも、襲撃の場に居合わせなくてよかったと思う。
「シェイラ師が、四年前に〈雲虹〉から夫を守ってくださらなければ、この子はいませんでした」
テニアはそう言いながら、うれしそうに膨らんだ腹をなでる。
「それは……お役に立てたようで、よかったです」
シェイラは、その姿をまぶしく見送る。
無理をさせてはいけない。
イディオンはまだ、戻ってきていなかった。
茶を飲み終えてから、シェイラはあの部屋へ向かった。四年前。ふたりでがんばった場所。ふたりで、乗り越えたあの日。
扉を開けると、紙吹雪が舞った光景を目の前に思い出す。
うれしくて、はしゃいだ。
あたたかな、日であった。
今は、つめたい雨夜に暗かった。部屋のにおいは変わっていない。書架と墨、それから、雪原の針葉樹もかすかに香る。イディオンが、あれからも使ってきた部屋なのだとわかった。
{灯火}でいくつか宵燈に明かりを入れると、部屋のなかがぽうっと光る。
部屋のなかは片づいていた。四年前にはじめて入った時は乱雑で埃だらけだったのが嘘みたいに片づけられ、整然としている。几帳面さが伝わる部屋は、一年留守にしていた場所でもきれいなままだ。テニアをはじめとした侍女たちが手入れをしてきたのだろう。
シェイラは、懐かしい記憶にそっとふれるように、歩き回った。置かれたものを手に取って、眺めたりさわったりする。
「──ごめん、遅くなった」
イディオンは、夜もすっかり更けた頃合いに、首元の襯衣をゆるめながら戻ってきた。
王子としての略装は、この一、二週間で見るようになった。首の締めつけが強いらしい。取った紐襟締を小卓に置き、ひとつに結った髪もほどくと、結んでいた飾り紐も一緒に置く。見慣れた、髪を下ろした姿になる。
「おかえりなさい」
シェイラは読んでいた本を閉じると、水差しから注いだ水をイディオンに渡した。礼を言って受け取ったイディオンは、一息に飲み干すと、空いている寝椅子に腰かける。シェイラは座っていた椅子に戻った。
対面するような位置になる。シェイラは床を見つめて、イディオンは顎に手を当て、前のめりに考えていた。
しばしの沈黙を破ったのは、イディオンだった。
「母上の死を、明日、貴族たちに開示しようと思っている」
シェイラは、イディオンが話しはじめたことを、ぼんやりと聞くようにした。
「皆、各地の霧を払うのに領地へ戻っているから、王族令で召集をかけるつもりだ。混乱がないように告げるつもりだが、おそらく動揺は走るだろう。母上の存在は、厄禍が来るとわかっているなかで揺るぎないもので、いつでも堂々としているさまは、皆の精神的支柱のような役割だった。……その横で支えていた父も」
「…………」
「ムディアンの存在も大きい。あいつは、母上に似て適当なところがあったが、裏表がなく快活な性格は人望があった。特に同年代の子女たちからは慕われていたから、今回の……」
イディオンは数秒黙り込んだ。
「魔法がほとんど使えなくなった、という事実は、不安になりやすい年頃の子女たちにいらぬ恐慌をもたらすかもしれない。伝え方に配慮する必要がある」
「……そうですね」
シェイラは、淡々と告げるイディオンの縹を見るようにする。
「母上の穴。父上の穴。ムディアンは……自分でどうにかする部分もあるだろうが、それでも、来たる厄災に備えて空いた穴を埋めなければ、ガルバディア全体に影響を及ぼす」
シェイラは、こくんと肯く。まちがいなかった。
また、沈黙があった。イディオンは、シェイラと目を合わせず、そのあいだも考えつづけているようだった。厳しい顔で、慎重に、考えをまとめているようだった。
シェイラは待つ。




