290話:父と息子
「──おかえり、イディオン」
父エヴェリヤンは、母の体を抱きながら、血の沼に浮かんでいた。バラムの石材は、赤い模様をいくつもいくつも描いている。
イディオンは一目で、母がもう息絶えていることを理解した。すうっと頭が鮮明になり、腹の底に自分を据える不動の岩を感じた。
イディオンは、エヴェリヤンに対峙する。
「──父上……満足ですか」
低い、声が出た。感情を失った声だった。
「満足ですか、父上」
「……満足すると思っていたのだがな」
エヴェリヤンは血濡れの顔を月の射し込む窓にやる。
「ちっとも足りる気がしない」
父の横顔は、魔力を失い枯れてしまった翡翠スギのようであった。ただそこに、光を失って立っているだけの枯れ木だ。もはや生気はない。
イディオンは、視線を移す。エヴェリヤンの片手には、蒼いファル石がふたつあって、それが母と、弟の魔力結晶であることがわかった。
「……ムディアンも、ですか」
「必要なもの、だからね」
「……ティアランは」
「ティアは、置いてきたよ。あの娘はまだ若いし、それに……」
エヴェリヤンは、ぽつりと言う。
「出会った時の、グシェアによく似ている」
返答に、イディオンは漆黒の手甲がきゅっと{伸縮}した。
父の、あまりにも身勝手な言い分に、歯の根が合わなくなるほど震え上がるような怒りが沸いた。奥歯を噛み、手甲を握り込んで、たえる。
「イディオン」
父は、枯れた縹色の目で、イディオンを見る。
「お前には、私の気持ちがわかると思っていた」
「…………」
「魔法を使うことが許されない私の気持ちが、お前ならわかってくれると思っていた」
エヴェリヤンは、月光に溜息を吐き出す。
「なぜ、私を裏切った」
「──妄言だな」
イディオンは、凄絶に失笑した。
「そんな言葉で、おれを揺さぶれるとでも?」
「…………」
「あなたの言葉には惑わされません」
「……そうか」
断じるイディオンに、エヴェリヤンは、ふっと目尻を下げる。
「強く、なったな」
無言のうちに、イディオンと父のあいだに交わされる縹があった。
石材に沈黙が落ちる。
「──よくやった、エヴェリヤン」
そうして、月光に照らされない影からぬっと{転移}してきたのは、リマス・ヘラインであった。
「これで、ふたつ揃った。〈冠を戴く偉大なる力〉と、〈冠を待つ偉大なる力〉だ」
リマスは、エヴェリヤンからふたつの石を受け取る。イディオンは、そのさまをねめつける。石を取り返そうという気は、イディオンにはなかった。それで目の前のできごとが覆るわけではない。
「やあ、イディオン王子。数日ぶりだね」
手元の石を懐に入れると、リマスは、母のぬかるみに長靴を浸す。
「これで、わかったかい?」
屈託なく笑う。
「いかに、君とシェイラの言う理想が、現実と乖離し浮き世離れしているか」
「…………」
「現実は酷だ。まさに、君も渦中にいる。魔法が絶対とされる世界、その国のひとつを治める王族さえ歪だらけで、エヴェリヤンのように、強い魔法のためだけに利用されるだけのものがいる。その心は救われず、かの〝絶対女王〟でさえ敵わない。残酷だとは思わないか?」
リマスは滔々と喋る。
「こんな世は、おしまいにしてしまったほうがいい。{朧竜}を討ち滅ぼせば、蟲はいなくなり、王族が力を振るわなければいけない時代もなくなる。偉大な力を継承せずにすむし、魔法が使えなくても使わなくても、問題ない。素晴らしい世だろ?」
「……どうやって倒す?」
リマスの酔った話し方は、イディオンを逆に落ち着かせた。
「呼んだところで、倒せなきゃ意味がないだろう」
「ああ、そのことかい?」
リマスは、ぬちゃぬちゃと足を進めて、母の玉体を眺めるようにした。
「だから、〈冠を戴く偉大なる力〉や他の力が必要でね。ノザリアンナの手記によれば、竜を召喚するのと同時に、竜を滅ぼす魔術でもある。すさまじい力を代償とするためにね」
「そんな簡単か?」
イディオンは、あえてばかにするように笑った。
「そんな簡単に、事が片づくと思うか?」
「……なにが言いたい」
リマスが不快そうに言う。
「ぼくは、{朧竜}とは簡単に倒せるものだとは思わない。厄禍も重なる」
「厄禍はこれで最後さ。僕たちが止めるからね」
「ほんとうか? 厳密に考え、計算したか? 見落としはないか? そもそも、ノザリアンナの手記に書かれていることは、正しいのか?」
「…………」
「ぼくは、お前たちがめでたい思想に取り憑かれて、決定的になにかを見落としているような気がしてならない」
イディオンが告げれば、リマスは、にやっと笑った。余裕のある笑みだった。
「そこまで言うなら、見るかい?」
「……なに?」
「{転写}したものなら見せてあげるよ。特に問題ないからね。マーロに運ばせよう」
リマスは言うと、父エヴェリヤンとともに、姿を消していく。父は黙した背中のまま、リマスは得体のしれない笑みを浮かべたまま、闇夜に潜むように消えた。
イディオンは、残された母グシェアネスのそばに膝をついた。膝に血と葡萄酒の混ざった色が移っていく。
「母上……」
月光に広がる銀の髪は、自分と同じ色をしている。死んだ母の顔は、イディオンが思うより安らかだった。メイベ・ガザンの死に顔と似ている。
「……ただいま、戻りました」
イディオンの声は、夜の静寂にしんと響いた。




