286話:兄王子と弟王太子
ムディアンは、夢見に、子どもの頃を思い出していた。
「ムディ、平気か? 疲れていないか?」
「大丈夫だよ、兄上。ティアも付いてきてる!」
ムディアンが五つくらいの頃だ。兄イディオンは八つになる歳、妹ティアランは三つになっていた。
離宮の木漏れ陽が心地よい林で、よく初夏からアベルの月にかけては、家族で静寂ノ日から数日を迎えることがあった。そんな一日のひとつが、浮かび上がってくる。
兄は、昔から弟妹思いで人がよかった。
「ティア、大丈夫?」
「うん!」
三人で出歩く時は、気にかける言葉を惜しまず、兄としての振る舞いを忘れなかった。神童と称されながらも、驕ることのないやさしい兄を、ムディアンはとても慕っていた。
ところが、年月を経ていくうちに、兄との関係は変容していく。
体が成長しない兄。どんどん成長していくムディアン。いつしか背丈は同じになり、背を追い越していく。それだけではない。魔法が使えない兄。母に近い〈導脈〉を持つムディアン。立太子されない兄と、立太子されることになった自分。
自分がまるで、兄を追い抜かしていくようだった。意図せず、兄を追い抜かし、弟である自分が兄の役目を負っていく。
王族としての重責や期待を肩に感じると、兄への敬意は増していった。これほどのものを背負いながら、弱音を吐かずにやさしい顔しか見せなかった兄が誇らしかった。
だが、気持ちとは裏腹に、兄と言葉を交わすことはなくなり、目を合わせることもなくなる。次第に、城から気配さえもなくなっていく。
「僕は、兄上が魔法を使えなくてもかまいません! 僕の兄であることは変わりません!」
久々に会った兄に、やさしい面影は見えなかった。下を向いた視線は、ムディアンがかけた言葉に反応せず、どこかへと向かっていく。
追いかけて、手を伸ばす。届かない。
「兄上……!」
声をあげると、シェイラータ導師の笑みが、ムディアンに向けられた。
「大丈夫ですよ」
兄のためにやって来た導師は、ある時、ムディアンを見つけると、言ったのだ。
「イディさんは、やさしいままですよ。弟思いのやさしいままです」
紫苑ザクラの秋葉にゆられるなか、当時十三だったムディアンに、導師は勇気を出してほしいと願った。
「少しだけ、自信がなくなってしまわれているだけです。だから、殿下から声をかけて差し上げてください」
「……だが」
兄は、自分を拒否するだろう。自分が持ち得たはずのものを、すべて奪っていった弟を許すことなどできないだろう。
「大丈夫です」
導師が、もう一度、笑う。
「きっと、喜びますよ。恥ずかしがり屋さんなだけですから」
言われたことは、ほんとうだった。
ムディアンからイディオンに声をかけるようにすれば、兄は気まずそうにしながらも、昔と同じように話してくれるようになった。自信なく俯きがちだった兄が、顔をあげてムディアンと接してくれるようになった。
兄弟仲が戻っていけば、妹も加わり、仲のよかった絆を取り戻すことができた。導師には、感謝してもしきれない。
成長する兄。実力をつけていく兄。周囲からまた、頼られるようになっていく兄。
ムディアンは、やっと、ほっとした。
(お返しします、兄上)
自分はただ、これまで預かっていただけにすぎない。
(ですが、まだ、預かっておきます)
大陸会議で、準師になったシェイラから聞いた話は、胸が痛くなるものだった。ムディアンでさえそうなのだから、兄イディオンは筆舌に尽くしがたいものがあっただろう。
「ムディ」
「なにも言わなくてもわかっていますよ、兄上」
ガルバーンを出立する時、イディオンは後顧の憂いを感じているようだった。
「シェイラータ準師を必ず射止めて来てください」
「そんなのでは──」
「はいはい、わかっていますわかっています。準師に恩を返したいんでしたね!」
「…………」
イディオンは、むっつりと黙り込んでしまう。
兄は父に似て寡黙なところがあったが、感情は兄のほうが豊かで、黙っていながらも、さまざまに思っているのだとわかっていた。シェイラへの感情も、自分や母が言うような単純なものでないのも、なんとなくわかる。
「どうか、その力で助けて差し上げてください。私も、準師には恩がありますから」
「……ああ」
「ねらわれている子どもたちも、どうか兄上の手で救ってあげてください。星詠みの告げる詩は、抽象的でまだわからぬことも多いです」
「…………」
「兄上の知恵と力を、多くの未来あるものに」
「……ああ、助けてみせる」
長外套を翻して、{転移}の光で消えていく兄をムディアンは見送った。
(帰還されるまで、私は務めを果たしてみせます)
それが、自分が兄に報いる最大限のことだ。
夜半、ムディアンは目を覚ました。開いた視界は、叢雲に月明かりを射し入れている。
頭が妙にくぐもっていた。
ムディアンは、もとより寝つきのよい熟睡型だ。基本的に朝まで目覚めることはない。いやなことがあっても、だいたい寝れば忘れてしまうし、気持ちのよい性格をしていると自分ながら思う。今日のように夜中に目が覚めるのは稀なことであった。頭が重たいせいかもしれない。
「水でも飲むか」
寝台から起き上がって、近くの卓に置かれている水差しへと向かう。
「──ああ、起きてしまっていたのか」
ふいに、父の低い音が聞こえた。やけに緩慢に寝室の扉が開かれる。
「父上……?」
水差しを手に取りながら、ムディアンは首をかしげる。
ゆらっと、父は揺らいで見えた。さながら、幽鬼のように戸の境に立っている。
「どうかされましたか?」
ぼたっ、という音がした。
ぼたっ、ぼたっ、と父の下がった手から、なにかが滴り落ちている。
朧に雲が霞んでいった。射し込む月光が、光量を増して、室内にやって来た父をくっきりと映し出す。
「父上っ?!」
その姿に、ムディアンは驚愕して、近寄った。血まみれの父がそこにいて、どこかを怪我しているのではないかと心配になる。
「どうされたのですか? 夜襲ですか? 護衛は? とにもかくにも、医療魔導師を呼んで……」
ふと、ムディアンは父の腕を取って気がついた。
汚れた外套は、父の血ではない。返り血を浴びたものだ。それも一人のものではない。もとの色がわからなくなるくらい、血を浴びている。
「父、上……?」
ムディアンは、つうっと、つめたい汗が落ちるような感覚を覚えながら、上背のある父を見上げた。父の背後に、扉の外に見知らぬ臙脂色の長外套を、複数見つける。いよいよ、ひやりとしたものを感じながら、仄暗い光をたたえた父の縹色を覗き込んだ時、腹深くに尋常ならざる痛みを覚える。
「くっ……」
ムディアンは、腹を折り曲げた。たじろぐ。体に、呪いが、呪術の力が侵食していく感覚を得る。
({守護}が……)
──効かない。効いて、いない。
ペリメル家の長男は、きちんと自分に{守護}をかけていったはずではなかったか。
思考を痛みが、阻む。体に深々と刺し込まれているのは、短剣だった。柄に〈完成された文字〉を認める。そこから、体中の〈導脈〉が吸い寄せられるようになる。凝集していく。
ムディアンは倒れ伏して、脂汗を浮かべて、見下ろす父を見た。
「父、上……!」
「……すまない、ムディアン」
(なに、を……)
声にならない悲鳴が、痛みとともに口角を伝う。体の細部という細部から、魔力が持っていかれる。
そのうち、ごろっと音を立てると、刺さった短剣の柄頭が産まれたように、蒼いファル石が転がった。
体に寒気が押し寄せる。急速に冷えていく。
「グシェアのもとへ……」
父は、血濡れのムディアンから興味がなくなったように視線を移すと、転がった石を取って踵を返していく。背後にいる長外套をまとった者たちを連れ立って、去っていく。
(兄上……!)
手を、伸ばす。
夢の残滓を掴むように、ムディアンは手のくうを掴んだ。




