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魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち【6/6完結予定】  作者: 稿 累華
第15章:冠を戴く者

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285話:ガルバディア王家の関係(2)

「──できません」


 イディオンは、そこから跪いた。母への願いではなく、自分への誓いでそうしているのだとわかった。


「シェイラが望みません。シェイラはきっと、王子である私ではなく、ひとりの人間としてでなければ……ぼくを見てくれない。隣にいさせてくれない」


「……イディオン」


「今のぼくがあるのは、彼女のおかげです。彼女がいなければ、今はなかった。ぼくは王都の影に沈んでいました。ひとりでは、自分を持ち直すことができなかった」


「…………」


「彼女に、この恩を返させてください。シェイラへの……個人的な感情からではありません。ぼくを救い出してくれた恩人に恩を返したいだけです。ですから、母上、お願い申し上げます。どうか、ご許可ください」


 頭を下げるイディオンに、グシェアは困ってしまった。

 グシェア個人としてであれば、許してやりたいし、愛の逃避行でもなんでもしてもらってかまわないが、グシェアは同時にガルバディアを治める国主であった。国損に発展しそうなことは許可できない。


「──よいのではないか」


 あぐねるグシェアに助け舟を出したのは、夫であり王配のエヴェリヤンであった。寡黙な夫は、ずっと静かに話を聞いていたが、ここに来て意見を口にした。


「ヤン」

「よいではないか、グシェア」


 夫は、わずかな笑みをたたえて言った。


「イディオンの穴は、なんとかなろう。最近、皆が頼りすぎたのだ」

「だがな……」

「言いたいことはわかる。イディオンは優秀だ。ずっと、外に出してやることはできない。だが、子の才をきちんと見極めることができなかった私たちが、恩人に恩を返したいという子の願いを無碍(むげ)にはできまい」

「…………」


「イディオン」

 エヴェリヤンは、跪くイディオンに言った。

「一年半、やろう」


「……はい」

「そのあいだに、返しておいで」


 おっとりとエヴェリヤンは告げる。


「スヴェリを遣わそう。時折、お前に意見を仰ぎたいこともある」


 スヴェリヤス・ノレンという特異体質の男を見出して、グシェアネスの前に連れてきたのは、他でもない夫であった。以来、スヴェリという男は、表向きグシェアネスの命で、その実は夫の命で動いている。


「お前も気になることや、私たちに助力を願いたいことがあれば、スヴェリに伝達しなさい」

「……はい」

「よいね?」

「……感謝申し上げます、父上」


 おだやかなエヴェリヤンの声音とはべつに、イディオンは数秒の間があってから、なにか思案する色を浮かべた。だが、振り払うようにして立ち上がる。


「では、明朝、出立いたします」


 言って辞儀をすると、イディオンは、去っていった。


 それからまもなく一年。イディオンは王都を留守にしている。王太子辞退を申し出たムディアンは、シェイラのためなら致し方ないと渋々我慢して、必要な務めをこなしている。だが、抜けた穴は、やはり大きかったとグシェアは嘆息する。



「──遅くまで、大変だったね」



 侍女長たちが就寝の挨拶をして出ていくと、ややもせぬうちに、エヴェリヤンが瓶を片手にやって来た。瓶は、ベルベ産の葡萄酒。硝子杯(ワイングラス)をふたつ。

 時折、こうして夫とは杯を交わしていた。夫は、グシェアネスのことをよくわかっていて、いつも疲れている日にこうして訪れてくれる。


「ほんとうにな。たまには、休ませてくれって思ってしまうよ」

「それだけ皆が、君の帰還を待ち望んでいたということだよ」

「王という名の、冠が付くものの帰還を、な」


 乾杯、と言うと、月光が射し込む窓辺で、ふたりは酒杯を交わした。

 窓から覗ける王都には、薄く霧が出ている。グシェアが出るほどの大物は出ないであろうが、〈蜈蚣(ごこう)〉くらいならば出るかもしれない。

 口のなかに広がったベルベの葡萄酒は、いつもより不思議とあまい味を感じるような気がした。霧を見ているから、そんな味を覚えるのかもしれない。


「……イディオンは元気にしているだろうか」


 今さっきまで、考えていたことを口にする。

 杯を空にすると、夫がとぷとぷと次を注いだ。珍しく、エヴェリヤンのほうは、ほとんど酒が進んでいない。最初の一口のみのようであった。


「スヴェリの報告では、息災なようだ。シェイラータ師と仲よくやっているらしい。今は、ヴェッセンダリアに戻っていると聞いたよ」


「あの子は、きちんと、シェイラータを口説き落としてきているんだろうね? 変なところで、及び腰なところがあるから、心配で仕方ないよ」


 期日はあと半年だ。それまでに、シェイラをどうにかしてもらわなければ、国を留守にされている弊害が出てしまう。厄禍も、来る。イディオンは、王族として、大任を果たす義務がある。


「……私の血を引いているからね。用心深いんだ。大丈夫かどうか、石橋を叩いて渡る」


 たしかに、豪放磊落(ごうほうらいらく)なグシェアネスとちがって、エヴェリヤンは熟慮断行だ。


 ふわっとする頭で、そう思う。

 たいした量を飲んでいないのに、いつもよりぼうっとする。心なしか、胃のほうは焼けるような感じがした。疲れているからだろうか。


「愛を伝えるなら、よく見て、よく考え、一番効果的な場面で伝える。どんな伝え方をすれば落ちるか、練るんだ。私も頭を使ったもんだよ」


 視界が歪んだ。目が霞む。

 いよいよ、グシェアは、自分がおかしいことに気がついた。立ち上がると、ふらっとして、近くにある調度に手をつく。


「ヤ、ン……っ」


 まさか、とグシェアは、ぐらぐらと揺れる視界で夫の影を捉えた。


 そんなことはない。

 グシェアの思考が言った。


 夫は、そんなことをするはずがない。

 自分たちは、たしかに、助け合ってきた。愛し合っていたはずだ。五十年以上、そうしてきたはずだ。


 ぐらつく現実とめまいのするような思考が合わさって、吐き気を覚える。


「……君への気持ちはたしかだ。なのに、」


 エヴェリヤンも立ち上がった。グシェアネスの傾ぐ体を支えるようにする。


「……ヤ、ン」

「私はずっと……なにかをさがし求めている」


 瞬間、グシェアのこめかみを、振るわれた葡萄酒の瓶が、がんっと衝いた。

 体が、傾いた。意識が、遠のく。


「……少し待っていてくれ」


 夫の靴の音。おだやかでやさしく叩く踵の音。

 ──ヤン。……エヴェリヤン。


「ムディアンを連れてくる。今はすっかり寝入っているはずだ」


(……ムディ、アン)


 倒れた周りには、粉々になった硝子瓶と赤い葡萄酒。そこに、流れる血も混ざる。体に力が入らない。〈導脈〉が動かせない。


(……逃、げろ)


 逃げてくれ。


「また、戻ってくる」


 エヴェリヤンが居室をあとにする扉の音を聞きながらも、グシェアネスは動くことができなかった。

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