285話:ガルバディア王家の関係(2)
「──できません」
イディオンは、そこから跪いた。母への願いではなく、自分への誓いでそうしているのだとわかった。
「シェイラが望みません。シェイラはきっと、王子である私ではなく、ひとりの人間としてでなければ……ぼくを見てくれない。隣にいさせてくれない」
「……イディオン」
「今のぼくがあるのは、彼女のおかげです。彼女がいなければ、今はなかった。ぼくは王都の影に沈んでいました。ひとりでは、自分を持ち直すことができなかった」
「…………」
「彼女に、この恩を返させてください。シェイラへの……個人的な感情からではありません。ぼくを救い出してくれた恩人に恩を返したいだけです。ですから、母上、お願い申し上げます。どうか、ご許可ください」
頭を下げるイディオンに、グシェアは困ってしまった。
グシェア個人としてであれば、許してやりたいし、愛の逃避行でもなんでもしてもらってかまわないが、グシェアは同時にガルバディアを治める国主であった。国損に発展しそうなことは許可できない。
「──よいのではないか」
あぐねるグシェアに助け舟を出したのは、夫であり王配のエヴェリヤンであった。寡黙な夫は、ずっと静かに話を聞いていたが、ここに来て意見を口にした。
「ヤン」
「よいではないか、グシェア」
夫は、わずかな笑みをたたえて言った。
「イディオンの穴は、なんとかなろう。最近、皆が頼りすぎたのだ」
「だがな……」
「言いたいことはわかる。イディオンは優秀だ。ずっと、外に出してやることはできない。だが、子の才をきちんと見極めることができなかった私たちが、恩人に恩を返したいという子の願いを無碍にはできまい」
「…………」
「イディオン」
エヴェリヤンは、跪くイディオンに言った。
「一年半、やろう」
「……はい」
「そのあいだに、返しておいで」
おっとりとエヴェリヤンは告げる。
「スヴェリを遣わそう。時折、お前に意見を仰ぎたいこともある」
スヴェリヤス・ノレンという特異体質の男を見出して、グシェアネスの前に連れてきたのは、他でもない夫であった。以来、スヴェリという男は、表向きグシェアネスの命で、その実は夫の命で動いている。
「お前も気になることや、私たちに助力を願いたいことがあれば、スヴェリに伝達しなさい」
「……はい」
「よいね?」
「……感謝申し上げます、父上」
おだやかなエヴェリヤンの声音とはべつに、イディオンは数秒の間があってから、なにか思案する色を浮かべた。だが、振り払うようにして立ち上がる。
「では、明朝、出立いたします」
言って辞儀をすると、イディオンは、去っていった。
それからまもなく一年。イディオンは王都を留守にしている。王太子辞退を申し出たムディアンは、シェイラのためなら致し方ないと渋々我慢して、必要な務めをこなしている。だが、抜けた穴は、やはり大きかったとグシェアは嘆息する。
「──遅くまで、大変だったね」
侍女長たちが就寝の挨拶をして出ていくと、ややもせぬうちに、エヴェリヤンが瓶を片手にやって来た。瓶は、ベルベ産の葡萄酒。硝子杯をふたつ。
時折、こうして夫とは杯を交わしていた。夫は、グシェアネスのことをよくわかっていて、いつも疲れている日にこうして訪れてくれる。
「ほんとうにな。たまには、休ませてくれって思ってしまうよ」
「それだけ皆が、君の帰還を待ち望んでいたということだよ」
「王という名の、冠が付くものの帰還を、な」
乾杯、と言うと、月光が射し込む窓辺で、ふたりは酒杯を交わした。
窓から覗ける王都には、薄く霧が出ている。グシェアが出るほどの大物は出ないであろうが、〈蜈蚣〉くらいならば出るかもしれない。
口のなかに広がったベルベの葡萄酒は、いつもより不思議とあまい味を感じるような気がした。霧を見ているから、そんな味を覚えるのかもしれない。
「……イディオンは元気にしているだろうか」
今さっきまで、考えていたことを口にする。
杯を空にすると、夫がとぷとぷと次を注いだ。珍しく、エヴェリヤンのほうは、ほとんど酒が進んでいない。最初の一口のみのようであった。
「スヴェリの報告では、息災なようだ。シェイラータ師と仲よくやっているらしい。今は、ヴェッセンダリアに戻っていると聞いたよ」
「あの子は、きちんと、シェイラータを口説き落としてきているんだろうね? 変なところで、及び腰なところがあるから、心配で仕方ないよ」
期日はあと半年だ。それまでに、シェイラをどうにかしてもらわなければ、国を留守にされている弊害が出てしまう。厄禍も、来る。イディオンは、王族として、大任を果たす義務がある。
「……私の血を引いているからね。用心深いんだ。大丈夫かどうか、石橋を叩いて渡る」
たしかに、豪放磊落なグシェアネスとちがって、エヴェリヤンは熟慮断行だ。
ふわっとする頭で、そう思う。
たいした量を飲んでいないのに、いつもよりぼうっとする。心なしか、胃のほうは焼けるような感じがした。疲れているからだろうか。
「愛を伝えるなら、よく見て、よく考え、一番効果的な場面で伝える。どんな伝え方をすれば落ちるか、練るんだ。私も頭を使ったもんだよ」
視界が歪んだ。目が霞む。
いよいよ、グシェアは、自分がおかしいことに気がついた。立ち上がると、ふらっとして、近くにある調度に手をつく。
「ヤ、ン……っ」
まさか、とグシェアは、ぐらぐらと揺れる視界で夫の影を捉えた。
そんなことはない。
グシェアの思考が言った。
夫は、そんなことをするはずがない。
自分たちは、たしかに、助け合ってきた。愛し合っていたはずだ。五十年以上、そうしてきたはずだ。
ぐらつく現実とめまいのするような思考が合わさって、吐き気を覚える。
「……君への気持ちはたしかだ。なのに、」
エヴェリヤンも立ち上がった。グシェアネスの傾ぐ体を支えるようにする。
「……ヤ、ン」
「私はずっと……なにかをさがし求めている」
瞬間、グシェアのこめかみを、振るわれた葡萄酒の瓶が、がんっと衝いた。
体が、傾いた。意識が、遠のく。
「……少し待っていてくれ」
夫の靴の音。おだやかでやさしく叩く踵の音。
──ヤン。……エヴェリヤン。
「ムディアンを連れてくる。今はすっかり寝入っているはずだ」
(……ムディ、アン)
倒れた周りには、粉々になった硝子瓶と赤い葡萄酒。そこに、流れる血も混ざる。体に力が入らない。〈導脈〉が動かせない。
(……逃、げろ)
逃げてくれ。
「また、戻ってくる」
エヴェリヤンが居室をあとにする扉の音を聞きながらも、グシェアネスは動くことができなかった。




