281話:イディオンの答え(1)
強い感情が過ぎ去っていくと、シェイラの胸の裡には、すうっと背筋を伸ばす軸が入ったように、足がしっかりと立つのがわかった。
イディオンの胸から離れるようにして、硬い石煉瓦の床を感じる。あたたかな心地よさとともに、雪原の針葉樹の香がふわっと鼻腔をくすぐると、シェイラはイディオンを見た。
「どうした?」
イディオンが、軽く首をかしげる。シェイラをやわらかに見つめる。
ふと、胸の底から、いつか覚えた、秋の陽だまりのようなぬくもりが、閑やかにシェイラのなかに満ちていくのがわかった。侘しく、虚しく、びょうびょうと吹きつけていた洞に、琥珀色の樹液が注がれるように、満ちていく。
(イディさん)
──イディオン。
シェイラのなかで、象られていくものがあった。
角墨で描かれていくような線が、形を取っていく。満ちてきたものは、当たり前になじんで、ぽうっと灯る防霧林のように、沁みていく。
「……いいえ」
シェイラは、そっとそこから距離を置くように、一歩下がった。
「なんでも、ありません」
笑って、距離を取る。
(いけません)
同時にせり上がってきたのは、あらがいようのない、かなしみであった。
(わたしは、愚かですね)
──ずっと、言いわけをして、逃げてきたのに。
期限。歩幅。年齢。
全部、詰められてしまった。詰めてしまった。
(寿命はあと少し……)
それが、シェイラの胸を衝く。
(大丈夫)
シェイラは、ちらっと、自分とイディオンの揃いの組紐を見る。
──ちゃんと、ひとりで立っていられる。
象られたものを拭うようにして、シェイラは落ち着いた声でイディオンに尋ねる。
「少し、整理の時間をもらってもいいですか?」
「ああ、もちろん」
イディオンはすぐに首肯した。
ふたりで頭を冷やすために、露台から外に出て、塔の屋根に登った。冷たい風が吹きつけてきたが、シェイラの胸に満ちたものはあたたかい。寒さは感じなかった。
「先生が、生きていました」
シェイラから、口火を切った。
振り払うように、頭を切り替えていく。
「……団長、と言っていたな」
その罪、その行動を追っていた組織の主が、かつての師であった。死んだと思っていた者が生きていた。
シェイラは、皮膚の下に宿る〈命脈〉を視る。銀色の賦活する魔力は、師の命を犠牲にしたものではなく、自分自身の命そのものであったのか、と思うと、少しだけ昔の罪悪感から解放される気がした。
「師匠を殺したのも、先生ですね」
「……おそらくは」
ガザンは、リマスに殺されたのだ。
べつの悲しみが思い出される。
「このヴェッセンダリアに、簡単に入り込んできました」
ヴェッセンダリアには、強靭な{防護}、侵入を検知する{索敵}の結界が、塔ノ都全体を囲う城壁より張られている。加えて死んだガザンの{拡張}によって、鉄壁の防御を誇っていたのだ。
そこに、易々と侵入を果たした。おそらく、常々ちらつく{隠匿}の呪術に他ならないであろう。
「はじくか?」
表象魔導であれば、はじくことができるだろう。その逆算から、ヴェッセンダリアのほうで再現もできるはずだ。
だが、シェイラは首を振る。
「明日も来ると言っていました。はじくなら、明日も話したあとのほうがいいでしょう。先生に聞かねばならないことがあります」
「魔法が絶対とされる世界を討ち滅ぼすと言っていた方法だな」
「そうです」
魔導師ノザリアンナの手記と言っていたもの。
「{朧竜}を破壊する……そんなことが、可能なのか?」
イディオンのつぶやくような問いに、シェイラはいらえる。
「ノザリアンナの呪術であれば……、代償を払えば、あるいは……」
そういうことか。
シェイラは、気がついた。気づくとともに、怒りが地の底から沸いてくる。
「子どもたちと師匠を殺したのは、代償として捧げて{朧竜}を呼び、破壊するため……黎明の世を、導くため……」
体全身に、力が入った。
「……まちがっています」
シェイラの口からは、滲む火の粉があった。
だれかの犠牲があって導かれる世なんて、おかしい。今の人間の苦しみを犠牲にして、新しい世界を築くなんて、あってはならない。
「ああ、まちがっている」
イディオンも、同じものを感じているようだった。菱形雪華の手甲が握りしめられている。
互いのあいだに、無言のうちに交わされる怒りがあった。
「──シェイラ」
寸刻の沈黙を経ると、イディオンの怒りがやわらいだ。いつの間にか、拳がゆるめられている。
「あなたが、数年前、ぼくに訊いたことを覚えているか?」
シェイラは変わった話題に、首をかしげる。
「どれのことを言ってますか?」
イディオンとは、いくつも話をした。示されているものがわからなかった。
「あなたが、王都に出た〈蒼鷹〉を倒し、しばらく寝込んだあとのことだ」
「それは……」
シェイラは、思い出す。
そういえば、あの頃に、いつの間にかイディオンに〈命脈〉のことを知られてしまったのであった。
胸の奥に今しがた象られたものが、刺すようなかなしみとともに思い出される。
「……覚えていますよ」
シェイラは、か細く応じる。
「──あなたは、なぜ、魔法が使えないことが起きるのか、と訊いた」
感傷的になって、そんなことを訊いたのだ。
「……ぼくは、その時、わからないと答えた」
「…………」
「今のぼくは、その答えを持ち合わせていない、と」
四年前のことが彷彿とした。
シェイラと、まだ小さかったイディオン。
とても懐かしくて、シェイラは、夜空を見上げる。
「ずっと……考えていたんだ。いつか、あなたの問いに答えようと」
視線を、縹色に合わせる。しずかな驚きで、産毛が揺れるようであった。
「リマス師は、魔法があるから、魔法が使えないということが起きる。そう言っていた。それはある種、ひとつの命題だと思う。魔法がなければ、魔法が使えないということは起きない。そもそもないのだから、起きようがない。そういうことなんだろう。
だが、同時に誤謬だ。真であるようで、そうではない。ひょっとしたら真に聞こえるまやかしで、思考の停止だよ。突き詰めて考えきれていない。──ぼくが出した答えとは、ちがう」
不思議な気持ちになって、シェイラは尋ねる。
「イディさんの答えは……なんですか?」
かつての問いの答えは、なんだろうか。
「魔法があるから、じゃない。〈魔法が使えない〉を生んでいるのは、ぼくたちが暮らしている枠組みそのものだ」
「枠組み……?」
「魔法が使えないことを問題としてしまう構造そのもの。──それが、〈魔法が使えない〉の正体だ」




