280話:シェイラの誇り
シェイラは、リマスの話が、ぬるりと細く紫煙のように入り込んできて、なにも言い返すことができなかった。
(先生が言っていることは……真実)
ヴェッセンダスから聞いたこと。
その内容を、理解しきってはいけない。無意識に拒否反応を覚えていた思考が、リマスの話が入り込むことで、一緒に理解に至った。
──世界の真実は、おぞましく、肯定しがたいものであった。
箱庭。リマスは、そう言った。
(わたしも、同じでした)
ヴィクトルと同じく、シェイラもまた、このサージェシアという魔法の箱庭で、{導線}を走らされていた、駒のひとつでしかなかったのだ。
ぱらっ、ぱらっ、と自分を構成する輪郭が剥離して落ちていく。
(わたしの願いは……)
ヴィクトルとシェイラのあいだに起きたできごとも、箱庭のなかの上映にすぎなかった。
──もう、ずっと、先を描くことができずにいた。
母が死んだこと。〈導脈欠損症〉だったこと。呪術に手を出し、命を削り、ヴィクトルに別れを告げられたこと。アノンが殺され、リヨンの魔法が奪われ、ガザンも死んだ。一年で、シェイラの命脈も尽きる。
それでも、希望が、あった。
(……同じ目に遭ってほしくなかったのです)
子どもたち。関わった教師や教導師、魔導師たち。彼らと会って、関わって、シェイラは知ったのだ。
シェイラと同じように魔法が使えなくても、どうにか互いを知り合って、理解し合えれば、使えないながらも、自分たちで新しい道を知っていく。うまくいけば、自分なりの新しい魔法だって獲得できる。呪術に手を伸ばさなくても、わかり合っていくことで、できることがある。
それが、シェイラの唯一の希望だったのだ。
──それさえも、箱庭のなかのできごとであった。
(わたしの苦しみも……)
作られたもの。
(魔法があるから……)
魔法が使えないということが起きる。
真だ。リマスの言っていたことは、正しい。
シェイラは、魔導師たちによって作られ、淘汰されていくしかない世界で、ただ近視眼的な目線で、使えなくて苦しんでいる子たちを欺き、無理をさせていたにすぎない。
シェイラは、暗黙のうちに、おぞましい世界に加担していたのだ。
体の輪郭が、崩れ去る。原初の常闇より、呪いの手が現れて、底のない、定義を受けない闇へと引き摺り込んでいく。
「──シェイラ」
ふいに、柳弦の音が聞こえた。
「シェイラ、聞いて」
イディオンが、シェイラの前にいた。
塗り潰されていく思考、染まっていく視界、そういうなかでも、イディオンの雪白は、いつでも皓々と輝いている。
「シェイラは、まちがっていない」
イディオンが、シェイラの両手を取った。揃いの、組紐が目に入る。
「シェイラがやってきたことは、まちがいなんかじゃない」
縹のなかに流れる、青銀の魔力が輝いている。
「絶対にまちがいじゃない。ぼくが、その証拠だよ。苦しかったぼくを、あなたが見つけてくれた。隣に来てくれた。同じ苦しみを知っているあなただけが、ぼくを見つけてくれた。導いてくれた」
イディオンは微笑する。だが、次の瞬間には、掴まれた両手に、ぐっと力が入った。
「それが、まちがっている? それが、無理やり? がんばらせた? そんなわけ、ない。そんなわけがあるものか」
イディオンが怒りを覚えているのだとわかった。
シェイラは、イディオンを見つめる。凪いでいく怒りの先を、かつて青銀の魔力の流れに乗ったようにさがす。辿り着いた先は、清廉で、どこまでも広大な針葉樹の雪原であった。
「──あなたは、生きる術を教えてくれたんだ」
両手が引かれるままに、ゆっくりと体が引き寄せられた。
「世界を変えよう。言うことは、簡単だ。その方法がある? たしかに、あるかもしれない。だけど、世界を、人を、変えることなんて簡単なことじゃない。そんなこと戯言だ。人ひとりだって変えるのも、変わるのも、難しい。それなのに、千年以上つづいている世界を黎明に導く? すぐに、できやしない。簡単にできるというのであれば、なにかを見誤っている」
「……でも、」
シェイラは、つぶやく。
「世界を変えなければ……変わらなければ……」
自分たちのように苦しむ人間は、根本から救うことができない。
リマスの言っていたその言葉は、真実だ。
「ああ、そうだ」
イディオンも、否定しなかった。
「そうだよ。ぼくも、ヴェッセンダスから聞いて思った。変えなければいけない。この魔法があふれる大陸で、敵というものが作られて、よりその敵を倒すことに最適化しつづけた世界を変えなければ、ぼくたちと同じ苦しみを持つ人々が生まれてしまう。蟲によって、多くの人々が恐怖し、身近な大切な人を失ってしまう。悲しみを生みつづけてしまう。それは、変えなければならないものだ」
「…………」
「だが、それとシェイラがやっていることは、話がべつだ。たとえ、つらく、苦しい社会で生活であったとしても、今を生きるぼくたちは、そのなかで生きていかなければいけない。今を生きるとは、そういうことだ。今を生きているからこそ、からくも、そのなかで生きていかなければならない。だからこそ……」
イディオンの腕に力が入る。澄んだ針葉樹のにおいが、強くなった。
「シェイラ、そのなかで、生きる術を教えてくれたあなたに、ぼくは、心から感謝している」
シェイラは顔を上げる。
「生き残る手段を教えてくれた。ぼくという人間に、できそこない、という紙札を貼っておしまいにするのではなく、ひとりの人間として向き合ってくれた。ただ、当たり前に隣にいてくれた。
世界を変えると言うのは、たやすい。今目の前にいる人間に向き合うこと。真剣に向き合いつづけること。それは、たやすいことではない。たやすくないからこそ、それが、大きくなにかを変えるための一歩ではないか、とぼくは思う。
だから、あなたがこれまでやってきたことは、決して、まちがいなんかじゃ──ない」
やさしい、断言であった。
シェイラは、聞いて、しんと受け容れる。
イディオンの言葉を、感じる。
見上げる。
かつての自分が、そっと涙した。
「はい……イディさん」
シェイラは、ぼろぼろとこぼしながら、懸命に告げる。
「ありがとう……ございます」
イディオンが苦笑する。
「ありがとうは、ずっとぼくの言葉だよ」
シェイラは、瞠目して、それから、今度は笑む。
「はい……どういたしまして」
イディオンも、笑う。
(イディさん……)
シェイラの誇り。
シェイラが見つけた、冴え冴えとした白銀の光。
その光に照らされると、呪いの手は、もうどこにもシェイラのなかに見当たらなかった。




