266話:呪了と瞑想(1)
メイベは、書き物机で書をめくる。机上の宵燈は、かけた眼鏡を反射し、暖色の光は、彩色写本の金を浮かせ、黄金色の輝きを具現化させる。
古い魔導書は手間暇のかかる写本からなるものが多い。今ではほとんどが{自動}による魔術で{転写}されるが、古いものは、手間をかけた分、書自体に宿る魔法も強大であるものが多かった。分業によって成り立つ写本であれば、工程ごとに関与する魔術師が異なりながらも、一冊の完成を目指すことで、力を結びつける。そこにはおそらく、廃れてしまった魔法や魔術、あるいは魔導と呼ばれる強い魔法も残されているはずであった。
メイベをはじめとして、ヴェッセンダリアの魔導師たちは、そういった廃れた魔法を呼び起こし、今の時代に蘇らせることも生きがいとしていた。
頁をひらっとめくる。
ふいに、いくつか置いた燭台の蝋燭が揺らめいた。窓は締め切られ、夜更けの扉も閉じている。懐かしさを感じる沈香の豊かな香りが、蝋燭の陽炎に生じる。
「──やあ、こんばんは」
闇から滲み出るようにして現れた男は、久闊を除するようにそう言った。人を警戒させない声は、不思議と親しみを覚えやすい。けれど、それゆえ不気味さを助長させ、メイベは老眼鏡から上目で、男を見定めた。
「この老師メイベ・ガザンの執務室に、よくぞ入り込んだものね」
ちらっと、もう一人も捉える。真白の長い髪。女だ。両目を閉じて、男の肘を拠りどころにするようにして立っている。
メイベは、老眼鏡を置いた。重い腰を上げて、立ち上がる。瞑想をするようにして、緋色の眼を俯瞰させる。
「そろそろ、眠りにつこうと思っていたのよ?」
「それは失敬。研究の邪魔もして悪いね」
「あら、邪魔をした認識があったの?」
「もちろんあるさ。僕は、できるだけ人の迷惑になりたくないと思っているからね」
ぬけぬけと、男はそう言う。
「……そう」
メイベは、男に笑みを向ける。女のほうへの警戒も怠らない。
塔ノ都全体に張り巡らしているメイベの{拡張}の枝をかいくぐったのは、きっとこの女の魔法だ。易々と、研究室にまで入り込んできた。
(道理で、シェイラが突き止められないわけね)
完璧に存在を隠匿されてしまうのであれば、{拡張}の枝には、引っかからない。メイベの薫陶を受けているシェイラの目も誤魔化せてしまうだろう。厄介な連中だ。
思いながら、メイベは口を開く。
「──久しぶりね、へライン」
「おや?」
「一度しか会ったことがないけれど、覚えているわよ? 姓名で言ってあげましょうか?」
メイベは、笑みを深めながら、男をねめつける。
「──リマス・ヘライン。……生きていたのか」
「覚えてもらっていたのは、うれしいね。三百年近く生きているのであれば、多くの人間と出会ってきただろうに、僕なんかを覚えているのか」
男は──リマスは、屈託なく笑いながら、大仰に両手を拡げる。左手の義手が、宵燈と蝋燭に照らされて、ぬらりと真鍮の輝きを放っていた。
「忘れてしまうことも多いけどね。お前のことはよく覚えている」
「へえ?」
「腐った笑みを浮かべる邪な人間が、準師になったものだと記憶に焼きついていたのよ」
「邪な、か。たしかに、少し前までの僕は、絶対に満たされぬものを、自分の欲望を満たすことで一時的に凌ぎながら生きてきたが、他人から見るとそういうふうに見えたんだね」
「お前からは、悪臭が滲み出ていた」
「うまく隠してきたつもりだけどね?」
「わかるものは、わかるだろう」
メイベの睨み、リマスの笑みがぶつかる。無言の攻防は、リマスの真面目な声音で打ち消された。
「今では心を入れ替えたんだ。今は大義のために動いている」
「世迷い言を」
「ほんとうさ。……シェイラにも、心から詫びたいと思っている」
「…………」
「僕の教え子を引き取ったのは君だろう? 君が師になったのなら、安心だと思っていた」
リマスは、空いている長椅子に腰かけた。癖のある長い赤毛が、座面に広がる。白髪の女もまた、リマスに導かれるようにして座った。
「君になら、あのかわいそうな子を託せると思ったよ」
「……シェイラは、お前の呪術の巻き添えになった」
「あれは、完全なる事故だった」
リマスは、悪びれもなく話す。
「強い願いというのは、時に魔法に思わぬ作用を与える」
「…………」
「ほんとうなら、シェイラの命は、僕の皮膚下に宿って魔法の力となるはずだったんだ。だけど、シェイラの強い願いが拮抗した。僕にも影響を与え、斑と螺旋を黒白と描き、なにが起きるのかわからないまであった。だから、僕はその場で自分の左手を切り落とし、シェイラの流した血と、大量に出血させた僕の血で魔法を絶たなければ、あのあたり一帯を吹き飛ばしていたかもしれない。転移晶石を持ち歩いていなければ、離脱できなかっただろうね」
リマスは胸元から、革紐に付けられた露草色の石を取り出した。{転移}が宿っているであろうファル石は、暖色にも冴えた光が宿る。
「一週間、生死をさまよったよ。あれが……、僕の人生を変えるきっかけになった。シェイラにはある意味感謝している」
「……シェイラは、寿命を削ったわ。あと二年もない。お前のせいであろう」
メイベが冷たく返せば、リマスは、漆黒で塗りつぶされた虹彩を見開いた。それから、心底残念そうにつぶやく。
「……そうか、シェイラもか」
リマスは、虚空を見るようにした。不思議と、間ができる。




