262話:精霊女王の愉悦
シェイラが青ざめるのとは逆に、イディオンは、冷たい目で女王エレンシアを判じていた。
(知らないは嘘だ)
エレンシアの瞳孔は開き、光沢のある唇は、わずかに震えている。透けた薄衣から見える腕には力が入っていた。
(動揺、ではない)
千六百年を生きる人間。よほどのことがない限り、うろたえることなどないだろう。では、なんであろうか。
(怒り……?)
それでもない。虹色の双眸は興奮しているが、怒りではない。
(ならば……)
「──知りはせぬが……」
愕然とするシェイラに、エレンシアは近づいた。素足を茨に進めても眉ひとつ動かさず、小首をかしげる。口元を隠すように指を扇のように開いて、鋭い爪が細い花びらのように見えた。
「助力はできるかもしれぬ」
「ほんとうでございますか……!」
シェイラの顔がぱっと明るくなったのに対して、エレンシアがほんの一瞬口角を上げるのを、イディオンは見た。
(これは……)
──楽しんでいる。
エレンシアは、なにかを楽しんでいる。
「ヴェッセンダスを訪ねるがよい。やつなら、我が知らぬことも知っている」
「……ヴェッセンダス? 十二番目の魔導師ヴェッセンダスでございますか?」
イディオンがエレンシアを見定めているあいだに、シェイラが驚愕に訊く。
「おや、知らぬのかえ?」
「ご存命でいらっしゃるのですか……?」
「よもやよもや、ヴェッセンダリアの魔導師が知らぬとは……足元ほど見えぬとはよく言うものだえ」
エレンシアは、わかりやすく、ついっと唇に弧を描き、やさしげな虹色の目をシェイラに向ける。
「ヴェッセンダリアには、我ら十二人の弟子を模して、十二人の老師どもがおりゃ?」
「……はい」
「その列席一番目は、だれが座っておる?」
「存じ上げません……」
ヴェッセンダリアの十二老師は、およそ全員が揃ったことがない。時間の魔導師ドゥエルタをはじめ、皆、魔導を極めるために塔ノ都にいないことが多い。その姿を全員見たことがあるものは、老師たちのなかにもいないかもしれない。
一番目もまた、ドゥエルタ同様、魔導の旅へと出ているのであろうと言われていた。名前もわからぬのが一番目。そう、言われている。
「では、一番目の老師が……」
「ヴェッセンダスだえ。魔導の知識だけを溜め込む老いぼれじゃ」
「…………」
「そなたらは、新しい魔法を見つけるたびに、ヴェッセンダスに伺いを立てているであろ?」
エレンシアの言葉で、イディオンはシェイラに目を向けた。シェイラも、イディオンを見る。
──ヴェッセンダスの智と書架の魔導。
シェイラも、イディオンも、{登録}を受けた。
それが、魔法の名前ではないと知る。魔導師ヴェッセンダス。その人物が行使する魔法のことを言うのだ、と理解に至る。
「──あの老いぼれに訊くがよい。朧の竜を知るか、と」
イディオンは、女王をもう一度見上げる。千六百年を生きる魔導師は、やはり噛み殺しきれない笑いをたえている。
「あの知識を溜め込んだものでありゃ、知るであろ」
(愉悦だ)
イディオンは、エレンシアがたえているものを判定した。
この女魔導師は、愉悦をもって、シェイラの願いを聞いているのだ。
イディオンは、腹の奥底に沸き立つ岩漿の怒りを感じないようにしながら、つめたく冷えた頭で女王を見つめる。
「──陛下、罪人をお連れしました」
話のさなか、テベディヴではない、べつの番人と思しき女が、縄につながれた一人の男を連れてきた。白金に遊色たたえた虹色の目を持つ男には、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。
「多いのう」
エレンシアは、寝椅子に戻ると、後ろ手をつきながら罪人の男を見下ろす。
「そなたは、自分がなにをしたかわかっておりゃ?」
「へ、陛下……麗しき、精霊女王、ど、どうか、わ、私から虹の目は、虹の目は取らず……!」
「取るに決まっておろ?」
エレンシアは、くうでなにかを掴みあげるような仕草をした。一瞬だった。途端に、男がひどい悲鳴を上げて、喚き、玉薔薇の上でのたうち回りながら両目を押さえる。
イディオンたちが絶句しているあいだに、女王は掴みあげたものをそっと後ろに放り投げた。ぽわんと、泡のように弾けたものは、茨に玉石の薔薇を咲かせる。
「虹を持たぬ子は、たまたまそうであっただけよのう?」
男は悲鳴を上げつづける。痛みにもんどりうっていた。
「そういう子は、かしずけばよいのじゃ。モーラなぞは、よくやってるだえ?」
「あ、あぐ、あ……っ」
「どうにかせんと、我に願うならともかく沼地の精霊に願うとは、どういう了見かえ?」
男は両目を押さえながら、相槌とも言えぬ声を出す。
「親子ともども、都を出ていくがよい。べつの森で仕える先を見つけるか、沼人どもと合するがよかりゃ」
エレンシアは、控えていた番人に顎で命じる。
「連れておゆき」
返事もなく、番人たちはエレンシアの命を受けて、目を押さえたままの男を引っ立てるように連れ出した。
虹の目が跪いていたイディオンたちに戻ってくる。
その瞬間を、イディオンは見逃さなかった。エレンシアの虹彩に挑む。
「──ひとつ、私からもお聞きしたいことがございます」
「ほう?」
万華鏡に散乱する光を鋭く集めるように、虹の目が細められる。
「この国には、なぜ、〈魔導霧〉が入りこんでこないのですか?」
「……なぜ、そのようなことを訊く?」
くいっと、女王の片眉が上がった。優美な曲線を描いていた眉は、イディオンを選別するように見やる。
「疑問でしたので」
「…………」
「〈霧の厄禍〉が予言されているなか、この国の住民たちは、まるでそのようなことは知らない様子で、蟲の恐怖にも怯えずに過ごしている。他人事どころか、そもそも蟲や霧なぞ知らないのでしょう。先の男なぞは、よほど陛下のほうを恐れているように見えました」
エレンシアの目が、眇められる。
「女王陛下が、この地を霧の厄から守っているからですか?」
「……いかにも」
「霧が入ってくるのも、この地に生じるのも、お守りに?」
イディオンが詰め寄るように尋ねれば、エレンシアは、イディオンのもとに素足を向けて、その顎に手をかけて爪の先で上向きにするした。
「それを知って、どうするかえ?」
「どうにも」
イディオンは、堂々と受けた。虹霓に畏怖は感じなかった。その水底にある愉悦へのつめたい怒りでしかなかった。
「ただ、知りたいだけでございます」
「我は眼ゆえ……いや……」
眼? とイディオンは秀眉を寄せる。
「……ヴェッセンダスを訪ねよ」
ふっと、エレンシアは目を逸らすと、興味を失ったように寝椅子へと戻った。まだるく腰かける。
「我が答えるのは、それのみ」
そして、また眠るようにして、背を向ける。去ね、と手を振られると、イディオンとシェイラは、追い出されるようにして玉薔薇の褥からテベディヴによって連れ出されたのであった。




