257話:思い出の味
草を掻き分ける。人が歩いていないのだろう。背丈ほどの草が平気で生い茂っていて、むわっとした。不快に感じているものが、におい立っている気がする。喉に、ざらざらとした砂礫を詰め込まれたような気分がつづいている。
フクロウの声がして、獣が、がさがさと道を掻き分ける音がする。ぴっ、ぴっ、と手先が草の葉先で切れたけれど、小さな痛みは、まったく気にならなかった。
「──シェイラ……っ!」
背後から呼ばう声に、シェイラは驚いた。びっくりして、振り返る。
「イディさん……」
イディオンは、焦った顔をしていた。闇のなかでも冴える姿はよく見える。シェイラが掻き分けた草叢を同じように分け入りながら、追ってくる。
「シェイラ、ごめん、ぼくが……」
追いつくと、イディオンは、すぐに謝罪した。
「ごめん、キジなんか持ってきたせいだよね」
シェイラは、意表を突かれた。イディオンは、あの、主人の気分を損ねた子犬のような表情で、されど大人の男の顔で、申しわけなさそうな顔をしていた。
「シェイラは、鳥が苦手なのに……」
たしかに、そうだ。
母を〈雲虹〉に喰われて以来、シェイラは生きてようが死んでようが、鳥はあまり得意ではない。どうしても好きになれない。けれど、戦闘には支障がなかったし、克服もしたと思う。食事も食べろと言われれば、食べられる。イディオンが謝るほどではない。
シェイラは、呆気に取られて、それから柔和に笑んだ。胸から漏れたものがじんわりと不快な砂を取っていく。
「……いいえ」
顔がほころぶ。見上げて、安心させるように言う。
「大丈夫ですよ。……ありがとうございます」
「ほんとう?」
ぱっとイディオンの顔が明るくなった。よかった、と安心する青年の顔に、少年の頃が覗くと、ほっとしてあふれたものが満ちていくようだった。
「じゃあ、なんで怒ったの?」
イディオンは不可思議そうに尋ねた。
「怒った……?」
「そういう顔をしていた」
シェイラはわずかに目を瞠る。疑問を自分のなかに尋ねて、反響してきたものをいらえる。
「……わかりません」
「わからないの?」
イディオンが笑った。冗談の混じったような顔だった。
「ぼくとサリヤのやり取りを見て、妬いているみたいだったのに」
「……え?」
おかしそうに笑うイディオンに、シェイラは当惑する。
「そういう怒った顔をしていたよ」
シェイラは、投擲されてできた水紋に、自分の内側が波立つのを感じた。
「な、なぜって……」
うろたえる。
「わたしとイディさん、新婚という体ですし……」
「嘘なのに?」
イディオンは、シェイラの動揺に気づいていないようだった。
「あ、だからか」
ひとりで合点がいったように、シェイラに笑いかける。
「そういうふうに見えるように振る舞っていたということか」
「…………」
「理解。だから、大丈夫、か」
納得、ともう一度噛みしめるようにイディオンはつぶやく。なんだかとても残念そうな空気に、シェイラは言いようのないものを持て余す。
「──戻って食べられそう?」
切り替わったイディオンに尋ねられる。
シェイラは、小さく肯く。
「滋養がつくからね」
「イディさんは、すぐにわたしにいろいろ食べさせようとします」
シェイラも残滓を振り払うように、道を戻りながら、イディオンの背に文句を言う。
「だって、シェイラの偏食はひどすぎる」
「今回の旅では、わたしも文句を言わずに食べてましたでしょう?」
「そうだけど」
「実はちゃんと食べられるんですから」
「ふだんからも食べたほうがいい」
食事に関しては、イディオンはシェイラの世話好きだ。おかしくなる。
「そもそも、なんで、揚げ麦粉焼ばっかり食べるんだ?」
「お餅も好きですよ?」
「サージェシアではほとんど見ない食べ物だ」
「師匠が取り寄せてくれるんです」
「栄養としては、麦粉焼とほとんど変わらないだろ……」
イディオンがげんなりしたように言う。
シェイラは、ふふっと笑ってから、ふと思いついてイディオンの問いに答える。
「──揚げ麦粉焼は、母との思い出の味なんです」
だれにも、ヴィクトルやガザンにでさえ、話したことのない話だった。
イディオンが振り返る。シェイラは気分がいいから、そんなことを語る。
「ユベーヌの民の旅は、厳しく、つましいものでしょう?」
イディオンは、この旅に同行してわかったはずだ。彼らの旅は甘いものではない。狩猟や採集だけで満足なものを得られないことは多くある。だから、桔梗キジを狩ってきたのだとわかっていた。それに対して、文句が出ようはずなかった。
「揚げ麦粉焼って、だからとても贅沢な食べ物なんです」
「……うん」
「街に辿り着いた時、それもお金に余裕がある時に、食べられるものでした」
「……ああ」
「母は稼ぎ手だったので、稼げた時に、わたしの手を引いてよく露店で買ってくれたんです。笑顔で、ラータ、おいしいねって」
「…………」
「わたし、あれを食べるまで、あまり食事に興味を持てなくて……いつも仕方なく言われるから食べるような感じでしたが……」
シェイラは、鬱蒼とした森を見上げる。
「あれを食べた時だけ、味がありました。今も、母のうれしそうな顔が浮かぶんです」
「……そうか」
イディオンは、神妙に肯く。継ぐ言葉はなかった。妙に反省しているような気配を感じたので、シェイラはその背丈に合わせるように、爪先を蹴って{浮遊}した。
「イディさんとの思い出の味でもありますよ?」
「……そうだね」
イディオンが微笑する。
「仲直りの味です」
「……ああ」
「それからですね、」
シェイラは、くすっと笑う。
「わたし、あの味も覚えているんです」
「あの味?」
「南瓜のとろみ汁」
「あれか」
イディオンは、秀眉を広げて、にかっと笑う。
「ぼく、あれ、作れるようになったんだ」
「ええ?」
「修行の合間に、あそこの店に通って店長に教わったんだ」
王子さまは、なにをやっているのだろう。想像すると面白くてたまらない。おかしくなって笑い声が出る。
「もう、なにやってるんですか」
「だって、シェイラがおいしいって言っていたから」
「わたしのため?」
「そうだよ」
イディオンが照れたように目線を逸らす。
「次会う時に飲ませるぞって、火傷しながら教わったんだ」
さっきと同じように、じわっとあふれてきたものが満たしていく。
「……じゃあ、今度作ってくださいね」
「もう南瓜の時期は終わるよ。ここに……あるかわからないし」
照れ臭さを隠すように返答がある。
「そしたら、来年作ってください」
「来年?」
シェイラは、幸せだった。
「はい、来年。また南瓜の時期に」
「……それは、約束?」
「はい、約束です」
感慨深く、思う。
「わかった。約束するよ」
イディオンの意志のある目に、シェイラはほほ笑む。
──来年、生きているだろうか。
わからない。厄災が訪れる。シェイラの寿命も近くなる。
(それでも……)
生きて、彼の作るものを口にしたかった。




