255話:山犬の遠吠え
ユグラウルを抜けた先は、霧があまり出ないというのは噂に聞くところだった。ただ、行く者も少なければ、帰ってくるものたちはもっと少ない。それだけ厳しい道のりを歩んでまで、霧の少ないところを求めたいのだろうか。
シェイラたちに出会わなければ、ホサルたちは岩窟に辿り着いたかもあやしい。道中、多くの蟲に遭遇したのだ。彼らだけでは、危なかった気がする。
「……そうだなあ」
ホサルはちらっとシェイラを見た。数週旅をともにし、自らの命を預けてきたシェイラにであれば話してよいという空気を感じた。
「うちらは、沼人に会ってみたいと思ってる」
「沼人?」
シェイラはきょとんとする。森人──女王国の者たちとは異なるものだろうか。
「知らんか」
ホサルの問いにシェイラは肯く。
「虹の目を持たない、湿原をさまよって暮らす者たちさ。森に住まず、泥炭の広がる沼地に歩む。だから、沼人と言われる」
「虹の目を持たない……」
つまり、精霊魔術を使うことができない森人ということだろうか。
シェイラが知らなかったことを聞かされる。
「女王によって虹を取り上げられた罪人の末裔と聞くが……生まれた頃から虹を持たない者もなかにはいるらしい。むしろ移動集落を持つ者たちはそれがほとんどって聞くな」
「…………」
「そいつらに、会ってみたいんだ。暮らしはどうだ? って聞いてみたい」
ホサルは、にっと抜けた歯を見せながら笑う。
「放浪してるうちらと似たようなもんだろ? 芸は持たないだろうが、なんだかわかり合える気がしてるんだ」
「そうかも……しれませんね」
「蟲も出ないなら、ちょっとばかし酒でも交わして、互いの暮らしを知り合えたらいいなって思ってる」
楽しそうに、希望を抱いているように語ったが、ホサルの願いには、根底にユベーヌの民の底知れない孤独が通っているように聞こえる。
庇護されるべき国を失い、千三百年以上を流浪の民として過ごしてきた。生まれから爪弾きにされ、その生活が当たり前だと思っていても、だれかとわかり合いたいという気持ちは、ユベーヌの血に刻まれているものなのかもしれない。
それは、シェイラが、たまに感じていた置いていかれるという気持ちに似ているのかもしれなかった。
一日目は特に何事もなく、野営できる窟穴に辿り着いた。パトダ一座だけでなく、他に複数の一座や旅人が営火を準備している。足元の岩には、これまで多くの炎が熾されてきた煤汚れが残っていた。岩窟内は広く空気が充満しているが、一部には滞る場所もある。こういった開けた空間にはいくつも横穴があり、煮炊きを行っても火鍋中毒にはなりにくい。
(ですが……)
シェイラは、上を見る。いくつもいくつも、鍋や釜から出た湯気や煙が横穴や竪穴へと吸い込まれていく。シェイラは、ずりっと足をずらした。今度は、足元に視線を移す。
赤黒くなった血痕だ。それもひとつではない。煤汚れに混じっていくつもいくつも見える。
(出ますね)
一座の焚き火には姫香茅を入れてあるが、シェバルという獣は、魔獣のなかで一、二を争う賢さがある。ここは彼らの絶好の狩り場であると思えた。
シェイラはイディオンとともに、夜襲に備えた。焚き火を囲って、交互に休みを取りながら、その時を待つ。同じように、他の一座でも護衛士らが備えて起きている。
その時は、静かにやってきた。ばちばちっ、と焚き火がはじける音だけが洞窟内に木霊している。
シェイラは、ぱちっと目が醒めた。{拡張}した感覚に、複数の獣の気配を感じる。
「──イディさん」
シェイラの呼びかけに、イディオンが肯く。
イディオンがすかさず一座全体に{防護}を張った。シェイラは横穴へと目を向け、{強化}と{暗視}を施す。{拡張}した感覚とともに、強化された視界で、その数を知る。
「三十二です」
「さすがだ」
イディオンが笑う。
「ぼくはそこまで把握できない」
イディオンは、{拡張}が苦手だということを最近知った。よく攻撃に使っている閃光のような魔法は、それゆえ、視界に入っている限りを追跡する、という条件で表象しているらしい。つまるところ、視界に入らない場合は追跡して攻撃できないという〈ゆえある裂け目〉を持つ。
{拡張}が優れていれば、その欠点を補えていたであろうが、イディオンの魔法は、結局のところ表象がすべてだ。見えないものや、感じられないものは、象れない。
「任せたよ」
「お安い御用です」
だから、今日はイディオンに防衛を任せ、シェイラが攻撃を担う。
遠吠えとともに、青黒い残光がいくつも降ってきた。シェバルの宿す〈導脈〉から額石が魔力光を放っている。深更の襲撃に、乱戦状態になる。遠吠えで起き出して悲鳴をあげる子どもたちを、大人たちが口を押さえて幌車の奥に引っ込める。
シェイラは、早々と決着をつけることを決めた。
(イディさんが逆算による表象だとすれば……)
シェイラの魔導は、これまで積み上げてきた呪文や魔法陣による構築がすべてだ。これくらいであれば、魔導師シェイラータには造作もない。
ふっと笑みが浮かんだ。
「──命孕みし火炎」
其は水のごとく柔らかに
其は蔦のごとく這う
大地を辿り、脈より力を受け
三十二の獣を追尾せよ*
「──其が縄をかけ、焼き払うまで」
詠唱を終えると、間もなくして現れた三十二の魔法陣から次々と炎熱が放たれた。襲いかかってきていたシェバルを捕らえ焼き払っていき、場の狂乱は獣のものになる。賢い山犬たちはすぐに尾を翻したが、シェイラの放った魔法は、穴のなか、どこまでも彼らを追いかけていく。しばらく襲われることはないだろう。
シェイラは、得意満面で、イディオンに振り返る。
「ちゃんと皆さんを守ってくれましたか?」
「……役立つ前に、シェイラが全部どうにかしちゃったよ」
イディオンは呆れたようにそう言った。
その後、パトダ一座と、一座と同じように歩を進める者たちは、岩窟を抜け出るまでシェバルの襲撃を受けなかった。




