247話:紅いファル石
ヴィクトルの紅い目は、ひばりの心を穿つ。
幾分、間があった。
凍りついたような空気は、されど、柱時計を確認したヴィクトルが、次の予定を思い出したことで寛解する。
「急に訪れて悪かった。……くれぐれも、気を付けてくれ」
それが、ひばりへかけられる最大限の言葉であっても、ひばりの足は、鈎針で編み込まれてしまったように動かなかった。ヴィクトルが避ってから、やっと呪縛がとかれたようになる。
(わたしは……)
どういう存在なのだろう。
彼にとって、この国にとって、この世界にとって、どんな意味の存在なのだろうか。
思うと、目に涙が浮かんだ。あふれたものが止まらない。どんどん、どんどん、こぼれ落ちてくる。
(……帰りたい)
随分と、久しぶりに、そう思った。
(家に帰りたい)
もとの世界に帰って、それから■■■■■……
(わたしは、どうしたいんだろう)
ひばりが、その場に蹲るようにあふれてきた願いを抱え込んでいると、背後で扉を開く音がする。
「失礼します」
ユベックの声だ。ひばりは、びくっとする。
こんな姿を見せられない。聖女として、立たねば。
「ひばりさま、次の予定ですが……」
入ってきたユベックはなにとはなしに声をあげて、そうしてひばりの姿を認めると、言葉を途中で失くした。
急いで立ち上がったが、目元は誤魔化せなかった。
アマリアはどうしたのだろう、という疑問をいだいているあいだに、ユベックがひばりに詰め寄ってくる。
「どうされたのですか?!」
ひばりを、心配する声だった。
「殿下になにか言われたのですか?!」
「……大丈夫」
袖で涙を拭う。
「泣かされて、なにが大丈夫なものですか」
ひばりを思案する声は心地よい。
ゆっくりと、ユベックの体が近づいてくる。男の人の、大きな体。{防護}の文様が刻まれた甲冑。この人は、ひばりを守ろうとしてくれる。
(だめ。私は聖女)
しっかりしなければいけない、と思いながらも、にわかにトレド妃から言われた言葉が、焚いた香炉の隙間から忍んでくるように思い出された。
『たとえ、ひばりさまが、よそに男を作っても問題がないんじゃないかしら』
体全体が吊ってしまったようになる。思考が、香炉の煙に満たされる。白檀に麝香、加えて欲を刺激するような香り。
ユベックの手が、ひばりの涙を拭った。そのまま、頬をなでられる。
「──あなたをお慕いしております」
ほんとう? とひばりは問いたくなった。
「あなたを、お守りしたいのです」
だったら、わたしの願いも叶えてくれる?
「ひばりさま……」
男の、ひばりのなかの女を呼ぶ声に、見上げる。影が、落ちてくる。応じる。両手を男の腕にふれる。
(あれ……?)
ひばりは、ふと、ユベックの右腕に気づく。甲冑の隙間から、包帯が見える。
(怪我なら……)
──{治癒}しないと。
ひばりは、自分の左手に魔法の光を集めながら、ユベックから引き寄せられるままに、影を重ねた。
〜*〜
ヴィクトルは私室に戻って人払いをすると、強く頭を打つような痛みに顔が歪んだ。うっ、と痛むこめかみをおさながら、よろよろと硝子棚へと向かう。常備してある薬水瓶を取ろうとして、並ぶ瓶に空き瓶しかないことに気づく。
(グスターが……)
いなくなった穴は、こんなところにも及んでいる。
ふらつきながら、ヴィクトルは、棚に背を向ける。のろのろとした足取りで、執務机の椅子に腰かけて、痛みを追いやるように背を預ける。
閉じたまぶたに、ヒバリの傷ついた表情が浮かぶ。振り払うように目を開く。後味の悪さが、痛みに響く。
ゆるゆるとヴィクトルは胸元の内側に手をやった。金の腕環が、手のなかに心地よく馴染む。
「ラータ……」
その手を、抽斗にやった。引いた動作で、なかの石が、ごろっと転がる。
──無骨な、紅いファル石だ。ところどころに、金継ぎをしたような線が入っている。まだ、手の平よりも小さい石。その石を、ヴィクトルは握り込む。
いつものように、ゆっくりと〈導脈〉の魔力を流し込んでいく。石の流れに、隙間に、瑪瑙の縞模様を作るように、金の魔力を流し入れる。全身の魔力を注ぎ込むようにしていくと、すうっと体の力が抜けていくのとともに、手のなかの石がじんわりと大きくなるような心地を得る。
(二年で、この大きさ)
やっとだ。はじめは、小粒銀ほどだったものが、ゆっくりと時間をかけて、ここまで来た。
まだ足りない、と思う。目指すものには、到底及ばない。
ヴィクトルは、虚脱感を覚えながらそう思う。この石を作りながら、金環を手のなかで転がすのは、日課であった。ひと時の安らぎ。彼女の、自分を呼ばう声が聞こえる気がする。
まぶたが、落ちる。
(やるべきことは……)
多くある。犠牲が出た。邪な者たちが、ヴィクトルの線上には待ち構えている。
だが、このひと時だけは、ほっと息をつきたかった。
(第12章:線上の聖剣使い──了──)




