235話:重圧
「あたし、知ってるし、わかってるよ。……ヴィックが、まだ、シェイラさんのこと忘れられてないってこと」
シェイラとはちがう、無垢な少女。
「──他愛もないのが好きなの」
「あたし、こういう他愛もない日常が好きだったの。他愛もないやり取りを、友だちとか、お父さんとお母さんと、お姉ちゃんとするのが好きだったの」
憐れな、異界からやってきた娘だった。憎い相手でもあった。シェイラが追い詰められたのは、この娘のせいだと思っていた時期もあった。
(だが、ヒバリもまた……)
犠牲者なのだ。
平穏な世界からやってきて、ただ巻き込まれただけの、犠牲者のひとりだった。
(であるのに……)
「なんで……! だって、あたしはそもそも、シェイラさんと同じような立場を望んだわけじゃない! ただ、楽しくて、他愛のない、そういう関係であればよくて……」
ヒバリの滲んだ目を思い出す。無垢な瞳を。
(私は……)
どこまでも愚かだ。
あの時の選択に、悔いはない。けじめは、つけるべきだった。
だが、それまでにヴィクトルはまちがえつづけた。選び取ることを誤りつづけた。その因果の束が、今のヴィクトルに収束している。
(ラータ……)
胸元の、腕環を転がす。
(ヒバリ……)
左手の、組紐が疼く。
──ヴィクトルはどこで、どういう選択をすればよかったのだろうか。
「──殿下」
ずきっ、と痛むこめかみに、声が届いた。慎重にまぶたを開く。
「……朝、か」
霜の溶けた泥のような疲労で眠りについたが、夢見は最悪だった。この一年、常なることであったものの、目覚めが一番きつい。起きてしまえば、なんとかなるが、体がまだ休息を欲している状態で身を起こすのが、一番こたえた。加えて、脈打つような片頭痛が、ヴィクトルを蝕む。
「大変心苦しく思いますが、朝にございます」
「……そうか」
「今日の予定をお伝えしても?」
「……頼む」
言うと、ヴィクトルの補佐官──グスターは、なでつけたススキ色の髪に、きりっとした水色の目で、眼鏡越しに予定書を読み上げはじめた。
そのあいだに、侍女たちがやってきて、私室の窓を開けて空気を入れ替える。湯を張った、間もなく持ってこられた盥で顔を洗い、グスターの読み上げを聞き終える頃には、着替えも済まされていた。
「お食事はどうされますか?」
「父上のところで」
「承知いたしました」
侍女の問いに簡潔に答えると、ヴィクトルはグスターを連れて部屋をあとにした。
螺旋の昇降階段をくだる後ろには、グスターを先頭に、侍女と護衛官らがヴィクトルの後ろを付き従う。
城塔を下りた先は本館、その奥に、聖王と聖王妃の居室があり、ヴィクトルはそこに向かう。
侍女と護衛を下がらせて、王の私室に入れば、そこには、双子の弟たちと妹姫が父を囲っていた。母は、いなかった。
「おはようございます、兄さま!」
「朝のご挨拶を申し上げます、お兄さま」
唱和する元気な双子に、しとやかに挨拶をする妹は対比的だ。ヴィクトルは笑みを返す。
「ああ、おはよう」
「兄さま、あとで稽古を付けていただくことは可能でしょうか?」
これは双子の上ダリウス。
「よせ! 兄さまは今死ぬほど忙しいんだぞ」
もう一人が下のカリウス。
「昼すぎなら……時間を取れる。そこでどうだ? 私も体を動かさないとなまるからな」
「さすが、兄さま!」
「では、僕も!」
ダリウスとカリウスが目を輝かせるので、ヴィクトルは、算段をつける。ちらっと後ろに控えていたグスターに視線をやると、優秀な補佐官は無言で予定書を書き変える。
「──父上、お加減は?」
「……ヴィクトル、か」
これだけ騒がしくしていても、寝台に横たわった父の顔貌は思わしくなかった。魔導師オルリアの紅い眼は、白濁しているように見える。この一、二年で父の体調は急激に悪化していた。
「……いつも、どおり……だ」
「ええ」
話しているうちに朝食が運ばれてくる。
「このような、ありさまで……すまぬ」
「とんでもございません。今日も、ゆっくりとお過ごしください」
ずきっ、とこめかみが痛む。
肯くと、すうっと父王は目を閉じた。ヴィクトルは、小さく、ひとつ息を吐く。
適当に出されたものを口に放り込み、双子といくつか言葉を交わすと、十五分ほどで部屋を出た。次の予定が、待っている。
「──お兄さま!」
足を進めようとしたところで、妹のメレドが慌てて躍り出るように出てきた。ヴィクトルは翻って、すぐに手を取ってやる。
「……ありがとうございます」
「どうした。お前が、珍しいな」
この妹は、楚々とした姫で、令嬢たちの模範だ。作法師たちも太鼓判を推す王女で、慌てた姿などこれまで見せたことがない。
ヴィクトルは、少ししゃがんでメレドに視線を合わせ、話しやすくしてやる。
「どうした?」
「……その、お兄さま。少しお耳に入れたいことがあるのです」
「なにかあったか?」
「……お母さまと、それから……ヒバリさまのことです」
メレドは視線をさまよわせてから、意を決したように兄を見る。
「母上と……ヒバリ?」
ヴィクトルの背を、ひやっとするものが流れた。メレドの、同じ色の瞳を覗き込む。
「聞こう」
ヴィクトルがそう言えば、メレドは耳の近くにきて、事の次第が囁かれる。その話は、ずしんとヴィクトルの腹にくるようなもので、聞き終えた頃には、重たい溜息が出そうになるのを、こらえるしかなかった。
メレドに礼を言って、次の予定に向かう。
夢のなかで思ったことが、歩きながら、思い出される。
(私はどこで……)
どういう選択を、すればよかったのだろうか。
役に立たない自問が、ヴィクトルの胸の裡を暗鬱とさせた。




