234話:懐かしい輪郭
懐かしい光景を見た。
ヴィクトルが平時の授業を終えると、応接間で彼女が魔導書をめくっている。ゆるやかに波立つ薄色の髪が落ちてくると、耳にかける。そうすると、横顔がよく見えた。きれいな輪郭が、少女の頃でも、美しかった。
「──ラータ」
ヴィクトルが名を呼ぶと、彼女は──シェイラは、ぱっと顔をあげて、それからゆっくりと花が開くように笑むのだ。
「おかえりなさい、トール」
当たり前の、日常だった。
「なにを読んでいたの?」
「呪文学の系譜を」
「呪文学?」
「古い呪文です。共通文字で統一される前に扱われていたもので、先生から学んだほうがいいと教わったんです」
先生、という言葉にヴィクトルは苦みを覚える。
「リマス師?」
「はい」
シェイラは言いながら、魔導書を閉じる。
「彼の話は……あまり鵜呑みにしすぎないほうがいいのではないかな……?」
置かれた本の背表紙を眺めながら、ヴィクトルは言った。
準師リマスは、オルリアの大学府に所属しながら、聖堂教会と協力をして、研究を行っている。
──呪法や、呪術の研究だ。
魔導師に叙されるほどの卓越した知識と技量。それを持ち得るのが、呪法を研究するリマスという男であった。
古文書などを解読しながら、古い廃れた呪術の知識を編纂しまとめ上げる。教会側は、呪術の撲滅を謳っていたから、リマス師の研究とは相性がいい。学術的な立場と、宗教的な立場の合致で協力関係にあった。
聖魔術を確立した魔導師オルリアと聖女、どちらも祖先に持つ聖王家としても、あらゆる呪いや呪術は払う対象であったから、意向に差異はない。リマス師と聖堂教会の研究は、特に問題のないことだった。
だが、ヴィクトル自身は、リマスという男がどうにも好きになれなかった。
学びと称して、シェイラの時間を独占している男が、気に食わなかったのもあったかもしれない。けれどもっと、生理的な嫌悪のようなもので、ヴィクトルはリマスが好きになれなかった。
リマスは、愛想よく笑みを浮かべ、人の話をよく聴く。
評判はよかったけれど、その笑みはどこかうすら寒く見えるのだ。温突と筒の張り巡らされた室内に、厳寒の風がすうっと入ってくる。そういう寒さが、リマスという男にはあった。二重窓を張り巡らしていなければ、隙間を突かれてしまうような卑しさを、ヴィクトルはその男に感じていた。
「……先生は、いい方ですよ」
けれど、ヴィクトルの言葉に、シェイラは不思議そうにしていた。
「わたしの悩みも聞いてくれますし……」
「悩み? 私がいるのに?」
ヴィクトルは茶化すようにシェイラの隣に腰かけた。
シェイラが慕う師のことを言い過ぎるのはよくないと思って、話題を変えるのを選んだ。
「もちろん、トールはいますが……」
「婚約者の私には話せないこと?」
「ちがいます。その……あなたのことは、きちんと信じてます……ただ、先生だからこそ相談できることも……」
「妬けてしまうなあ」
少し、本心があった。
「トール……」
ヴィクトルが、背中を見せるようにすると、シェイラは慌てたように、ヴィクトルの背に手を置く。頭がもたれかかってきた。
「……わたしの気持ちは、知っていますでしょう?」
「知っているけれど、つい試してしまいたくなるものなんだよ」
ヴィクトルがゆっくりと振り返ると、シェイラはむっとした顔をした。
「そういうの、よくないですよ?」
「なにがよくないの?」
「試す行動です」
「だって、ラータの反応はいつもかわいいからね」
「か……っ」
シェイラは、ヴィクトルの言葉に顔を真っ赤にする。腹から笑いが込み上げて吹き出す。
「トール!」
「君はいつもいい反応をしてくれる」
「もう、そうやって試すのはやめてください」
「かわいい君が悪い」
「……っ、もう」
シェイラは、ぷいっと向こうを向いて、首筋から耳まで赤くする。色白の彼女は、恥ずかしくなると、そうやって全身を赤くして、あとから出てきた汗を乾かすように服に風を入れるのだ。自分の感情に伴う身体反応を制御しきれていないところも、ヴィクトルの好きな姿だった。
「試すような男はよくないんですからね」
シェイラは案の定、ぱたぱたと胸元に風を送りながら言う。
「よくないって?」
「母さんが言ってたんです」
その言葉に、ヴィクトルはぴたっと手を止める。シェイラの話を聴くようにする。
「女を試すような言動をするような男には、ろくな男がいないって」
「なんだいそれは」
とぼけながらも、シェイラから出てくる母の話は貴重だった。
むごい記憶が伴っている。そんな記憶と結びつく母の話をしてくれるのは、シェイラがヴィクトルを信頼してくれている証だった。
「男を見定める時に覚えておきなさいと言われました」
「何歳で聞いたの?」
「たぶん、五歳くらいです」
「五歳で、そんな話をする?」
「ユベーヌに根ざす旅芸人は、いつとも知れず、出会いがあるから、身を守るために知っておけと言われたんです」
「なるほど?」
「ちょうど、滞在していたどこかの街で、わたしに絡んでくる男の子が何人もいたから、教えてくれたんだと思います」
「へえ」
ヴィクトルは、シェイラとの距離を詰めた。声を低め、頬に、手を添える。
「それは、さっきよりも妬ける話だね?」
「とっ……」
シェイラの顔がまた、真っ赤になる。そのまま、抗議の声が放たれた。
「そ、そういうところですよ、そういうところ!」
「べつに試していないよ?」
「だから──」
「本気だけど?」
ヴィクトルが唇を寄せようとすると、近くにあった座褥を投げられた。
「わたしで遊ばないでください!」
「遊んでいないのだけどなあ」
飛んできたものを受け止めながら、ヴィクトルは悠然と応じる。驚くほどの不敬罪だったが、見咎めるものはもちろんいない。
「男は、女から誘って、やっと寄ってくるくらいがちょうどいいって言ってたんですから!」
「へえ。じゃあ、ラータから誘ってくれるのかな?」
「トール!」
赤くなって喚くシェイラに、ヴィクトルはまた声を上げて笑う。
楽しい、なごやかな一時であった。
毎日の降り積もるような信頼と愛情が、ふたりのあいだにはあった。
(ラータ……)
覚醒が、近い。
場面が変わる。三年半前のガルバディア王都。
そこで、雨に濡れて血だらけになった彼女の姿があった。ユベーヌ文字を体中に刻んだ彼女が。
自分が仕出かしたこと。知ろうとしなかったこと。誤魔化してきたこと。その結果、供物となってしまったのが、だれよりも大事な彼女だった。
「──あなたのためよ、聖剣使いの坊や」
老師の声が、聞こえる。
「あなたのために、シェイラは魔法を使えるようになりたかった。聖剣使いとなって危ない戦場に立つ……いえ、聖剣使いになるその前から、シェイラはあなたの隣に立って一緒に戦うために、ずっと魔法を使えるようになりたかった。もし死ぬのであれば、あなたの隣で一緒に死にたかった。そのために、シェイラは呪術にまで手を伸ばして、魔法を求めた。そして、実現した」
彼女の愛情を疑ったことはなかった。ひたむきで真っ直ぐで、だからこそ危うかったものを、ヴィクトルは自分の気持ちで誤魔化してきた。
──君のままでいい。
──魔法が使えなくても、隣にいてくれればいい。
「その言葉は……、ぼくを認めているようで、ぼくの、魔法が使えるようになりたいという気持ちを、まったく無視した否定でした」
イディオン王子から聞いた台詞が、よぎっていく。
(私は……)
私を、だれよりも想ってくれる君を、否定しつづけていたのか。
(ラータ……)
彼女に、謝りたかった。謝って、それから……
──必ず、助ける。
老師に誓った。問われたことに、答えた。
削られたものを、取り戻す。そのためなら、たとえ、なんだって……
「ヴィック……!」
ふいに、ヒバリの顔が浮かんだ。




