231話:魔法が使えなくても
「リヨン・ペリメルにかけた{催眠}は、うまく働いたみたいだ」
イディオンが、シェイラに言った。
「……ええ」
シェイラは肯く。
{催眠}は闇の魔術と医療魔術の狭間に属するものだ。記憶の忘却を促し助けるのが{催眠}と呼ばれる魔術だった。蟲によって被害を受け、自分の親や子どもを亡くすものがあとを絶たない世で、強い悲しみを乗り越えるために生まれた魔術だった。
人は、つらい体験をすると、記憶にそれがこびりついてしまう。{催眠}は、当たり前の忘却を促し、心の外傷を防ぐ、なくてはならない魔術だった。
数年前の学園外実習で〈猿猴〉に襲われた時が一度目、今回はその比ではない体験をリヨンは受けた。{催眠}は、施されなければいけないものだった。
「すでに起き上がって、授業に復帰したらしい」
「……はい」
「顔を見せに行くか?」
「……はい」
シェイラの機械的な返事に、イディオンはきっとなにかを感じていただろう。それでも、それ以上なにも聞いてくることはなかった。
赤土の、鉄の含まれた煉瓦。その煉瓦のうえに敷かれた絨毯を踏みしめながら、シェイラとイディオンはターニャ師の学環に顔を見せる。
「──シェイラ師!」
いつでも感じのよい明るいレーネの声が、シェイラを見つけた。すぐに駆け寄ってくる。後ろのほうでは、セアス少年がぺこっと会釈だけしてくる。
笑顔のターニャ師が、リヨンを呼ばう。
「リヨンさん、シェイラ師が来ましたよ!」
昼餉ノ憩い。
友だちと話していたリヨンの顔色は、すっかりよくなっていた。イディオンの{治癒}が功を奏したらしい。{催眠}も、効いたのだとわかる。
「少し……よろしいでしょうか?」
とことことやって来たリヨンは、シェイラの誘いに、きょとんとする。きれいな黒髪がその時に揺れたが、すぐに返事が返ってくる。
「わかりました」
シェイラは、リヨンを連れて、庭師によって整えられた庭園を歩いていた。
秋桜や百日紅、女郎花が彩りを魅せている。庭師が、剪定鋏で小枝を切って、見栄えをよくしていく。ぱちんぱちん、と切る音が、木霊する。
「──申しわけございませんでした」
シェイラは、歩きながらリヨンに詫びる。この一週間、ずっと言おうと思っていたことだった。
リヨンは、シェイラの謝罪を聞くと、びっくりしたように目を丸くした。
「リヨンさんの魔法を守ることができず……」
──{感応}を、奪われてしまった。
それはなぜか、どうしたって、リヨンに戻ってこなかった。抜き取られてしまったかのように、リヨンの生み出した魔法は、もう二度と心の声を漏らすことはなかった。
シェイラは、あの魔法が生み出された所以を知っている。
レーネという友人を守りたい。
その、強い願いによって生み出された魔法だった。
それは、シェイラが強く願ったことに似ている。まるで自分が魔法を取られてしまったようで、そういう気分からどうしても抜け出せなかった。
「気にしないで……ください」
リヨンはしばし驚いてから、そっと彼女らしく答えた。
「わたしは、そんなに困ってないんです」
え、とシェイラはリヨンを見やる。
「正直なところ、制御するのも大変でしたし、聞きたくないことや伝えたくないことも伝わってしまうことがあって……ちょっと大変だったんです」
リヨンは苦笑する。
「あの魔法は……わたしを助けてくれましたが、同時に、わたしが一番伝えたかったことを伝える機会を逸してしまう……魔法でもあったんです」
苦労せずに伝えられるから、とリヨンはつづける。
「このあいだ、わたしは母に、やっと、ありがとうって言えました」
シェイラは、はっとして、リヨンの顔を見た。
「お話したように、母との関係は悩んでいましたが、それでも、シェイラ師が言うように、母に対してありがとうという気持ちはあったんです。伝える機会を、ずっと逸してきただけで……」
リヨンは、咲いている花を見ながらつづける。
「ほんとうに伝えたいことは、なかなか魔法では伝わらないんです」
「…………」
「わたしは、いやな体験だったけど、{感応}がなくなって、よかったって思いました」
リヨンは、秋の花々のように晴れ晴れとした顔をしていた。
「魔法が使えなくても大丈夫。そう、思うことができたんです」
「魔法が、使えなくても……?」
その言葉は、シェイラのなかに、しん、と響く。
「きっとまだ、母との関係には悩みます。シェイラ師がおっしゃるように距離感も……しばらく……悩むと思います」
それでも、とはっきり言葉が紡がれる。
「わたしは、母と話すことや、伝えたいことを伝えることを忘れません。こじれて、どうしようもなくなってしまう前に、話せるようになったわたしの声で、母と話をしたいと思います」
秋風が、シェイラとリヨンのあいだを吹き抜けていく。
「だから、大丈夫です、シェイラ師」
リヨンは、最後に満面の笑みを浮かべた。
「──二度も、わたしを助けてくださって、ありがとうございました」
モーちゃん、とリヨンに囁かれているような、そんな言葉だった。




