230話:母と娘
リヨンの母エヨンは、その急報を屋敷で聞いた。
謹慎を命じられているエヨンは、およそ外に出ることが叶わず、この一年半を軟禁されたように過ごしていた。
つらい、日々だった。
エヨンにとって、ペリメルの連なる{守護}の任は、なにより大事な家門の矜持であった。その教示を、粉々に砕かれる一年半であった。正気で、いられるはずがなかった。
(なぜ、私ばかり……)
エヨンは、当主である父に厳しく育てられた。折檻は日常茶飯事。闇の魔術を扱う呪文をなめらかにすばやく詠ずるようになれるまで、食事を抜かれることなどよくあった。母は、かばってくれることはなく、魔力量が比してエヨンより少なかった兄は、エヨンほど父に厳しく当たられなかった。
エヨンのそういった苦しみを一番理解してくれたのは、学院時代に出会った夫であった。口数の少ないおだやかな青年で、エヨンは彼といるだけで日々が癒やされた。彼が、エヨンのなかのあたたかいぬくもりの闇そのものであった。
そんな日々を送って身につけた、闇の魔術。そして、{守護}の任。
王太子ムディアン殿下の{守護}を賜った時、エヨンはやっと肩の荷が下りた。
これで私は一人前。お父さまからはもうなにも言われない。彼と、おだやかであたたかい家庭を築く。
だが、エヨンにはまだ、次代のペリメルの血筋を残す役割があった。
そうして、生まれたのがリヨンだった。
リヨンは夫に似て、寡黙な子であった。家では話すが、外では話さない。人見知りの激しい子だと思っていた。
問題になったのは、魔法学園初等部に入学してからだ。
リヨンは、学園でも一切喋らなかった。喋れなかった。そして、それをきっかけに夫と気まずくなっていった。喧嘩が絶えなくなった。
夫と口争う時、いつもエヨンの後頭部には、父の恐ろしい顔があった。
リヨンが話せなくて魔術を使えなかったら、私はまた父から叱られる。やっと解放されたのに。
そういう感情に乗っ取られて口にする言葉は、ろくでもないものばかりで、エヨンはそうして決定的なことを言ってしまった。
「リヨンがこうなったのは、あなたのせいよ!」
夫は、あくる日、家からいなくなった。──エヨンとリヨンのみを残して。
(置いていかないで……!)
胸の奥底で泣いて叫んでいたのは、ずっと幼い自分だった。父の打擲を恐れる幼い自分だった。その自分は、娘のリヨンにも当たり散らすようになる。
──なんで喋れないの。あんたはいつもそう。
それでも、夜になって闇のぬくもりに包まれると、エヨンはいつも後悔するのだ。
──ごめんね、リヨン。大好きよ。お母さまがひどいことを言ってごめんね。
リヨンは、やさしい子であった。そういう血を、夫からもらっていた。夫に会いたくてたまらなかった。エヨンにとってリヨンは、夫とのつながりを示すよすがで、大事な娘であった。
その娘が、重症を負ったという。〈魔女の騎士〉という呪術集団に狙われて、魔法を奪われたのだという。
「──エヨン・ペリメル殿、急ぎ、ルーマン高等学院へお向かいになってください。宮廷からは許可が出ております」
学院からの使いは、エヨンにそう伝えたが、すぐに飛び出るように屋敷を出た。用意された馬車に飛び乗る。
(リヨン……っ!)
私の、せいだろうか。
ずっと、あのやさしい子に甘えすぎていたせいだろうか。
──エヨンの愛情は、不器用であったが、たしかに、リヨンを愛して、母として案じているものであった。
リヨンは、目を覚ます。体が、億劫だ。頭が、ぼんやりとする。
「──リヨン……?」
母の、声が聞こえる。夢、だろうか。
「リヨン、聞こえる……?」
声を出そうとした。母の問いに応えようと。
だが、乾燥しているのか、なんなのか、リヨンの声は出なかった。
そうして、今度は{感応}で母に応えようとした。けれど、リヨンのなかを巡っているはずの翠の砂は動かなかった。むしろ、ほとんどその気配はない。まるで、砂時計の砂が、割れて外に出ていってしまったようだった。
(お、かあ……さま)
母が、泣いている。
「ごめんね……っ、リヨン……」
母がリヨンの臥せる掛布に頭を寄せる。
「お前のことを守ってあげられなくて……っ。いつも、どうしようもないお母さまで……ほんとうにごめんね」
母エヨンは、涙をこぼす。
「こんなだから、お父さまも置いて逃げてしまったのよ……。どうしようもないから。私には{守護}しかないと思っていたけど、お前がいるのにね」
(そんなことないよ、お母さま)
リヨンは、母の優しさを知っている。
たしかに嫌なこともされた。あんまりしつこくされるのはいやだった。縋りつかれるのもいやで仕方がなかった。だけど、母がそうなってしまう理由をリヨンは知っている。
(大丈夫だよ。ありがとう。大好きだよ)
リヨンはずっと、それを伝えたかった。
「おか、あ……さ……」
「リヨン……?」
はっと、エヨンの顔がある。リヨンの顔を覗き込む。
「あり……が、とう。来て……くれ、て」
リヨンは、笑う。頭はくぐもっていたけど、{感応}はなかったけど、ただそれを、母に伝えたかった。
「……当たり前よ」
エヨンの、リヨンと同じ翠の目が涙を帯びる。大好きな母の慈愛が込められている。
「……うん」
──母と娘は、難しい。
近すぎる。つながり合って、反発すると、反動で、ぶつかり合ってしまう。それでも、つながり合っているのが、どうしようもなく、母と娘なのであった。
自分と母は、きっとまたぶつかり合う。何度も何度も。時にお互いを嫌悪することもあるかもしれない。それでもきっと、お互いに母と娘のちょうどよい距離感を見定めていきながら、年月を経ていく。
({感応}がなくても……)
きっと、こうして、長い時間をかけながら、段々と互いの気持ちを知り得ていくのだろう。
リヨンは、夢心地に、そう思った。




