225話:赤釜亭の薄焼き
赤釜亭というのが、ターニャと食べに行こうと約束していた居酒屋だった。ルーマンのどの建物も赤煉瓦でできているように、この酒場も赤煉瓦でできていたが、赤釜と称するように名物は釜で焼く料理だという。フラウ麦の香ばしい薄焼きの香りが、酒場のなかに充満している。
「週末のお酒は最高です……っ」
ターニャは、ぐっと一気に陶杯を傾けていた。心配になったけれど、シェイラよりも数歳年上の彼女は自分の酒の飲み方は心得ている。問題なさそうだった。
シェイラも、合わせて麦酒を口にする。いつもと同じで、{修復}が働いているから、ただの苦い水だ。ターニャと同じ気持ちは、ちょっとわからない。
早速、乾酪のたっぷりかかった薄焼きが出てきた。一緒に、かりかりになった薄切り燻製肉と、オルトヴィア目箒がのっていて、よいにおいが漂っている。
ターニャは、食前の挨拶をすると、円形の薄焼きを切り取って、口に入れた。はふはふと言いながら、おいしいと顔をほころばせる。
シェイラも同じように口に入れたが、どこか物足りなさを感じる。あまさがほしいな、と思う。
「──ルーマンに、乾酪をのせた薄焼きに、蜂蜜をかけて食べる店があるんだ」
花の都を歩いている時に、イディオンはそんなことを言っていた。露店で出されているさまざまな食事に顔をしかめているシェイラに、思い出したように言ったのだ。
「それなら、偏食のシェイラでも食べられるんじゃないか?」
「偏食じゃないです」
「食べようと思えば食べられるって言いたいんだろう?」
「そうですよ」
「じゃあ、食べるって約束だ」
「え」
「食べられるなら、べつにいいだろ?」
「……ですが」
「約束」
「……わかりましたよ」
肯かなければしつこそうなイディオンにげんなりしながら、シェイラは渋々言う。
「好きな味じゃなかったら、イディさんが食べてくださいよ」
「好きじゃなかったらな」
「一緒に食べるんですから、絶対です」
「絶対?」
「そう。それも込みの約束です」
シェイラが睨みつけるようにすると、イディオンは、にかっと笑う。
「ああ、約束だ」
喧嘩する前の、そんなくだらないやり取りを、シェイラは思い出す。
「──もしかして、私、さっきお邪魔しちゃいましたか?」
二切れ目を口にしていたターニャが、突然そんなことを訊いてきたので、シェイラは顔を上げる。
顔にでも出ていたのだろうか。
「いえ、特には……?」
誤魔化すようにシェイラは笑う。なぜだか内心を見透かされてしまったようなきまりの悪さがあった。
「……シェイラ師、セゾンで私と前にお話をしたことを覚えていますか?」
返答を聞いて、ターニャはふと思い出したように尋ねた。
「はい? 覚えていますよ……?」
なぜなら、シェイラは記憶力がいいからだ。
ターニャは、うふふと楽しそうに笑った。それはまるで、シェイラのことをわかっていて見守ってくれている、姉のような笑い方だった。不思議な気持ちになる。
「私がまだ、自分を出せなくて……セレ……えっと、セルくんとの関わり方も悩んでいた時に、彼は生きづらさを抱えているってお話されていたんです」
たしかに、そんな話をした覚えがある。
「その時、シェイラ師は、みんな、なにかしらの生きづらさを抱えている、とおっしゃってました。それが今、表面化しているのかしていないのかだけだと」
「…………」
「私は、それがとっても腑に落ちたんです。そうかもしれないって」
「……それは、よかったです」
シェイラの伝えたことが、ターニャの心に残ったのであればうれしい。
シェイラは微笑して、麦酒を口に含む。苦い味が、舌の奥に嚥下されていく。
「だから、あの時、聞いたんですよ。シェイラ師も生きづらさを抱えているのかって」
「……そうでしたね」
問われた覚えがある。
「シェイラ師、わかりませんって答えたんです」
「…………」
「必死になりすぎて、そういうものは、もう感じなくなってしまったって」
そうだ。
シェイラは変わらない。あの頃から。
魔法を使う理由を見つけた。リヨンをはじめ、子どもたちを救うという理由を。
けれど、生きづらさがあるのかないのか。感じなくなってしまって、あまりにも久しかった。
──シェイラが、ヴィクトルの隣を失って七年。
そういう年数を重ねた洞が、シェイラにはあるのだ。魔法を使う理由を見つけたとしても、その空っぽになったものは、埋まっていなかった。残りの寿命を思うと、その洞には、びょうびょうと風が吹き込んでくる。
(だからきっと……)
置いてきぼりになってしまう、と思うのだ。自分だけ置いてきぼりにされてしまう、と。
最近また、その感覚を得ることがある。ターニャが結婚するというめでたい話を聞いて、祝いたい気持ちがあるなかで、置いてきぼりになるという気持ちがもたげるのだ。
(人は、移ろっていく)
変わっていく。時を重ね、変容していくものだ。
それが、愛おしく好きなはずなのに、最近のシェイラはたまらない気持ちになってしまう。まるで、置いていかないで、と小さな頃の自分が叫んでいるみたいだった。
『母さん……っ!!』
置いていかないで、とシェイラは母に叫んだ。岩屋に押し込めて、自分を〈雲虹〉から守ろうとする母に。
命脈が尽きていく芯を感じるから、きっとそんなことが頭をよぎるのだ。
「あの時、シェイラ師、すごく寂しそうな顔をしていたんですよ」




