219話:香りちがい
シェイラは、相も変わらず溜息をつく。イディオンとは、ほとんど会話もない日々がつづいていた。
気持ちを切り替えるために、宿の書き物机で書類の束を広げた。蓋付きの書き物机は、蓋を手前に引くと書類や翰筆、墨壺を広げられる。背もたれのない小椅子を引いて、位置を調整する。
──書類は、ヴィクトルから届いたものであった。ヴェッセンダリアを経由して、ルーマンの公館郵便窓口に届いたものを今朝受け取った。
大判の封筒に捺されているのは、聖王家の印。聖剣に、赤実ヒイラギと白ヤドリギ。
真紅の封蝋を指の腹でなぞってから、ぷちっと開ける。{封緘}の術が破られる。指名した相手でなければ、破れない魔術だ。王侯貴族では当たり前に行使される魔術。
封を開くと、ふわっと香るにおいがあった。
柑橘に丁香、オルトヴィア目箒の混ざった香り。
(こんなにおいでしたね)
ヴィクトルが好んでいた香りだ。彼は、そういうところも余念がなかった。抱き寄せられると、いつもいいにおいがした。彼がいた部屋の残り香を感じるだけで、小さな幸福を感じることができた。
(トールの部屋の香り)
ふたりで笑い合ってお茶をした、少女の頃を彷彿とさせる。
(イディさんは……)
雪原の針葉樹。清廉な雪景色。
どちらもよい香りがするのに、ヴィクトルの香りはどこか懐かしい。イディオンの香りを思い出すと、すぐにモルリオールでのことが連鎖する。背に感じたぬくもりと大きさが、思い出された。
ぼうっと、その時に見上げた輪郭を思い出す。星都で再会した時に、ぽかんとした時のことも。
端整になったな、と。
(な、なにを……)
──考えているのでしょう、わたしは。
シェイラは、さっと自分の首から頬にかけて朱が昇るのを感じた。
昇った熱は、冷静になるとすぐに引いていく。そうすると、今度は全身にひやっとした汗が薄く浮かんだ。残暑のせいだと言い聞かせて、立ち上がって慌てて窓を開ける。時つ風が、浮かんだ汗を乾かしていく。
「確認しませんと……」
しばらく風を受けると、もう一度ヴィクトルから届いた書類に目を向ける。落ち着きを取り戻して、視線をすべらせていく。
報告書や、統計調書、古文書などを箇条書きのような形でまとめたものだった。
オルリア国内の査問院がこの数年で扱った呪術関係の事件、学園や学院の子どもの事故死や不審死の数、さらには聖教会の管理する聖魔術と呪術の一覧など多岐に渡っている。
(トールの字ではありません)
書記官か、補佐官か。
これほどの書類を集めてまとめるのには時間を要しただろう。優秀な人間が行ったにちがいない。
シェイラはそれらを黙って、めくっていく。
気づけば、すっかり宵闇で、暗がりのなかを目を眇めるように読みふけっていた。最後まで到達して、ふっと目頭に疲労を感じる。
宵燈の明かりを灯すと、ぽうっと書面が明るくなった。
「オルリアではこの五年近くで数人……」
子どもが、不審死を遂げている。
野犬に食い荒らされたのではないかというものもあれば、きれいな姿形で眠るように死んでいたものもいたという。
シェイラは、胸が痛んだ。
どういう子どもたちだったのだろう。家族はいたのだろうか。友人は。彼ら彼女らにもまた、一人ひとりの人生があったはずなのに。
顔も知らない子たちなのに考えるだけで、胸が沈んでいくようだった。瞑目する。
幽冥を想っていると、窓から入ってきた風が、ひらっとなにかを煽った。かさっという音がして、胡桃色の床板に落ちる音がする。まとめられた報告書のあいだに挟まっていたと思われる紙片だった。
最高級の仔羊皮紙。
そこに、さっと綴られた文字。
〝なにか他に知りたいことがあったら、遠慮なく言ってほしい〟
名前は書かれていないけれど、手跡でわかる。力強さの感じられる墨の跡は、まちがいなくヴィクトル・オルリアその人からのものだった。
(トール……)
シェイラは、それを取り上げると、両手に握り込む。そのまま、握り込んだものを疲労の感じた目頭のもとで祈るようにする。
会えない彼は、また疲労を蓄積させているのではないか。この一言を綴る時間だって惜しかったのではないか。
疲れが取れてほしいと願う。休んでほしい。他愛なく、ほっと息をつけるようになってほしい。
シェイラはいつもそう祈る。
「──シェイラ、少し話がある」
そうやって祈りを捧げているところに、イディオンの声があった。許可よりも前に、取っ手が押されて、銀色の冴える姿が現れる。
床と同じ胡桃色の書き物机は、戸の近くにあった。
シェイラはびっくりして見上げて、イディオンも扉のすぐ近くにいたシェイラに驚いた。自然、机上に広がっていたものが目に入る。
「それ……」
「あ、これは……」
オルリアからの、と答える前に、イディオンは封蝋などから察したようだった。
シェイラの手から覗く紙片に、縹色の視線が移る。
「……邪魔した」
一瞬、双眸のなかに青火がちらついて見えた。身が翻される。
「イディさん……?」
シェイラは慌てて立ち上がった。葡萄色の長外套が小椅子に引っかかってもつれた。体が傾ぐ。イディオンのはやい足音が遠ざかっていく。
「待ってください……!」
椅子の足に絡まった長外套を脱ぎ捨てるようにして、扉を出た。追いかける。
階段を下りて酒場となっている樽卓のあいだを縫って、イディオンの背は宿を出ていく。シェイラは走り抜けて、あとを追った。
はやい足取りが、これまでゆるめてくれていたのだとわかる。
シェイラは走って、敷石を歩むイディオンを追った。焦燥で、魔法を使うのを忘れる。
「イディさん……っ」
追いついて、イディオンの長外套をつかんだ。雪白は、闇夜にきれいに浮かんで見える。
「なに?」
イディオンは足を止めて振り向いたけれど、冷え冷えとした目をシェイラに向けた。
──怒っている。
このあいだと同じだ。まだ、怒っているのだ。鎮火していたはずなのに、またシェイラの無意識ななにかがイディオンを怒らせたのだ。
「あの、話って……?」
せっかく話に来てくれたのに。
シェイラは仲直りがしたかった。
また、揚げ麦粉焼をはんぶんこしよう。そう言いたかった。
(今日は福音ノ日だから……)
だから、いいきっかけのはずだ。福音ノ日は特別な日なのだ。
シェイラはそう思って、イディオンの長外套をぎゅっと握りしめた。
「……べつに、もういい」
イディオンは、つめたく、そう言う。
「でも、話があるって……」
突き放されているのに、シェイラは駄々をこねているみたいだ。おかしなことに、そんな言い方にもなっていた。
「いいよ、べつに」
イディオンは、シェイラの手を払うように長外套を引っ張る。
「ぼくの情報なんか、どうでもいいだろう」
「……なにを言ってるんですか」
シェイラは、顔を上げる。
イディオンがなにを言っているのかほんとうにわからない。どうでもいいわけがない。
──あなたを頼りにしているわたしの気持ちが、わからないんですか。
(だから、寄りかかろうとしないようにしているのに……)
精いっぱい、残りの人生を立ち上がって、歩こうとしているのに。
イディオンは、シェイラの気持ちがわからないのだろうか。
(わかるわけがない)
イディオンに、伝えたことがないのだから。
ふいに、目尻に水が浮かんだ。なぜだか、わからなかった。泣きそうになったことは何度もある。気持ちが揺さぶられて、なんとかまぶたを閉じて、いつもやり過ごすのだ。涙を吸う穴に、感情を閉じ込めて、流してしまうのだ。そうすれば、俯瞰できなかった気持ちも落ち着いていく。
つうっと、流れたものは、そうやって閉じ込めてきたものが、あふれてしまったようだった。
シェイラの青金色から、伝い落ちていく。
イディオンの目が、見開かれる。
気づいて、ぱっと背を向けた。
「……ごめんなさい」
目元を拭おうとして、いつもの長外套の袖ではないことに気づく。長裙衣一枚だけで、守ってくれるものがないと心許ない。
「シェイラ……!」
「少し……落ち着いてきます」
イディオンが呼び止める声がした。
振り払うように{転移}を発動する。胸元の石を握り込む。薄紫の銀光に、かき消えるようにした。




