207話:襲撃
ふう、とヤルチェは、息を吐いた。夢中になっていたから、汗だくだった。円盤を磨いた金属臭と薬液のにおいと夏の暑さが混ざり合って、工房全体の空気が、むわむわしている。
(なんとか間に合った)
円盤にうすい傷を見かけて、ヤルチェは急いで自宅工房に向かったのだ。本番の大事な日に、傷のせいで音に支障があったらまずい。まだ間に合うと思って、調整を行った。
今から引き返せば問題ない。
布で汗を拭うと、ヤルチェは工房着を脱いで、家を出ようとした。
チリンチリン──……
鳴風鈴が鳴った。
だれだろう。客だろうか。今日は祭りで、父や職人仲間もいないし、店にも閉店の札を下げている。なにか急ぎの用事だろうか。
ヤルチェが工房から出て、店に顔を出せば、見慣れぬふたり……否、一人は見覚えがある。フェーリの店でおまじないを扱っていた女がいた。
臙脂色の長外套。
顔が見えないが、佇まいからその女だとわかる。
「──こんばんは」
女は、場ちがいな挨拶を口にした。今は日中だ。間もなく中天をすぎる。ヤルチェたちの学環の発表が近い。
「こんにちは」
ヤルチェは、ぶすっと返す。急がねばならなかった。早口になる。
「すみません、今日明日は祭典で店じまいなんです。御用があれば、また明後日に──」
「すぐ終わるのよ」
女は、のほほんと言った。軽やかに転がすように喋る。
「私たちはあなたに用事があるの。すぐ、終わるわ」
女の声に、どことなく、ヤルチェが手を出してしまった、まじない具の気配を感じたのは、きっと気のせいではなかった。声が笑っているのに、見えない長外套の顔は笑っていない。
ヤルチェは、もう二度と、おまじないには手を出さないと決めた。
よくない空気を直感で判断して、身を翻す。工房の裏口から外へ。工房街の裏手は切り立った崖に接する小路につながっている。職人たちはよく一服する時にここを使うが、表通りにも出ることができる。
小路に躍り出た瞬間、ヤルチェは勢い余って平衡を崩した。不器用な自分の身体を叱咤したくなる。なんとか平衡を取り戻そうとした、寸暇がいけなかった。
がっ、と顔が掴まれる。男の大きな手だ。もうひとりの人物の手だろう。崖にせり出す欄干に背が押し付けられる。
「逃げないで」
女が、男の後ろからやって来た。
「私は、失態を取り返さなきゃいけないの」
女は言う。
「団長が機会をくださったのに、損ねてしまったから、困っているの」
なんのことだ。ヤルチェは知らない。
掴まれた顔に、ぐっと力が入る。
「だから、大人しく供物となって? かわいそうなあなたの〈導脈〉が必要なの」
女は、打ち抜き用の工具を出す。
「大丈夫。あなたのかわいそうな力は、竜とともに、黎明の世を切り開く力になるから」
安心してね。
女が、ヤルチェに振り下ろすわずかの間に、白い鳥のようなものが割り込んだ。
ヤルチェの体が傾ぐ。男の手が離れて、欄干を越え、ヤルチェの体は崖の下、エレ川へ落下する。
悲鳴よりも先に、ヤルチェの体をがっしりと受け止める手があった。白い鳥と思ったものは、さきほどヤルチェを恐怖に陥れた男の手とは異なる。樹木の香りがする男の手だった。
「──イディさん、ヤルチェさんを!」
上から声がする。視界に、ヤルチェを助けてくれた魔導師の姿があった。月光蛾の精だ。安心する。涙が出てくる。
「だが! シェイラ!」
ヤルチェの体を抱く男が、悲鳴を上げるように叫んだ。ぎゅっと痛いくらいに力を入れられて、男の焦りが伝わってくるようだった。
「戻ってきてください!」
月光蛾の魔導師は、ヤルチェを捉えていた男の魔術師と交戦している。隙間にそう叫ぶ。
さらに力を入れられて、ヤルチェは助けてもらった礼を忘れて、痛みに悲鳴を上げそうになった。
「……っ」
逡巡があった。だが、間もなくしてヤルチェの体は、男の強い力とともに光の粉になってかき消える。
すぐに、野外劇場の近く、大木のブナが生える場所に移って、下ろされる。
{転移}というものを体験したのだとわかる。はじめての、めったにない経験で、ぽかんとする。
「すぐにウショー師のとこへ行け」
ヤルチェを下ろした男は、随分と顔の整った男だった。そう言えば、見覚えがある。ペニーや、他の子たちが騒いでいなかったか。
「洗いざらい今遭ったことを話せ」
「でも……」
そんなことを話したら、劇が中止にならないだろうか。変なふたりに襲われた。警戒が高まって、せっかく準備してきたものが実施されなくなってしまう。
ヤルチェの不安を嗅ぎ取ったように、焦る男の目には苛立ちが浮かびながらも、返答がある。
「問題ない。おれたちがどうにかする。ウショー師には、そう話しておけ」
「……わかりました」
「予定通りに開演しろ。じゃなきゃ……、意味がなくなる」
なにを、とヤルチェは尋ねる暇はなかった。
男は身を翻すと、またもや{転移}の光を放ってかき消える。
ヤルチェは呆気に取られながらも、襲われても離せなかった、胸に抱いた円盤を強く持ち直す。劇場のほうに急いで足を駆けた。




