204話:ロウェインの夕べ
火炎ノ日の夕刻であった。
今日も終わったか、とロウェインは窓からモルリオールの夕べを覗く。赤屋根は陽に照らされて、山肌のような美しさがあった。
ロウェインはこの光景を心から慈しんでいる。学院長という職責を望んだのも、この魔術学院で一番よい景色がこの学院長室から臨めるというのも大きかった。
ロウェインは歌劇や舞踊劇だけではなく、芸術というものを、フィシェーユという国を、愛している。自らの出身である自鳴琴の街モルリオールには、特に深い愛情を抱いていた。
伝統と歴史のある、景観の美しい街。
一言で語られるにすぎないが、モルリオールは芸術においても秀でているところがある。建国祭での履歴がないだけで、素晴らしい街なのだ。
だから、ロウェインは建国祭での注目が重要だと思っていた。観光のみならず、芸術魔術においても優れた街であると証明したかった。
この尊く愛すべき古くからの街を、フィシェーユを越えて、大陸全土へと伝わる名にしたかったのだ。
ロウェインは、旧市街への道のりを進みながら思う。
歳を負って、気づけば同じことばかり考えている。さっき考えたかもしれないことをすぐ忘れて、また同じことを考える。そんな繰り返しだ。
(私も、年老いた)
今回が、最後の機会だろうと思っている。
魔術学院を祭典で優勝に導き、建国祭への出場権を得る。
〈霧の厄禍〉という大いなる災いが予見され、大学府から学院には、来年度までの特別時程が組まれて、通達されている。
来年は、祭典は開かれない。建国祭もない。そして、来たるべき災い。
(死ぬかもしれないな)
老いたロウェインは、そう思う。霧に呑まれて、もう二度とモルリオールの景色を望めないかもしれない。モルリオール自体も、もしかしたら残らないかもしれない。
(ならば……)
自分が死する前に、美しい街が破壊される前に、だれかの記憶に残る、今の美しいモルリオールを軌跡として残したかった。
子どもたちに多少の無理を強いたとしても、老い先短いロウェインは、自分の夢を叶えたかった。
歩いていると、暑くなった夕陽が乾いた肌に沁みていく。出にくくなった汗が、少し皮膚を濡らす。眩しく感じながらも、モルリオールの敷石を一歩一歩踏みしめる。
ふと、聞いたことのない音色が、ロウェインの耳に入ってきた。どこか郷愁を覚える音色だった。子どもの頃、学園の帰り道、組み鐘広場で手回し風琴を聞いていたあの頃。ちょうどその場所から流れてきている音色のようだった。
自鳴琴。否、そんな些細な音ではない。もっと響き渡る美しい音色。
「なんだ……?」
ロウェインは、思わず素が出た。いつもの学院長の皮は剥がれて、子どもの頃の好奇心が覗く。
──柱時計、のようなものだった。
広場に置かれた柱時計が、自鳴琴と似た、けれど荘厳さも感じさせるような音色を放っている。
『エレ川の舞姫』
その主役楽曲。たしか、ウショー師の学環では、この『エレ川の舞姫』を発表するのではなかったか。
舞手もいた。
全身が黒かった。面紗もかけて、自身の存在を主張しない。あくまで柱時計の音色を主としながら、されど惹きつけるように舞う。
──舞手は澄鈴を用いていた。
珍しい、細かな音色は奏でられない素朴な楽器。その楽器とともに舞手が舞う。あざやかに主役楽曲が映えるように奏でられる。舞手の繊細な気づかいが感じられるようだった。
気づけば、ロウェインは、他にいる人々と同様に、大道芸のように披露されるその音色と舞に足を止めていた。
はらはらと老いた肌に、涙が伝っていく。
懐かしい、子どもの頃が戻ってくるようだった。もう顔も思い出せなかった、蟲に喰われた学友や遠い地に引っ越してしまった学友の姿が脳裏に浮かび上がる。
(ああ……)
彼らとの体験が、ロウェインの原風景にはあった。
いなくなってしまった彼らとの思い出の地であるモルリオールを、ロウェインは残したかったのだ。ともに学び、故郷を同じくしたものたちの。
生き方は異なっていったけれど、一時を学舎でともにする喜びを、このモルリオールという地とともに残していきたかった。
たとえ、卒業して会えない未来があったとしても、死にゆく運命であったとしても、さまざまな者たちがともに過ごせるのが、学舎という場所なのであった。
ふいにロウェインは、ヴェッセンダリアから訪れた魔導師の言葉を思い出した。
参加、という言葉の意味を。その意味する言葉の広さを。
(さまざまな生き方をするものたちが……)
過ごしやすく、息がしやすく、学徒時代を楽しく思い起こせるようにすることが、学院長の役割ではなかったか。
ロウェインは、そんなことを思う。
柱時計の自鳴琴は旋律を奏でつづける。黒い舞姫は踊りつづける。
肩から力が、抜けていく。
夕べに輝く調べを、ロウェインは最後まで耳に入れて過ごしていた。




