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魔法が使えない魔導師と、霧の大陸の教え子たち【6/6完結予定】  作者: 稿 累華
第10章:ついてくる少女─後編─

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202話:大切な願い

 ふと、さあっと夜の夏風に、花と柑橘の香りを感じた。

 空を、見上げる。



「──それは、あなたの大切な魔法ではないのですか」



 紫水の月光蛾。

 ヤルチェは、きっとそうだ、と思った。


 銀色の鱗粉。淡紫の翅が、漆黒の新月を受けて、舞い降りる。

 紫水マツの輝きと溜め込んだ霧の魔力を受けて、夜闇に煌めく、幻の蛾。この世で一番美しいとされる蛾。

 きっとその精なのだ、と思った。


 薄紫の髪を揺らしがら、ヤルチェの振りかざしたものに、やわらかくふれる。瞳の青金は、哀しげに金の色をちらつかせながら、ヤルチェを労っていた。



「──その円盤(ディスク)は、ヤルチェさんにとって、なによりも大事な願いの込められた魔法ではないのですか?」



 降り立った月光蛾の精はそう尋ねてくる。

 いつだったか、会った気がした。学院でも見た気がする。

 そう思いながら、ヤルチェは問われたことを考える。


(あたしの、なによりも大事な願い)


 それは、なんだっただろう。どこか、思考がくぐもっている。大切なものはなんだったのか。自分は、ほんとうはどうしたかったのだろう。


「あなたの今の願いは、その大事なものを代償にしたとしても、叶えたいものですか?」


 その問いには、切なさを覚えるものが滲んでいた。


 ヤルチェをはっとさせる、瞳のなかの金粉。凛とした声音には{魅了}が含まれていないはずなのに、ヤルチェにすべてを思い出させる力があった。


(そうだ……)


 あたしは、ただ、父さんと母さんの思い出を自鳴琴に載せたかっただけだ。

 毎日のたしかな幸せのために学院で学んで、この大好きなモルリオールの街の伝統を、新しい自鳴琴で輝かせたかった。


 ぼやけていた視界が鮮明になると、急速に身震いが襲ってきた。ぞくぞくと足元から震え上がり、今にも発熱を呼び起こすほどの振戦。


「あたし……」



 ヤルチェは、なんてことをしてしまったのだろう。



 いやなことをされた。すごい苦しかった。消えてしまいたくなった。憎しみを覚えた。くやしくてたまらなかった。

 けれど、ヤルチェのやったことは、いけないことだ。許されないことだ。絶対に人としてやってはいけないことだった。

 友だちを怪我させた。それだけではない。屋根から落とした学友は、もし教導師に助けてもらえなかったら、死んでいたかもしれない。

 現実を思い出すと、ぞっとした。自分の身体から、その恐ろしいものを剥がして剥がしてどうにかしてしまいたくなった。


 ヤルチェは、叫ぶ。

 慟哭が、乳白に輝くカエデの隙間を縫って轟く。



「──大丈夫ですよ」



 やさしい声が、ヤルチェをそっと抱きしめた。

 いいにおいが、した。


「大丈夫です。まだ、あなたは取り戻せますよ」


 ヤルチェのぼさぼさの髪がなでられる。


「やってしまったことは取り戻せません。あなたは、これからその苦しみを抱きながら生きていかなければいけません。それはとってもつらいことです。

 でも、大丈夫ですよ。大事な願いは取り上げられていません。あなたはまだ、やり直せる」


 月光蛾の精はやさしい。鱗粉の魔力に当てられたように、ヤルチェは体から力が抜けていく。眠気が押し寄せてくる。


「ヤルチェさんの素敵な願いがどうか叶いますように」


 最後に聞こえてきたのは、そんな祈るような言葉だった。






 イディオンは、その様子を、少し離れたところで見ていた。

 {催眠}と{傾眠}をシェイラが手の平に描きながら、ヤルチェという少女をあやすように語る姿を見つめる。黙って、静かに、見守る。


 イディオンにできることは、それだけだった。

 ただ、見守る。生じる歯がゆさを俯瞰しながら、自分のされたことを思い出す。


 ──シェイラは、そういう人だ。気にかけた子どものためなら、自分を曝け出して、己のなかのものを注いでしまう。そういう人だった。


 それが、イディオンは、無性にやるせない。


(あなたは、いつも……)


 癒してしまう。

 シェイラという人そのもので、深い部分にふれて、あたたかくぬくもりを与えてくれるのだ。

 ヤルチェと同じことをされたイディオンだからこそ、わかる。

 きっと、あの娘は大丈夫だ。明日からは、前を向ける。そう確信できる。


(だが、)


 ──あなたの深い傷は、だれが癒すのだろうか。


 シェイラは無意識なのだ。幼い頃に蟲で母を失い、呪術に手を出して身を削り、そうまでして叶えたかった願いを失った。自分と同じ思いをしないでほしい。無意識に思っているから、同じ目に遭いそうな子どもに目を向ける。自分を削ってまで、助けてしまおうとする。


 そう振る舞うシェイラの姿が、イディオンは見ていられなかった。見ていられないからこそ、見守りたかった。三年前にシェイラという存在を知れば知るほど、どうにかしてやりたかった。


(だれもいないなら……)


 しようもない思考がもたげる。


 イディオンの手甲は、軋む。

 ちがう、ともう一人の自分が言う。



 ──シェイラが、イディオンにそれを望まない。



 葡萄色の長外套を見るたびに、自制の声が聞こえる。

 おまえではない、と。


(ぼくは……)


 ただ、あなたを守る。

 与えられたものを、ただ、返す。

 恩を、返す。


 イディオンは自分自身に刷り込むように言い聞かせる。足の裏をぬかるみに沈み込ませるようにしながら、シェイラの背中が立ち上がるまで、ずっと見守っていた。

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