199話:ウショーの相談
「──シェイラ師、少しいいですか?」
エレンシアの月の最終週、シェイラとイディオンが学院を訪れるとすぐに、ウショー師に捕まった。
ウショーからシェイラに話しかけてくるのは、はじめてのことだったので、内心で驚く。表情には出さず、柔和に応じる。
「おはようございます、ウショー師。暑くなってきましたね」
「あっ……、おはようございます。これからはさらに、暑くなりますよ」
ウショーは挨拶を忘れていたことを恥じるように、けれど話したいことを話したくてたまらないようで早口だった。朝の忙しい時間だったからかもしれない。
「どうかされましたか?」
「まずいことになりました」
「まずいこと?」
シェイラは首をかしげる。
「今はゆっくり話す時間がありません。放課後、時間をもらえますか?」
ウショーの確認に、シェイラは目を丸くしてからしっかりと首を縦に振る。
「はい、もちろん」
礼を言うと、ウショーは足早に教導館を去っていった。
シェイラとイディオンは顔を見合わせる。
「なんだろうね?」
「わかりません」
当てがつかない。
「でも、うれしいね」
イディオンが言う。
「向こうから話しに来てくれるのは、うれしいだろう?」
「はい、それはもう」
用件は気になるが、シェイラは素直に肯く。
信頼関係というのは、目に見えないものだと思う。それが結ばれているのか、結ばれていないのかは、はっきりとわからず朧げで曖昧なものだ。そして、とても危うく、ほんの少しのことで壊れやすい、薄い硝子板のようなもののように感じる。
シェイラはたまに、その踏み板を歩いているような気分になる時がある。ヒビを作ってしまうのではないかとおそるおそる歩むのだ。
歩みながら、相手が自分に対して、少しは信頼を置いてくれていると感じられるのは、向こうから話しかけに来てくれた時だった。
おそれることはないと、手を差し出してくれる気がする。
(三年前……)
イディオンと関係を結びはじめたばかりの頃、シェイラが犯した失態があった。彼の心に土足でずかずかと踏み込む失態。自分の悲しみを思い出してしまって、つい歩み方を忘れてしまった失態。
あの時、イディオンとはもう、関係が結べないと思った。{修復}できずに硝子の踏み板は散乱してしまったと思っていた。
けれど、そのイディオンが、こうして自分の隣にいてくれている。
信頼関係とはやはり、目に見えてわからない、けれど結ばれていることがわかると、人の底をそっとあたためてくれる、やわらかな熱であると思う。
「うれしいことではありますが……」
シェイラは言葉を継ぎながら、回廊の先を見る。消えたウショー師の背中を探すようにつぶやいた。
「まずいことというのが、どうにかできるものであればよいと思います」
「そうだな」
沈黙が下りる。互いに、考えている時の沈黙だった。
まもなくしてイディオンが口を開く。
「ぼくは、どうするのがいい? 同席するか? それとも、元の予定通り?」
「元の予定通りでもいいですか?」
シェイラは寸暇をおかずに確認する。
「いいよ」
「一旦、ウショー師がわたしに話があると言ったので、一人で聞くほうがよいように思います」
「わかった」
「ヤルチェさんのほうをお願いします」
「了解」
「もしなにかあれば、{通信}でつないでください」
シェイラとイディオンは、そうして二手に別れた。
「──すみません、シェイラ師、一緒に学院長室まで来てください」
放課後になると、慌てて教導館に戻ってきたウショーは、シェイラを見つけるとそう言った。疑問符を浮かべながら螺旋階段をのぼっているうちに、ウショーから朝の件の説明を受ける。
「実は、シェイラ師と話して、あれから週末考えていたのです」
「どういうことですか……?」
直球な話題に、シェイラは相槌なのか疑問なのかわからない応じ方になる。
ウショーは気にならなかったようで、つづけられる。
「シェイラ師のおっしゃっていた言葉を。私の願いが、ヤルチェを押し潰していないか、と」
「……はい」
シェイラは今度こそ、きちんと相槌を打つ。
「……それは、その通りではないかと思ったのです」
ウショーの表情には苦渋と後悔と、それからどこか憑き物が落ちたような安堵の波が浮かんでいた。
「私はもしかしたら、祭典で成果を出すことに囚われすぎてしまったいたのではないかと。子どもたちを成功に導きたいというのが願いだったにも関わらず、全員を舞台上に上げてそれで成果を出すことに評価を受けてきたから、この数年でこだわりすぎてしまったのではないかと……ふと我に返って思ったのです」
「目的と手段が……置き換わってしまった、そういうお話で合っていますか?」
シェイラは尋ねる。
「はい、合っております」
ウショーのしっかりとした視線に、シェイラは目顔でつづきを促す。
「ですから、ヤルチェにも……もしかしたら、これまで担当してきた学環の子どもたちにも圧と苦しみを抱かせてしまっていたのではないかと、思い至りました」
「…………」
「見ないようにもしてきていたな、と」
ウショーは自嘲する。
「子どもを成功に導きたかった。子どもたち同士で協力して、努力した結果の成功を味わってほしかったのに……それを無理強いしてきたのかもしれない、ということに気づいてしまいました」
「……そうでしたか」
シェイラは、そっと肯く。ウショーの悔いを、感じられるようだった。
「だから、週末猛省をして、週明けから一度仕切り直そうと思ったのです」
「ええ」
「子どもたちの意見も聞きながら、もう少し役割を調整すれば、祭典の本番にも間に合うと思いましたし、なによりも祭典で成果を出すことが目的ではない」
「はい」
「成功に導くための航路を描こうと思ったのです」
ウショーは、自分の舵に自信を取り戻したように話していた。
「──ところが……」
ふっと、その太く豊かな声音に影が指す。
回旋する階段を登り終えた。まもなく、学院長室だった。
「方針の変更を却下されました」
「却下?」
シェイラとウショーは学院長室の扉の前で足を止める。
「どなたに却下されたのです?」
シェイラが尋ねると、ウショーの声は小声となった。すぐ近くにその相手がいるように。
「──学院長にです」




