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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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混乱

翌日の午前には、柳原さんのデータを消した犯人がわかった。あったこともない人で、名前を聞いてもわからなかった。柳原さんの後輩で、他部署の人だった。

理由は仕事の妬みだという噂だけど、本当の事はわからない。


仕事がひと段落して、休憩室でコーヒーを飲んでいると神田さんが来た。

「昨日はありがとう」

そう言って頭を下げてきたから、私は慌ててそれを止めた。

「この間は色々言ってしまって、ごめんなさい」

顔をあげた神田さんは言いにくそうに続けた。


「私、実は成瀬さんのことを疑っていて」

「え?」

思いも寄らない事を言われて、私は驚いた。神田さんは俯いた。

「あの会議、最初は成瀬さんが出る予定だったみたいで。でもそれを柳原さんが課長に頼んで、変えてもらったみたいだった…。たぶん、課長に強く頼んだのだと思う」

それは初めて聞く話だったから驚いた。そんなことは、成瀬さんは言っていなかった。


言っていない、のではなくて、いう必要がないと思ったのかもしれない。

もしそうなら、とても悲しいことだけれど。


「その件で成瀬さんが怒ってあんな事をしたのかなって…でも、違うよね。成瀬さん、そんな人じゃないよね」

神田さんはそう言って私をみたから、私は大きく頷いた。

「成瀬さんはそんな人じゃない」

「そうよね。そんなことする人なら、あの資料を貸さないはずよね」

安心したような顔をして神田さんが息を吐く。

「成瀬さんがくれた資料があって、すごく助かったの。あれがなかったら大変だった」

私は神田さんをみて、もう一度口を開いた。

「成瀬さんはそんな人じゃない」

私は自信を持って言える。成瀬さんは、そんな事をする人ではない。裏で何かをするような人ではない。


神田さんは笑顔になって、もう一度頭を下げて戻っていった。

ちょうど外出から戻ってきた成瀬さんが、私から離れていく神田さんとすれ違う。

「なんかあった?」

と聞いてきた。私が首を振ると、成瀬さんは肩を竦めた。

「久しぶりに外で食事しようか」

「え?」

昼に成瀬さんがそんなことを言うのは、本当に珍しい。私は驚いたけど、成瀬さんは荷物を置いて先に歩き出した。


そのまま早足でビルを出ていく彼を小走りで追いかける。会社からだいぶ離れたところでようやく追いついた。

「成瀬さん、早いです」

その声にようやく気がついたのか、成瀬さんは苦笑いした。


歩きながらあの事件の結末を伝えるけど、反応はとてもあっさりしていた。それに驚いていると、成瀬さんは息をはいた。

「なんとなく予想はしてた」

「私、神田さんかと思ってました」

「君がそう思っているのも予想できたよ」

「だから、手伝わないといけないって思ったんですけど…」

「だから、俺は手伝わなくていいって言ったんだけど」


そこで成瀬さんがピタリと歩みを止めた。私も合わせて立ち止まる。

「成瀬さん、あの会議に出るのって、本当は」

そこまで言いかけたところで、成瀬さんは首を横にふった。

「俺が出る予定だったけれど、色々考えて課長と相談して、今回はやめた」


それで謎が解けた。


成瀬さんが柳原さんに渡した資料は、そのまま会議に出せるようなものだった。私には成瀬さんが作ったものだとわかる。実際成瀬さんがまとめていたデータや資料のおかげで、柳原さんの作業は順調に終わった。


昨日の夜、成瀬さんが帰る前に、柳原さんがお礼を言いにきた。

少し苦い顔をしながら、頭を下げてお礼を言うと、成瀬さんは静かにそれに応えた。

「会社に提出するものなんて、みんなで共有するべきですから」

別に特別なことではないです。驚くほど静かな返事だった。


だけどその時の私には、どうしてあの会議に必要な、しかもこんなによくできた資料を成瀬さんが持っているのかわからなかった。あの会議が本来、成瀬さんが出る予定だったなら、納得がいく。事前に準備していたのだろう。

じゃあ、どうして急に会議に出るのを辞めたのだろう。


最近の柳原さんのこと、私のこと。それが関係しているだろうかと思っていると、それより前に成瀬さんが笑う。

「あの会議はずっと俺が出ていたよ。だから今回くらいは他の人でも良いだろう」

「私のせい、ですか?」

「そんな事は全くない」

そしてうんざりしたような顔をした。

「もうこの話は終わりにしよう」

俺たちには関係ないし、もう終わったことだし。そう言って成瀬さんは苦い顔をした。

すみませんと謝ると、隣で笑い声がした。

「相変わらず、君の頭の中は、他の人のことばかりだな」


驚いて目を見張る。

成瀬さんは目を逸らせて、ため息をつく。


否定できない。私は昨日、止めるこの人の手を振り払ってしまった。

振り払ってまで、他の人のところに行ってしまった。

私は慌てて口を開いた。

「これからは気をつけます」

「期待できないな」

苦笑いした成瀬さんを見て、最近この人のこんな顔ばかり見ていると気がつく。


違う、そうさせているのは自分だ。

そう思ったら、何だか悲しくなってしまった。

好きなのも、一番大切にしたいのもこの人なのに、私はこの人に嫌な思いをさせている。


行こうか、いつものように穏やかに言って、ゆっくり歩き出した。慌てて追いついて、私は彼の隣を歩く。

成瀬さんは足を止めた。

「俺はとても君を大事に思っているし、必要としている」

また笑った顔は困ったような顔だった。

「それをうまく伝えられないことがもどかしいよ」

仕事なら、いくらでもうまく振る舞えるんだけどね。

そう言った成瀬さんの顔は、笑っているのにとても困っていた。


私も好きです。誰よりも好きです。

そう言おうとして、言っても今は伝わらない気がした。

好きなのに言えないなんて、もどかしい。

だけど、自分の言葉を信じてもらうのはもっと難しい。


私はそっと手を伸ばした。目の前の手を、全部を握る勇気はないから、指先だけをそっと握る。

「これからは心配かけないようにします」

触れた指先がくるりと動いて、今度は私の手がギュッと握り返された。

「期待してる、と言いたいけど、無理かな」

見上げると成瀬さんは苦い顔をしていた。

「これから社内講習も始まるしね。君のことだから、きっと気を逸らされるだろう」

簡単に想像できるよ、そう言った彼に私は笑うことしかできなかった。


こんな昼間に、会社の近くで手を繋ぐなんて、危険だと思う。どこかで会社の人が見るかもしれない。

だって、この人はこんなに目立つのだから。


だけど、どうしても私はその手を離せなかった。

離したら、もう手が繋げなくなるような気がして。

そうしたら、もう私たちが終わってしまう気がして。


この恋は、どうしても、手放したくなかったから。


だからしっかり、その手を握った。


***


ランチを食べると、成瀬さんは外に仕事に行った。今日は早く仕事を終わらせて、彼の家で食事を作る約束をしてきた。


ちゃんと彼を大切にしている事を伝えたい。そのためにできる事をしていこうと気合いをいれる。

頼まれた資料を秘書課に持って行った帰り、廊下を歩いていると、反対側から柳原さんが来た。


「牧野さん」

私は足を止めた。柳原さんは私の目の前まで来ると、手に下げた紙袋を差し出した。

「昨日ありがとう。助かったよ」

思わずその紙袋を暗い気持ちで見てしまう。

「私、何もしていないです。それに、実際に役に立ったのは成瀬さんの資料ですよね?」

私の言葉に柳原さんは目を逸らせた。


差し出された紙袋の前に、私は首を横に振った。

「あの、ずっと言おうと思っていましたけど、こう言うのは、もう」

そう切り出したところで反対側から人が数人歩いてきた。さすがに聞かれるのは気まずい。柳原さんは近くの空いていた面会室のドアを開けた。

正直入るのも躊躇うけれど、私は渋々そこに入った。


「で、何?」

二人になったからか、柳原さんは砕けた様子で話しかけてきた。

「もうチョコレートはいりません。いただいても困ります」

はっきりと断ると、柳原さんは片眉を上げた。


「それは、牧野さんの意見?それとも成瀬?」

挑戦的な言い方に、私は柳原さんの目を見返した。

「私の意見です。成瀬さんは関係ありません」

柳原さんはつまらなそうに肩を竦めた。

「へえ。成瀬の意見かと思った。君たち付き合ってるでしょ」


その言葉に、私は本当に驚いた。

この人が私たちの事に気がついているなんて、思わなかった。


驚いている私を見て、柳原さんは楽しそうに笑った。

「知らないと思った?この間、二人で帰っていくのを見たからね」

あの時だ、とすぐにわかる。柳原さんに仕事を頼まれて、そして、成瀬さんが迎えにきてくれた時だ。

二人で帰るところを見られていたのだ。


柳原さんは机に寄り掛かって腕を組む。

「あんなところで話してるから、わざとやっていると思ったけどね」

「な…」

「成瀬は見られてもいいと思ってるよ。でなければ、あそこであんなことはしない。多分、俺に見せるつもりだったんだ」

柳原さんは呆れたように笑った。

「そう言うやつだよ、成瀬は」


だけど、その言い方にムッとして、私は反論する。

「柳原さんが成瀬さんのことをどう思っているかは別として、私たちのことには口出ししないでください」

私は椅子に座る柳原さんの目を覗き込んだ。

「嫌だね」

はっきりとした反論に私は目を見開いた。

「どうして…」

柳原さんは私を見て笑った。

「多分、君はいつか傷つく。成瀬のせいで」


それにとても驚いて、私は言い返す。

「どう言うことですか?もっと詳しく教えてください」

柳原さんは私から目を逸らせた。

「まだ言えない。俺の予想だし、まだ確定していないから」

その返事に私はため息をついた。

「そんな適当な…」

思わず呆れたように呟いてしまった。


勝手な予想で、私が成瀬さんに傷つけられるなんて、言わないでほしい。

「もういいです。柳原さんには関係ない話ですから」


その時だった。

柳原さんが椅子から立ち上がった。そのせいで彼と私の距離が近くなる。目の前の顔は苛立っていた。真剣な目の柳原さんが一歩私に近づいて、思わず体を後ろに反らせる。


「いや、大いに関係あるよ」

そう言って私の腕を掴んだ。


「初めて君を見た時、ごく普通の子だと思った。どうしてあいつがあんなに気にしてるのかわからなかった。自分を騙すかもしれない奴のために、あんなに一生懸命になって、救いようのないお人好しだと思った」

突然始まった話が、なんのことだか分からなかった。


だけどすぐに、『あいつ』は成瀬さんだとわかった。

じゃあ、『お人好し』は、誰なのだろう。私、なのだろうか。

だとしたら、本当に、いつか私は成瀬さんに騙されてしまうのだろうか?


急に足元がぐらつくような気持ちになった。柳原さんはそのまま私の目を覗き込んだ。

「だけど、何故か目が離せなかった。一生懸命に仕事しているのを見て、放っておけなかった」

柳原さんの顔は苦しそうだった。整った顔が、歪んでいる。


たくさんのことを思い出した。

取引先の人が急に成瀬さんを尋ねてきた時のこと。課長は、柳原さんが私を助けた、と言った。柳原さんが私の荷物を持ってくれた時、成瀬さんも同じことを言っていた。`私を助けた`と。

神田さんは、柳原さんはいつも私を見ていると言った。私は、自分でなくて成瀬さんを見ていると思った。


だけど本当に見ていたのが『私』だとしたら?


ふと頭の中に、一つの考えが浮かぶ。

今、私の頭の中に浮かんだ考えが、本当なら…。

私は首を横にふった。同時に柳原さんの手に力が入った。


これ以上聞きたくなかった。

聞いてはいけない気がした。


顔を伏せようとした時、私の両肩は柳原さんに掴まれた。反射的に顔を上げると、すぐ近くに、苦しそうな顔があった。

「牧野さん。俺は、君に惹かれてる」

目の前の瞳が、強く私を見つめる。その目から目を離せなかった。


「俺は、君が好きなんだ」



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