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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
24/35

事件

予定通り、私は社内講習を申し込んだ。予定外だったのは、橋本さんも申し込んだことだ。ダメだと思って誘ったのに、意外にも乗り気になった。だけど一緒に受ける人がいるのは安心する。頑張ろうと約束した。


その社内講習が来週から始まるという時だった。

午前に手の空いているアシスタントで、資料の整理をしていた。偶然私のペアが、柳原さんのアシスタントの神田さんだった。

「よろしくお願いします」

そう言って挨拶したけれど、素っ気なく返事が返ってきただけだった。

神田さんは大人しいけれど、仕事はしっかりしている人だ。きっと上司が他のアシスタントに仕事を依頼していることをよく思ってはいないだろう。

「あの…」

仕事が終わる頃に、私が声をかけると、神田さんはチラリと私を見て、ため息をついた。

「柳原さんが牧野さんに仕事を頼む事は、気にしていないから。牧野さんも気にしないで」

「え、いや、その」

声のトーンや表情は、気にしてしまうものだった。

何か話さないと、と思っていると、神田さんが口を開いた。

「牧野さんはいいね」

明らかに褒めていないようなトーンで褒められて、驚く。

「あの成瀬さんのアシスタントになっただけでもすごいのに、その上あんなに優しくしてもらって。成瀬さんがあんなに人の指導するなんて、今までないから」

神田さんはそのまま私から目を逸らせた。

「羨ましい」

私は答えに困って黙ってしまう。


神田さんは机の上で両手を握りしめた。

「でも、牧野さんが営業に来てからずっと頑張ってたのは、みんなが知っているから。誰もやらない雑用とか、手伝いとか率先してやって、えらいなって思ってた」

そう言って神田さんは視線を落とした。

「柳原さんも、あなたの事をよく見てた。あなたが頑張ってる姿を、よく見てた」

あの人が見ていたのは成瀬さんで、私ではない。でも訂正しても、神田さんには伝わらないだろうから、私は黙る。


「柳原さんも牧野さんがいいんだと思う」

神田さんはそう言って、それから慌てたように言い直した。

「柳原さんだけでなくて、みんな牧野さんがいいと思っている」

神田さんの顔は赤かった。


彼女は柳原さんをよく見ている。そこに、特別な気持ちがあると思うのは、気にしすぎだろうか。

神田さんが口を開いた。

「これで終わりね。牧野さん、お疲れ様」

そう言ってファイルをしまうと、自分のデスクに戻っていく。その姿を、私はため息と共に見送った。


***

それから数日がたった。

午前中、人の少ない営業の室内は、どこかのんびりした空気が漂っていた。

すると、突然秘書課の室長が部屋に入ってきた。そのまま奥の机の奥平課長のところに早足で駆け寄る。二人で話をして、それから慌てて出て行った。

「何か、あったね」

隣の松橋さんが呟いた。私は黙ってそれを見ていた。あの課長の顔が強張っていた。絶対に何かあったと思った。


そしてその「何か」はすぐにわかった。

柳原さんの提出した会議用の資料が、誰かに消されてしまったのだ。


柳原さんが提出した資料は、今度の会議で使用するデータだった。会社に提出した資料も、社内のサーバーにパスワードをかけて保存していたバックアップも消されている。資料には機密情報が含まれるから、社内サーバーにだけ保存が許されている。きっと自分のパソコンや電子媒体では保存していないだろう。

だから作り直すしかない。だけど時間もかかるし、大変だ。


運が悪いのが、それが年に2回行われる決済会議で柳原さんが報告するものだった。その会議は全国の支社の重役が集まって、売り上げの報告や今後の新業務などの説明を行う、大きな会議だ。その会議で報告することができる人は限られる。それに指名されること自体が名誉だとされる。


資料がなくなった、では済まない。

大きな問題になるし、すぐに再提出しないと、柳原さんの今後にも関わる。


その日の午後の営業の空気は重かった。黙々と仕事する柳原さんが発する冷気が周りに伝わる。みんながその理由もわかっているけど、見ないようにしている。

柳原さんはイライラした態度を隠すことなく、忙しなく動いていて、神田さんはその隣で手伝いをしている。二人の前にはファイルが積まれている。データ整理が一番大変だろう。

この間私が手伝って作ったのも、無くなった資料の一部だ。私が保存している分は残っているから、渡したほうがいい。でも、それだけではきっとすぐには終わらないと思う。


左隣から手が伸びてきた。顔を向けると成瀬さんが私を見ていた。

「君もやらないと終わらないよ」

「あ、はい…」

だけど、私はそこから目が離せなかった。

「調べれば、すぐに誰がやったかわかるよ」

「私、気になっていることがあって」

そう切り出すと、成瀬さんははっきりと苦い顔をした。


私は神田さんを疑っていた。神田さんなら一番機会がある。

もし、そうだとしたら、自分も関係しているような気になってしまう。

「君には関係ない。自分の仕事に集中して」

「…はい」

「牧野さん?聞いてる」

心配するような成瀬さんの声がした。


その時、遠くで柳原さんの声が聞こえた。内容まではわからないけど、とても苛立っていた。その声が響いて、そのせいか営業内の空気が重くなる。私は思わず立ち上がった。


「里保」

左隣から声がした。声と同時に手が伸びてきて、私の左手を掴んだ。視線を向けると鋭い目をした成瀬さんが私を見ていた。目の端で右隣の松橋さんがこっちを見ていた。多分、聞こえていたことも理解できた。


この人が職場で私の名を呼ぶことはない。

会社を出て二人になった時しか、名前を呼ばない。

このタイミングで名前を呼ばれたことは、意味がある。

だけど、こう言うのは耐えられない。やっぱりこの状態をみすごせなかった。


「1時間だけ、いいですか?」

私は左隣の上司に向かって頭を下げた。

「見ていられないです。1時間だけ、手伝います。仕事には穴を開けないようにします」

成瀬さんは鋭い目のままだった。私はもう一度頭を下げる。

「お願いします」

捕まえられていた手は、するりと外された。呆れたようにため息をつく。

「1時間だけだから」

「ありがとうございます」

成瀬さんはちょっと待って、と言って自分のパソコンを動かして、持っていたファイルから資料を印刷して、無造作に私に手渡した。


「これも、必要になる。だから一緒に渡してきて」

「え、これ」

そこにはその会議で必要となりそうなデータがまとめられていた。この間私も同じものを作ったからわかる。強いて言えば、成瀬さんの作ったものの方が、まとまっている気がする。


どうしてこれを成瀬さんが持っているのだろう。成瀬さんが作ったものなのに。そう考えたのがわかったのか、成瀬さんは小さく息をはいた。

「これがあったほうが早く終わる。だから渡してきて」

元データは柳原さんにすぐに送る、と続けられた。


柳原さんは私が近づくと驚いて、そして顔を綻ばせた。

「牧野さん、助かるよ。ありがとう。この間君が作ってくれた資料に手を加えてもらえると助かる」

神田さんの視線が私を見て、すぐに離れた。柳原さんはそれに気が付かずに、私の前にファイルを置く。

「あとこのデータの処理、お願いしていい?それから…」

私は柳原さんに向き直った。まっすぐ彼を見て、口を開く。


「1時間だけです。1時間だけ成瀬さんに許可をもらいました。それから」

私は椅子に座ったままの神田さんを見た。さっき成瀬さんにもらった資料を手渡す。

「これは成瀬さんからです。必要になるそうです。使ってください」

それを見た柳原さんの目が見開かれた。私は構わずに二人を見て口を開いた。


「私は神田さんのお手伝いをします」

固まった柳原さんをそのままに、私は神田さんに向き直る。

「神田さんは柳原さんとその資料の作成に当たってください。だから私は神田さんの通常業務をもらいます」

神田さんは私を見て、頷いた。


神田さんから仕事を受け取って自分の席に戻る。やっぱり気持ちが張っていたのか、椅子に座ったらため息が出た。左隣から視線を感じて、恐る恐る顔を向けると、頬杖をついた上司がこっちを見ていた。

「…怒っていますか?」

その問いに、成瀬さんは肩を竦めた。

「いや、良い判断だと思うよ」

「迷惑かけて、すみません」


成瀬さんは私が預かった資料を遠目に見て、それに腕を伸ばした。神田さんの仕事を見るのかと思ったら、それを素通りして、持って行ったのは、ついさっきまで私がやっていた仕事だった。

「それはこのあとでやります」

それに成瀬さんはため息で返してきた。

「俺は柳原さんの手伝いはしない。だけど、自分の大切なアシスタントの手伝いは、する」

そう言って顔だけこっちへ向けた。


「それに今日は家でゆっくり食事がしたい気分なんだ」

それはつまり、早く仕事を終わらせて帰ろうという合図だ。

こんなに迷惑をかけたのだから、その願いは叶えないといけないだろう。

わかりました、と言う私の言葉に、成瀬さんは苦い顔をした。左手を顔に当てて、ため息をつく。

「悔しいけど、俺は君のそういう人の良い所も気に入ってるから」


こんな状況だけど、私はその時とても驚いた。

職場でこんなことを言う人ではないと思っていたし、どちらかと言うと、この人は私のそこを嫌なのではないかと思っていた。

成瀬さんは苦笑いして、腕を伸ばして持っていた資料で私の頭を叩く素振りをする。

だけど、実際に触れたのは彼の掌で、2回優しく撫でる。


すぐに、その手は離れて行く。離れないで欲しいと思う私の気持ちなんて知らないで。


そうして私から奪った資料を机に置く。

「まあ、時間内に終わらなかったら、今夜は奢ってもらおう」

その言葉を残して成瀬さんは自分のパソコンに顔を戻した。その横顔は怒ってはいなかった。


だから、私は成瀬さんに向かってそっと話しかけた。

「成瀬さんこそ、資料を渡したりして十分優しいです」

その言葉に成瀬さんは顔を私に向けた。

「でも、感動しました」

それを聞いて成瀬さんは苦く笑って、だけどため息をついた。

「君に言われたくないな」

「すみません」

「感動しなくていいから、一つだけお願い」

その顔は本当に困ったような顔だった。

「いい加減、俺だけ見ていてくれないかな」

ため息と共に、そんな声が聞こえた。



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