昔と今
社内講習の初日が来た。
その日、私は夕方まで仕事をしていた。だけど、頭の中はどこか混乱していて、講習が始まる時間をすっかり忘れていた。
その時
「時間、そろそろなんじゃないか?」
左隣からそんな声がかかった。そして時計を見て、慌てて声のした方へ視線を戻す。成瀬さんが心配そうにこっちを見ていた。
私は急いで準備をする。
「疲れているなら、無理しなくていいんじゃないか?」
そんな声がかかって、私は思わず俯く。
この間、柳原さんのことがあって、頭の中はずっと混乱している。普通に仕事をするだけで精一杯だった。
そしてそれは成瀬さんにもわかっていたはずだ。何かおかしいと思っているのもわかる。
だけど、理由は成瀬さんには言えなかった。
言えるわけない。
彼の顔を見れば、どれだけ心配しているかもわかる。でも、今はその顔が見られない。
伏せた視線の先で、柳原さんの席を見て、そこに姿がないことにほっとする、
「大丈夫です。行ってきます」
私はそう言って席を立った。
会場の会議室にいくと、すでに人は集まっていた。橋本さんを見つけて、隣の席に滑り込む。
講師は外部からきた女性で、かなり年上だった。だけど、意外に話がわかりやすく、熱中して聞いてしまった。そのせいか約1時間半の講義はあっという間だった。
終わって、私は隣の橋本さんに声をかけた。
「すごい。来て良かったかも」
珍しく橋本さんも興奮した様子で頷いた。
「次回も楽しみだね」
そう言いながら講師の人を見ると、講師は一人の女の人と話していた。
緩くパーマのかかったロングヘアの色白の女性だった。
すごい美人だな、と言うのが第一印象だった。年齢は私より上だけど、笑顔が印象的で華やかな人だった。ベージュのパンツスーツ姿も品があって、彼女にぴったりだった。
うちの会社の人ではない。あんな美人に会ったら、きっと忘れないだろう。
「あの人、講師の会社の人かな?すごい美人だね」
橋本さんの声に私は同意した。
二人でその人を見ていると、偶然その人が振り返って視線が合う。気まずく思いながら頭を下げると、その人が笑顔でこっちに歩いてきた。
その人は私たちの前で立ち止まると声をかける。
「どうでした?今日の講演」
「わかりやすかったです」
私が答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「そう、良かった。次はね、もっといい企画があるから楽しみにしてて」
彼女は2回目からは講演だけでなくて、グループワーク等もあることを伝えた。
「勉強になるように準備するからよろしくね」
そう言われて私たちは頷く。二人で交互に、きて良かった、勉強になったと伝えると、彼女もうれしそうにしてくれた。
また来週の講習で会うことを約束して会場をでる。
「講習、どうだった?」
講習が終わって戻ると、成瀬さんはまだ仕事をしていた。
「すごく、よかったです」
思わず興奮気味に返事すると、成瀬さんは驚いた顔をした。
「まさか元気になって帰ってくるとは思わなかったな」
「勉強になりました、行ってよかったです」
「そう、よかった」
「え?」
「ずっと思いつめてるみたいだったから、元気になってよかった」
この間から、なんとなく塞ぎがちだった。家でもぼんやりしていることが多かったと思う。心配をかけていたのは、今日の様子を見てもわかる。
でも結果的に講習会に出て、気持ちが上向いた気がする。だから隣に座って、私は笑った。
「頑張ります」
***
社内講習の2回目は参加者を3グループに分けて行われるグループワークだった。グループ内で、役割を決めて課題を行い発表する。
橋本さんとは違うグループだったけれど、課題をこなすうちに、初対面の人達とも打ち解けて話せるようになった。
その日の講習は盛り上がって、予定時間を大幅に超えたけれど、終わった後もその興奮を引きずって、私は席に着いたまま橋本さんと話していた。
「こういう企画いいね」
橋本さんは持っていたお茶を飲みながら一息ついた。クールな彼女がこんなに興奮するなんて珍しい。私も気持ちが高揚している。
二人で話をしていると、この間の女性が話しかけてきた。
今日はこの人が司会進行から指導の役割までの全部を一人でしていた。だけどその進行もスムーズで、今日が前回より盛り上がったのは、この人の影響もあるのだと思えた。
こんなに綺麗で、明るいてきぱきとした仕事ぶりは見ていて気持ちがいい。とても素敵な人だと憧れてしまう。
「今日はどうでした?」
「とてもよかったです、ね」
私よりも先に橋本さんが返事をした。私も大きく頷いた。
「なら、良かった。まだ講習会はあるし、きっと勉強になるから、忙しいと思うけど来てね」
私たちは必ず来ますと返事をした。
彼女は私に向き直る。
「でも、見ていたけどあなた、とてもいいなと思ったわよ」
今日、私はグループ内のリーダー役にあてられた。そんな役は初めてで、戸惑いながらやっていたから、まさか褒められるとは思わなくて嬉しくなる。
「うまくみんなの意見を聞いていたし、まとめ方もよかった。ああいう風に仕事を整理していけるのはとてもいいと思ったわ」
「ありがとうございます」
私は成瀬さんのやり方を想像してやった。彼がいつも私に説明する時や、私の考えを引き出すときのやり方を真似てみた。
それが褒められるなんて、とてもうれしい。
後で成瀬さんに報告しようと思っていると、橋本さんと話していた彼女がこっちを向いた。
「あ、そうだ。名刺をわたすわね」
そう言って私たちに名刺を渡す。会社の名前の下には、部長 吉田香織、と書いてある。
「部長なんて、すごいですね」
彼女、吉田さんは笑った。
「そんなことないの。まだできて2年くらいのすごく小さい会社で、社員も少ないから、部長だけど基本的には雑用も全部自分でやるの」
「最近、転職されたんですか?もしくは自分で会社を立ち上げたとか?」
橋本さんが尋ねると、吉田さんは笑って頷いた。
「転職したの。思い切って以前の仕事を辞めたのだけど、辞めてよかったわ」
それを聞いて驚く。
「仕事を辞めるのって悩みますよね」
「そうね、悩んだわ」
吉田さんは思い出したのか、苦い顔をした。だけどそれは一瞬で、すぐに元の笑顔の戻る。
「今の仕事の前は何をされていたのですか?」
「営業職よ」
「全然タイプが違いますね」
橋本さんの感想に、吉田さんは大きく頷いて、そしてとてもあっさりと告げた。
「そう。実は前はこの会社で働いていたの」
私と橋本さんは思わず声をあげた。
「本当ですか?」
「え、残念です。一緒に働いてみたかったです」
私たちの言葉に、吉田さんは苦笑いした。
「そうね、あのままここにいたらあなたたちは後輩だから、ちゃんと指導しないといけないわね」
そう言って橋本さんに声をかける。
「あなたは、どこの部署なの?」
「総務です」
「あ、まだあの課長いる?」
吉田さんのいた頃も今と同じ課長で、それから少しの間、総務の課長の話で盛り上がった。それが落ち着くと、吉田さんは私の方を向いた。
「あなたはどこで働いているの?」
私は彼女に向きなおった。
「営業一課です」
それを聞いて、彼女の顔が本当にわずかな瞬間、強張った。だけど、すぐに元の笑顔に戻る。
「そう、懐かしいな。私も営業一課だったのよ」
それを聞いて、今度は私の顔が強張った。
何だか、嫌な予感がした。
とても美人で、気さくで、みんなが憧れる女性。
そのキーワードを、私は以前どこかで聞いている。
ここで話をやめた方がいい気がした。
だけど彼女は笑顔で私に声をかける。
「懐かしいな。奥平さんは?」
「今、課長です」
吉田さんは驚いた顔をした。
「え、すごい、出世したなあ。昔はよくみんなで一緒に飲みに行ったのよ」
『みんな』その言葉に、何だかいろんな物が含まれている気がするのは考えすぎだろうか。
だけど吉田さんは笑って昔の課長の話をしている。気のせいだと、私も笑う。でもずっと胸騒ぎがしていた。
挨拶をして帰ろうとしたら、吉田さんがこっちを向いた。
「あなたは、今、営業?それともアシスタント?」
私は黙って頷いた。
「アシスタントです」
「誰についているの?」
何だか、答えたくなかった。
とても美人で、仕事ができて、全女子社員の憧れになるような人。
以前成瀬さんの付き合っていた人は、そんな言葉で表現されていた。
いろんな条件が、目の前の人に合っている。
だとしたら、私が今話している人は、昔の成瀬さんの恋人だ。
吉田さんがこっちを見ていた。隣で橋本さんも不思議そうに私をみている。
みんなが私の答えを待っていた。
答えないわけにはいかなくて、私は口を開いた。
「…成瀬さんです」
それを聞いて、今度は吉田さんが目を見開いた。
「うそ…成瀬くんのアシスタント?」
吉田さんは信じられない、と言う雰囲気を隠しもせずに私を見た。その目が意外にも鋭く私をみるから、私は返事が返せない。
「成瀬くんが女性のアシスタントをつけてるの?」
それは素直な驚きだったのだろう。だけど、少しだけ、そこに嫌な感情を見つけてしまった。
ほんの些細な、小さなトゲだ。
うまく言えない。でも確実に違和感があった。
私は思わず黙ってしまう。場の雰囲気を感じたのか、橋本さんが気を使って口を開いた。
「それが、この人、成瀬さんと気があって、すごく仕事がうまく行ってるんですよ」
ね、そう言って私に笑いかける。
だけど、私は笑えなかった。目の前の吉田さんの顔が、強張っていたから。
「そう…成瀬くん、変わったのね」
そう言って彼女はため息をついて、それから苦笑いする。
「以前の彼からは、想像もできないな」
その言い方は、まるで昔の成瀬さんが本当の彼で、今こうして私といる成瀬さんが本当ではないと言われたように感じた。
全てが一つのことを示していた。私の予想が当たったのだ。
この人が、成瀬さんが付き合っていた人なんだ。
もし、そうなら
できれば、いや、絶対に会いたくなかった。
私は唇を噛み締めた。




