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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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挑戦状

上司と付き合うって想像したこともなくて、まだペースが掴めない。仕事とプライベートと、成瀬さんはうまく切り替えられるようだけど、私はできない。それはまだ付き合ったばかりだからかもしれないし、元々の性格とか恋愛経験値が影響しているのかもしれない。

成瀬さんの態度は今までと同じ上司の態度で、周りから見たら、きっと私たちのことなんてわからないだろう。バレてしまうとすれば、多分私だ。



「おはよう」

朝、会社に行くと成瀬さんがいつものように仕事を始めていた。

昨日は自分の家に帰ったから、たった一晩一緒にいないだけなのに、なんとなく懐かしく感じる。

「おはようございます」

私達はコーヒーを飲みながらいつものように予定を確認する。会話を終えると、こっちを見ていた成瀬さんと視線があった。ふとその視線が柔らかくなる。

「今日は早く終わりそうだから、ご飯にでも行く?」

そう、何気なく聞かれた。まるで仕事の話みたいだった。


だけど思わず返事に詰まってしまう。それがおかしかったのか、成瀬さんが苦笑いした。

「そんなに緊張しなくても」

私はため息をついた。責められるべきは私だけど、あんな綺麗な顔で見つめる成瀬さんも悪いと思う。

「すみません」

ちょうどそこに、課長が部屋に入ってきた。いつものように私たちをからかうから、それで話は終わりになってしまった。コーヒーを飲み終わると成瀬さんは出かけていき、私は仕事に戻った。


昼休み、一人デスクでお昼を食べながら仕事をしていると、携帯にメッセージが入る。成瀬さんから、今日の夜の食事の件だった。

行きたいけれど、ずっと一緒も、よくないかもしれないと思いながらも、会いたいという気持ちは強い。

悩んだ挙句、やっぱり食事に行きたいと返事する。


「牧野さん、いま時間ある?」

ちょうどメッセージを打ったところで、後ろから声をかけられて、急いで後ろをむく。

「あ、はい」

後ろにいたのは柳原さんだった。私は条件反射で嫌な顔をしてしまったのだろう。私を見て、今度は柳原さんが苦い顔をした。

「何回か呼んだんだけど」

「すみません」

別にまだ休憩時間だけど、つい、そう言ってしまった。柳原さんは気にしていないようで、そのまま不在の成瀬さんの椅子に座った。その光景は2回目だけど、成瀬さんの椅子に違う人が座っていることを、なんとなく受け入れがたい。

柳原さんは手にしていた書類を私に見せてきた。

「これとこれ、見たことある?」

それはここ数年のこのエリアでの会社の取引先や売り上げデータだった。詳しく見たことはない。その私の返事に柳原さんは眉根を寄せた。

「知らないのか。アシスタントなら知っていてもいいことなのに」


柳原さんはそう言ってこっちを見るから、思わず顔に苛立ちが出てしまう。だけど、口では謝った。なんとなく、盾ついたぶんだけ、余計に絡まれそうな気がしたのだ。

柳原さんは気にせず、そのまま会話を続ける。

「で、これの資料の…」

少し離れたところから、林さんが心配そうにこっちを見ているのが見えた。目があった私はそっと目線で大丈夫ですと伝える。

「で、これとこれ、会議に出す分の資料まとめてもらってもいい?」

「え、私がですか?」

どうして私が柳原さんの資料の手伝いを?

咄嗟に聞き返した私に、柳原さんは当たり前のように首を縦にふる。

「そう。手伝ってよ」

二つ隣から林さんがこちらに近寄ってきた。

「あ、それなら僕がやりますよ。今度から僕も営業はいるから、僕がやった方がいいと思います」

「林は今週、課長から仕事を振られてるだろ。そっち優先しろよ」

柳原さんは私のデスクの上に書類を置いた。笑顔を私に向ける。


「今日、成瀬もいないし、手が空いてるでしょう」

そう言って、私を見た。

「言っておくけど、これは後で、今度の半期分の決済会議にも使うかなり大事な資料だから。牧野さんの資料はいつも良くできてるってみんなに褒められてるんだから、こう言う時に手伝ってくれてもいいじゃない」

思わず困って見上げると、柳原さんは挑戦的に笑う。


「俺、君のこと何度か助けてるよね。その借り返してもらっていい?今日、今」


柳原さんを見上げると、整った顔を楽しそう変えてこっちを見ていた。


これは挑戦状みたいなものだ。ここまで言われて、引き下がることはできない。私はきっと柳原さんを見返した。

こうなったらやるしかない。ついかっとなって、私は立ち上がって、柳原さんの正面に立った。


「期限はありますか?」

「明日の朝。11時まで。午後には上に見せるから」

「わかりました」

林さんが心配そうに私を見ていた。でも私も止めるつもりはなかった。柳原さんは笑って頷いた。


「わかってると思うけど、11時っていうのは、君が完璧にできれば、だから。常識的には今日の夜…まあ、甘くして明日の朝までだからね」

「わかりました。明日の朝ですね」

「じゃあ、楽しみに待ってるよ」

「わかりました」

「言っておくけど、俺はこれから外に出て、戻りも遅い。これは君に任せるから」

柳原さんは、じゃあ、と言って資料をおいて出て行った。林さんがオロオロしながらこっちにくる。

「牧野さん、大丈夫?これ大変だし、一人では厳しくない?」

「わかってます」

「じゃあ、なんで受けたの?」


だって悔しかったのだ。

できないと言えば、成瀬さんの指導不足にされる。断ったら、成瀬さんのせいにされる。

出来が悪くても、成瀬さんのせいにされる。

どうしたって、何か言われるのだから、なんとかしないといけない。

私が、がんばらないといけない。


「僕、手伝うよ」

「林さん、大丈夫です。一人で頑張ります」

「でも…大丈夫?」

大丈夫ではないけれど、でも、やらないわけには行かなかった。

「大丈夫です、頑張ります」

わたしは林さんを見て、大きく頷いた。



とは言ったものの、簡単に言いすぎたと後悔したのは、午後6時。


なんとか形にはなったが、形になっているのと、よくできている、は違う。

できれば柳原さんを黙らせるくらい、いいものにしたい。そうすると、これはまだそのレベルではないと思う。

「ちょっと、休憩…」


私は休憩室に向かって、お茶を飲む。

さすがに、ようやく形になっただけの書類を出すわけにも行かない。と、すれば時間はかかる。

「今日は、ダメだな」

そう呟いてから、成瀬さんにメッセージで今日は仕事が終わらないことを伝える。ごめんなさい、と送ったら、すぐに成瀬さんから返事が来た。


今日は残業になりそうな仕事、なかったよね?

それを見て、さすが、よくわかってるな、と苦笑いした。今朝の様子だと定時で終わるはずだった。だから食事に行こうとしていたのだ。


ヘルプを頼まれてしまって、まだ時間がかかりそうです。ごめんなさい。

迷った結果、そう送って、もう一度メッセージを送る。

本当は会いたかったです。残念です。


会えないとなると、本当はとても会いたかったと思ってしまう。そのせいか、とても素直にメッセージに感情を出してしまった。

おやつのチョコレートを摘んでから、またパソコンに向かう。

スマホを見たが、返事はなかった。それを見て、またため息をついた。



今夜中にもう1話更新します。

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