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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
21/35

約束の1時間

結局、その日も最後まで残業になってしまった。


「出来たといえばできたけど…」

完璧な物を出して柳原さんを驚かせたいが、そう簡単にはいかない。

「明日林さんにみてもらおうかな」

だけど、明日の朝締め切りだから見てもらう時間はないかもしれない、と悩む。


すると、ドアが開いた。顔を上げると、そこにいたのは成瀬さんで、思わず驚いて立ち上がってしまった。

「どうして…」

今日はもう帰ったと思ったのに、そうつぶやく。成瀬さんは私のパソコンを覗き込んで

「君はいつも残業ばかりだな」

そう言って呆れたように笑った。


「これは?」

「柳原さんに頼まれて」

成瀬さんは小さく息を吐いた。表情は変わらないけど、おそらくよく思ってはいない。

「君に直接言ってきたの?」

私が黙ってうなずくと、またため息が聞こえた。


「一応、完成です。ただ、これでいいのか迷っていて」

隣の席に座った成瀬さんが、体を乗り出してくる。

「成瀬さんは?今日は直帰でしたよね?」

「気になって戻ってきた」

そう言って、私の机の上の資料を手に取る。ごめんなさいと小さく頭を下げると、顔だけこちらに向けて気にしないで、と笑った。

パソコンを眺めていると、隣から伸びてきた手が、画面を隣のデスクに向ける。


「ちょっとチェックしていい?」

その申し出を私は断った。

「成瀬さんは見なくていいです。成瀬さんにやってもらった、って言われそうだから」

そう言うと、成瀬さんも苦笑いした。


「言えば?成瀬がチェックしたので、あなたはもういいですって」

それは成瀬さんにしては攻撃的な内容と言い方で、私も苦笑いする。笑った後で、もう一度成瀬さんの視線からパソコンを取り上げた。

「知らないふりしてください」

「そうはいかないよ」

成瀬さんはもう一度画面をずらして、自分に向ける。

「おかしくないか確認する。その方がやめるにしても、直すにしても君もやりやすいだろう?」

不安だったのは事実だから、この申し出は有難い。


でも、結局うまくいっても行かなくても、言われるのは成瀬さんだ。

私が攻められたら、きっとこの人は自分のせいにして、言い訳もせずに、柳原さんに頭を下げるだろう。

それだけはしたくなかった。

自分のためだったら、きっと戦うはずなのに、私のために負けを認めるのは見たくない。


成瀬さんはしばらくパソコンを見て、それから私の方を向いた。

「大体はいいけど、いくつか修正かな」

そういって、資料を一部プリントアウトして持ってくると、机の上の付箋にメモを書いて修正箇所に貼りながら、指示を出す。全部終わって資料を私に渡すと、成瀬さんは立ち上がった。

「もう、帰りますか?」


急に一人になるさみしさを感じて、私が聞くと、成瀬さんは苦笑いした。

「なんだか後で柳原さんが顔を出す気がする」

「え?」

成瀬さんは振り返ってドアを見つめる。

「俺があの人なら、戻る。君がやっているか気になるし、作業にかける時間も評価につながるし、君が出来なければ、自分でやらないといけない」

成瀬さんは私を見て、苦笑いした。

「だから、あの人が来る前に俺は帰るよ」

「お疲れ様です」

私は頭を下げた。柳原さんが来るなら、成瀬さんはいない方がいい。手伝ってもらっているところを見られたら、良い印象はもたれない。顔を上げると、成瀬さんが笑った。

「でも、少し飲みたいから、1時間くらいは近くで飲んでる」

「え?」

成瀬さんは時計を指さした。

「多分、1時間くらいかな。近くで飲んでから帰るよ」


その言葉の裏にある意味に気がついた。1時間は、私のことを待ってくれる。それがわかって、思わず笑顔になる。


「頑張ります」

成瀬さんは長い指で、机の上の資料を指差した。

「一応、この通りにしたら誰が見ても文句がつけられないようにしてあるから」

それから私を見て、自信ありげに笑った。

「だから、後1時間で全部直して、その間に柳原さんが戻らなかったら、終わりにして来て。待ってるから」


私は手をギュッと握りしめた。

本当は一緒に行きたい、今すぐ一緒に帰りたい。

だけどそうはいかないから、正反対の言葉で答える。


「頑張ります」

その素っ気ない返事に、成瀬さんは大きく頷いてくれた。

「頑張って」

じゃあ、と行って成瀬さんは出て行った。


それから、大急ぎで成瀬さんの付箋通りに作業する。成瀬さんの指示はわかりやすかった。指摘が明確だからか、仕事も捗った。


本当に柳原さんは戻るか疑問だったけど、成瀬さんが正しかったことに、それから30分して気がついた。


柳原さんはドアを開けて颯爽と入ってきた。まだ一人働いている私を見て、笑う。

「牧野さん、どう?」

柳原さんは笑顔で私に近づいてきた。

「今、戻りですか?」

「そう、接待があって」

「お疲れ様です」

柳原さんはまた成瀬さんのデスクに荷物を置いて、私の机を覗き込んだ。ちょうど完成したものを印刷して、それを手渡した。

柳原さんは成瀬さんの椅子に座ると、それを読み出した。私はそっと時計を見上げる。成瀬さんが出て、もう45分。もうすぐ約束の1時間がたってしまう。


できれば…違う、絶対に、行きたかった。

成瀬さんの笑顔を見たら、疲れなんてどこかにいってしまう気がした。


「よくできてるよ」

柳原さんは私の資料から視線を上げて、私を見た。

「よくこの時間でできたね」

「ありがとうございます」

私は頭を下げる。柳原さんは笑った。

「成瀬が指名するだけあって、君、優秀なんだね。あいつ、見る目があるな」

その言葉には、返事をしないで、私はデータを柳原さんに渡して、片付けを始めて、それを終えるとパソコンを閉じた。

「帰るの?」

「はい、終わったので」

「遅いから駅まで、送るよ」

私は首を横にふった。

「大丈夫です。すぐですから」


柳原さんはそれでもじっと私を見ていた。

「こんなに優秀なら、補佐で終わるのは勿体無いよ」

顔をあげると、柳原さんと視線が合う。その顔は笑っていなくて、真剣な目をしていた。

「成瀬の下じゃなくて、俺の下に来なよ。俺ならあいつみたいにアシスタントの仕事だけじゃなくて、ちゃんと営業のことも教える。君も、もっと成長できると思う」

私が黙っていると、柳原さんは私へと体を近づけた。


「成瀬は後輩の指導には興味ないよ。だからあいつの下で育った奴はいない。そう言う奴なんだよ。俺なら、ちゃんと君の指導もできる」


私は視線を伏せた。机の上に、成瀬さんが書いた付箋がたくさん残っていた。私は指を伸ばして、それに触れる。


成瀬さんは柳原さんに見つからないように、終わったらこれは捨てるように指示して出て行った。

だけど、私にとって、これは大切なもので、とても捨てるなんてできなかった。机の上の付箋の束が、それを書いてくれた人と、その人の優しさを思い出させた。

字だけなのに、それをみるだけで、もっと成瀬さんを好きになる気がした。


「このまま補佐で終わるの、もったいないよ。君はちゃんとした指導を受けるべきだ。だから成瀬の下じゃなくて」

「柳原さん」


私は彼の言葉を遮った。顔をあげて、しっかりと彼の目を見た。


「私、成瀬さんにたくさん、教えてもらっています」

「でも、補佐の仕事だろう?そうじゃなくて」

私は首をふった。


「この資料が作れたのも、今までの成瀬さんの指導があったからです。今日だって」

わたしは机の上の付箋を取った。それを柳原さんの目の前に出す。


「実は成瀬さんにアドバイスもらいました。すみません。だから、もし柳原さんがこれをいいと思ったとしたら、それは成瀬さんの指導のおかげで、私の実力ではありません」

柳原さんはじっと私を見ていた。その顔は無表情で、感情が読めなかった。でも私は彼に構わず、話し続けた。


「私、補佐の仕事をつまらないとは思いません。大切な仕事だし、その中からたくさん学んで、自分も成長していると思います。まだここで学ぶことがたくさんあります」

私は柳原さんに向かって頭を下げた。

「私のこと、評価してくださってありがとうございます。でも、私はまだ成瀬さんの下で勉強したいです」


頭を上げると、柳原さんと目があった。何も言わない柳原さんに、私はもう一度頭を下げると、荷物を持って部屋を出た。振り返ると柳原さんはじっと立っていて、少しだけ気になったけれど、私は静かにドアを閉めた。


ドアを閉めると私はエレベーターまで走った。時計を見れば、もう時間は約束の1時間から15分くらい経っている。何度も行ったいつもの店なら、走れば10分かからない。


どうしても会いたかった。

一階にエレベーターがつくと私は走ってビルから出た。だけど、ビルから出てすぐに、私は立ち止まった。

ビルを出たところの柱の影に、成瀬さんがいた。


その人は柱にもたれて腕を組んでいて、人の気配で顔をあげた。

その顔が私を見て、緩んだ。

「どうして」

私の驚いた声に成瀬さんは苦笑いして、時計を見た。

「ちょっと遅刻だけど、そろそろかな、と思って」

私が立ち尽くしていると、成瀬さんがゆっくり私のそばまで歩いてきた。


「終わった?」

「はい」

「柳原さん、きただろ?」

「来ました。でも褒められました。よくできてるって」

その報告に、成瀬さんは嬉しそうに笑った。

「よくがんばった」


そう言って、いつものように頭を撫でる。いつものことなのに、どうしてだか泣きそうになる。これ以上は泣いてしまうと思った時、その手は離れて、私の目の前に差し出された。

「じゃあ、帰ろうか」

私はその手を握りしめた。

「はい」


手を繋いで歩き出してから、私は一つのことに気がついて呟く。

「手を繋いで歩くの、初めてですね」

「そうだっけ」

見上げた成瀬さんは、笑顔だった。二人で顔を見合わせて、それから歩き出した。


まだ付き合ってすぐの私達には、初めてのことがたくさんあった。手を繋いだり、並んで歩いたり、そんなことが新鮮で嬉しかった。

待ち合わせだってしたことない。


考えてみれば、今日は初めての待ち合わせだった。

結局間に合わなかったけれど。

だけど、それはまた次の機会にすればいい。


人通りは少なくて、私たちは手を繋いだまま静かに歩いた。

「柳原さんに、成瀬さんにアドバイスもらったって言いました」

「良いの?そんなこと言って」

「良いです。私は成瀬さんの下でこれからも頑張りたいって言いました」

「ずいぶんはっきり言ったね」

「私、成瀬さんの下が良いです」

私は立ち止まった。それに合わせて成瀬さんも立ち止まる。彼が下を向いて、私の顔を覗き込んだ。私は成瀬さんの目を見た。

「私、成瀬さんと働きたいです。社会人として、成瀬さんのことを尊敬してます。学びたいことがたくさん、あります」


成瀬さんは表情を崩して笑った。空いている方の手で、私の頭を撫でる。

「一緒に働きたいと思っているのは、俺も同じだから」

成瀬さんの手は暖かくて、そして優しかった。

「だから、ちゃんと指導もするよ」

「はい」

「時には厳しいけどね。覚悟して」

「大丈夫です。がんばります」


成瀬さんは私の返事に満足そうに頷いた。

その笑顔が大好きだと、優しい手が好きだと、この人が大好きだと思った。


「あの」

「どうした?」

私は成瀬さんの顔を見上げた。


「今、とても成瀬さんにキスしたいです」

思わず言ってしまって、そのすぐ後で後悔する。自分で言ったことなのに、とても恥ずかしくなる。

「すみません…酔ってもいないのに、変なことを言いました」

慌てて訂正した私に、成瀬さんは優しく微笑みかけた。


「前も言ったけど、里保は時々とても大胆だよ」

「すみません」

だけど、成瀬さんは立ち止まって、私を見下ろした。

「じゃあ、しようか」


「え?」


その目がいたずらっ子のように輝いた。


スッと繋いだ手が引かれて、その分だけ私は成瀬さんの方へと近づいて、

成瀬さんの胸に頬がついた。

静かに成瀬さんの指が私の顎に添えられて、見上げた先で成瀬さんと目があった。

そう思った時には、もう私たちの唇は重なっていた。



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