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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
19/35

まだ、始まったばかり

成瀬さんがいないと、いつもの毎日も何かが違う。


違うことの一つは周りからよく食事に誘われたことだ。営業の人で今まであまり話したことのない人や、以前いた総務の人もいた。断るのも悪い気がしていると、そんな時に限って課長から仕事で呼び戻された。

「ごめん、急ぎでお願い」

そう言って渡されるものには重いのもあって、そうなると残業になるから、結局誘いは全てお断りすることになった。


「成瀬が戻って来るの、少し遅れるって」

「え?」

頼まれた書類をデスクまで持っていくと、課長がそう教えてくれた。

「いつですか?」

「金曜だって。牧野さんには連絡なかった?」

私はパソコンと、デスクの上のスマホを見る。連絡はない。思わず顔が苦くなる。すると見計らったように、隣から声がかかる。

「寂しい?」

この質問は成瀬さんがいない間、課長から何度もされた。満面の笑みの課長に

「仕事しましょう」

ため息と共に返事した。

課長は、最近私に満面の笑みで『成瀬、どう?』と聞いてくるから、その度に苦い顔をしてしまう。


さりげなく時計を見ると、昼の時間だった。それを見て課長がまた笑う。

「また誘われた?鬼の居ぬ間にみんなすごいなあ」

「鬼ってなんですか?」

思わず聞き返すと、課長は思わせぶりに笑った。

「成瀬だよ。いつも牧野さんに男が寄ってこないように目を光らせてるから」

そう言って課長は苦い顔の私を楽しそうに見ている。

「いえ、今日は総務の同期です。一緒に来ますか?」

今日は橋本さんと社食でランチの予定だ。私が投げやりに返事すると、まさかのついて来ると返事がきた。


結局その日は社食で橋本さんとランチの予定が、外まで出ることになった。本当に課長が来たから、思わぬ注目を浴びてしまい、いられなかったというのが正しい。橋本さんはいつも通りのクールな対応だったけれど、課長は橋本さんが気に入ったらしく、飲みに行こうと誘っていた。彼氏と別れたらしい橋本さんもそれをO Kしていて人生何があるかわからないな、と思った。



成瀬さんからは出張中、なんの連絡もなかった。メールくらいはあると思っていたのに、何もなく、それに最初は落ち込んで、それから少し苛立って、最後にはメールも打てないくらい忙しいのかと心配になる。


だけど、課長には連絡があったと聞いて、課長には連絡するのに、私には連絡もないのかと寂しくなる。


金曜日は松橋さん達から飲みに行こうと誘われた。

成瀬さんから連絡もないし、もう行ってしまおうと思っていたら、急に課長が立ち上がって私を大声で呼んだ。


「牧野さん、入力やってもらっていい?」

課長から大量の資料を手渡され、データ入力を頼まれた。

「これ、今日中ですか?」

さすがに、1日ではキツい量に聞き返すと、課長は笑顔で頷いた。

「本当に今日中ですか?」

見るからに急がないのに、今日中を強調する。確認すると、笑顔でお願いと頼まれる。

「みんな今日は急ぎがあって、頼めるのは牧野さんしかいないんだよ、ごめん」

そう言って本当に申し訳なさそうな顔をする。


この人はやっぱり侮れない人だと思う。こういう頼み方は、お人好しの私が絶対に断れない。困ったような顔をする課長に、わざとだとわかっていても、引き受けてしまう。

松橋さんたちはそれを見て、飲み会はまた今度、と言って帰って行く。


みんなは気の毒がったけれど、いわゆる単純作業は、こんな時にはむしろ気が紛れてありがたい。

ひたすら入力をしながらも、頭の中は成瀬さんのことでいっぱいだった。

今はどこにいるのだろう、とか、今日は会えないのか、とか。今日だけでなくて、休みなのに、明日も明後日も会えないのか。

もう1週間も会えていなくて、そうなると、先週のことが、なかった事のようになってしまう。


付き合ってる恋人同士、なのに。

そう思って、今度は不安になる。

私たち、つきあっている…のに。


そこで急に気持ちが頼りなくなってしまうのは、どうしてなのだろう。


私は成瀬さんに『好き』と伝えてはいないし、『好き』と言われてもいない。お互いが気持ちを言葉にする事は絶対に必要な事でもない。だけど急にそれが気になってしまう。

「こう言うの、良くない」

そう呟いて、私は息を吐いた。

手にしていた書類を机の上に置く。だけど気持ちが逸れていたから、書類から手を離すと音を立てて床に落ちてしまった。


「え?」


床に散らばった書類を前に思わず独り言が出た。

「どうしてこんな時に限って…」

私はため息をつくと、椅子から降りて床に落ちた書類を集める。

何だか情けなくて、悲しくなってくる。


この1週間、私は常に不安だった。

あれは嘘なのかもしれないと思ったり、でも、それを確かめる方法もなくて、悩んだり。自分が急に頼りなくなってしまったみたいだった。

でも、多分、一番は成瀬さんに会いたくて。

会えたらきっとこの気持ちも全部、解消するような気がしていた。


私は頭を振って、その考えを頭から追い出した。考えても、仕方がない。また書類を拾おうと手を伸ばした時、視界に黒い靴が見えた。


その靴はあっという間に私の近くまで、ちょうど私が拾おうとしていた書類のところまで近づいてきた。その靴の持ち主は膝をついて、見覚えのある長い指がその書類を拾い上げた。

視線を上げると、優しく笑った成瀬さんの顔があった。


驚いて、言葉を失っている私に、成瀬さんはその書類を差し出した。

「これで良い?」

私が黙って頷くと、成瀬さんは私の手から書類の束を取って、手にした書類をその上に重ねた。そしてもう一度私に書類を差し出した。

「ただいま」


たった1週間、正確には5日間、なのに、その声も笑顔も懐かしい。


「お帰りなさい」


その返事に、成瀬さんは嬉しそうに笑った。


「まだ、仕事?」

そう言って、立ち上がる。私も黙って立ち上がる。

成瀬さんは私のパソコンを覗き込んでまた苦笑いする。時計をみればもう夜の9時を過ぎていた。

「これ、急ぎではないよね?まだ、やるの?」

視線を上げると、成瀬さんと視線が合う。私の答えを聞く前に、成瀬さんは私のパソコンに手を伸ばした。

近づいた成瀬さんから、いつもの香水の匂いがした。


返事を迷っているうちに、成瀬さんはそのままデータの保存をかけた。

「あの」

驚いて問いかけると、成瀬さんは近い距離のまま、こっちをみた。

「ずっと、どうしてた?」

「ほとんど課長のお手伝いです」

「少しゆっくりできた?」

私は考えて首を振る。


黙っている私を見て、成瀬さんは私の顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」

成瀬さんの顔が見られなくて、私は俯いたまま返事する。

「何もないです」

「本当?」

隣で困ったような声がした。私は成瀬さんの顔を見てポツリと声を出した。

「心配、してました」

それを聞いて、成瀬さんは目を見張った。

「ごめん、忙しくてなかなか連絡できなくて」

「仕事なので、わかってます」

私は苦笑いした。

「忙しいから、連絡できないのもわかります。わがままだってわかっています。でも心配だったし…」

顔を上げて成瀬さんを見た。

「寂しかったです」


そう言ったら、隣から腕が伸びてきて彼に抱きしめられた。

久しぶりに、だけど確かに彼から抱きしめられてほっとして、同時に何だか泣きたくなる。


仕事で忙しくて、ようやく帰ってきてこんな風に言われたら、かなり面倒くさい。わかっているけど、止められなくて、自分でも自分の気持ちを持て余してしまう。

「成瀬さん、ここ、会社です」

「わかってる」

「誰か来るかも」

「そうだね」

「見られたら、大変ですよ」

「俺はいつ誰に知られてもいいと思ってるよ」

私は彼の腕の中で、顔を上げた。彼を少しだけ非難するように見る。

「みんなに知られたくない、と言ったのは里保だからね」

それを聞いて、怒るよりも、名前で呼んでくれたことを嬉しく思うなんて、もういいかげん自分がおかしいと思う。私は自分の額を彼の胸につけた。


「成瀬さん」

「何?」

「好きです」


深呼吸してから、もう一度言った。

「好きです」


顔を上げると、驚いた顔をしている彼がいた。

「成瀬さん?」

成瀬さんは少し困ったような顔をして、私から視線を逸らせた。


「里保は時々、ものすごく大胆だよね」

「え?」

「誰にも知られたくないって言ったのに、こんなところでそんなことを言ったり」

「今は誰もいないし」

ほら、そう言うところ、と彼は笑った。だから私は思わず不満げに言ってしまう。

「でも、言いたかった」

成瀬さんはそんな私をもう一度抱きしめた。


「俺は君のそう言うところも好きだよ」

そうして、腕を緩めると私の顔を覗き込んだ。

「惚れた方が負けだね」


それから顔を近づけて、私たちは唇を合わせた。


そのすぐ後に顔を離すと、成瀬さんは腕を離して私を見た。

「俺も出張中、里保のことをたくさん、思い出した」


それに驚いた。

成瀬さんはどんな時でも仕事が中心で、仕事以外のことを仕事中に思い出すとは思わなかった。だけど、成瀬さんは記憶を辿るように話していく。

「今どうしているだろうとか、仕事は一人で大丈夫かとか、また誰かの仕事を手伝っているんじゃないかとか」

言いながら、思い出したのか苦い顔になる。

「この1週間、気が気じゃなかった」

「え、どうして」

成瀬さんはため息をついた。

「俺がいないから、いろんな人が里保を誘ってるって、課長が面白がって報告してきた」

全く、と成瀬さんが俯いて、そのまま私をギュッと抱きしめた。

「課長が?そんなことをわざわざ?どうして?」

思わずそう問いかけると、私の顔の脇から成瀬さんは顔を上げた。困ったような顔をする。


「課長はね、俺のことに気がついているから」

「え?」

「課長には、俺が何を気にしているかすぐにわかるらしい」

成瀬さんは私をもう一度、抱きしめた。

「俺は君のことになると、ありえないくらい余裕がなくて」

抱きしめる腕に力が入った。

「余裕がなさすぎて周りからおかしいと思われるくらい、俺は里保を思っているってことだよ」


私の肩でため息をついた成瀬さんが、何だかとても愛しくて、今度は私から手を伸ばして抱きしめた。


しばらくして、成瀬さんは体を離すと、私を見た。

「里保を捕まえようと思って急いで帰ってきた」

「でも、課長にこの仕事を今日中って」

それを聞いて成瀬さんは困ったように笑った。

「それはね、もういいの」

「え?」

「それは、課長から俺への気遣いだから。もう、いい」

そう言って、私に向かって笑って頷いた。

「じゃあ、行こう」

そう言って先に立ち上がるから、私も慌てて立ち上がる。


廊下を歩きながら、隣で声がした。

「1週間、長かった」

「私もそう思ってました」


そっと彼へと顔を向けると、成瀬さんと目があって笑った。

「軽く食事して帰ろう」


どこに帰るのか、なんて聞かなかった。

多分、成瀬さんの家で、そして私もそうしたいと思っている。


今はまだ、彼と一緒にいる事に慣れない。

だけど、こうして時を過ごして、いつかそれが当たり前になったら良い。


だって、私たちはまだ、始まったばかりなのだから。


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