まだ、始まったばかり
成瀬さんがいないと、いつもの毎日も何かが違う。
違うことの一つは周りからよく食事に誘われたことだ。営業の人で今まであまり話したことのない人や、以前いた総務の人もいた。断るのも悪い気がしていると、そんな時に限って課長から仕事で呼び戻された。
「ごめん、急ぎでお願い」
そう言って渡されるものには重いのもあって、そうなると残業になるから、結局誘いは全てお断りすることになった。
「成瀬が戻って来るの、少し遅れるって」
「え?」
頼まれた書類をデスクまで持っていくと、課長がそう教えてくれた。
「いつですか?」
「金曜だって。牧野さんには連絡なかった?」
私はパソコンと、デスクの上のスマホを見る。連絡はない。思わず顔が苦くなる。すると見計らったように、隣から声がかかる。
「寂しい?」
この質問は成瀬さんがいない間、課長から何度もされた。満面の笑みの課長に
「仕事しましょう」
ため息と共に返事した。
課長は、最近私に満面の笑みで『成瀬、どう?』と聞いてくるから、その度に苦い顔をしてしまう。
さりげなく時計を見ると、昼の時間だった。それを見て課長がまた笑う。
「また誘われた?鬼の居ぬ間にみんなすごいなあ」
「鬼ってなんですか?」
思わず聞き返すと、課長は思わせぶりに笑った。
「成瀬だよ。いつも牧野さんに男が寄ってこないように目を光らせてるから」
そう言って課長は苦い顔の私を楽しそうに見ている。
「いえ、今日は総務の同期です。一緒に来ますか?」
今日は橋本さんと社食でランチの予定だ。私が投げやりに返事すると、まさかのついて来ると返事がきた。
結局その日は社食で橋本さんとランチの予定が、外まで出ることになった。本当に課長が来たから、思わぬ注目を浴びてしまい、いられなかったというのが正しい。橋本さんはいつも通りのクールな対応だったけれど、課長は橋本さんが気に入ったらしく、飲みに行こうと誘っていた。彼氏と別れたらしい橋本さんもそれをO Kしていて人生何があるかわからないな、と思った。
成瀬さんからは出張中、なんの連絡もなかった。メールくらいはあると思っていたのに、何もなく、それに最初は落ち込んで、それから少し苛立って、最後にはメールも打てないくらい忙しいのかと心配になる。
だけど、課長には連絡があったと聞いて、課長には連絡するのに、私には連絡もないのかと寂しくなる。
金曜日は松橋さん達から飲みに行こうと誘われた。
成瀬さんから連絡もないし、もう行ってしまおうと思っていたら、急に課長が立ち上がって私を大声で呼んだ。
「牧野さん、入力やってもらっていい?」
課長から大量の資料を手渡され、データ入力を頼まれた。
「これ、今日中ですか?」
さすがに、1日ではキツい量に聞き返すと、課長は笑顔で頷いた。
「本当に今日中ですか?」
見るからに急がないのに、今日中を強調する。確認すると、笑顔でお願いと頼まれる。
「みんな今日は急ぎがあって、頼めるのは牧野さんしかいないんだよ、ごめん」
そう言って本当に申し訳なさそうな顔をする。
この人はやっぱり侮れない人だと思う。こういう頼み方は、お人好しの私が絶対に断れない。困ったような顔をする課長に、わざとだとわかっていても、引き受けてしまう。
松橋さんたちはそれを見て、飲み会はまた今度、と言って帰って行く。
みんなは気の毒がったけれど、いわゆる単純作業は、こんな時にはむしろ気が紛れてありがたい。
ひたすら入力をしながらも、頭の中は成瀬さんのことでいっぱいだった。
今はどこにいるのだろう、とか、今日は会えないのか、とか。今日だけでなくて、休みなのに、明日も明後日も会えないのか。
もう1週間も会えていなくて、そうなると、先週のことが、なかった事のようになってしまう。
付き合ってる恋人同士、なのに。
そう思って、今度は不安になる。
私たち、つきあっている…のに。
そこで急に気持ちが頼りなくなってしまうのは、どうしてなのだろう。
私は成瀬さんに『好き』と伝えてはいないし、『好き』と言われてもいない。お互いが気持ちを言葉にする事は絶対に必要な事でもない。だけど急にそれが気になってしまう。
「こう言うの、良くない」
そう呟いて、私は息を吐いた。
手にしていた書類を机の上に置く。だけど気持ちが逸れていたから、書類から手を離すと音を立てて床に落ちてしまった。
「え?」
床に散らばった書類を前に思わず独り言が出た。
「どうしてこんな時に限って…」
私はため息をつくと、椅子から降りて床に落ちた書類を集める。
何だか情けなくて、悲しくなってくる。
この1週間、私は常に不安だった。
あれは嘘なのかもしれないと思ったり、でも、それを確かめる方法もなくて、悩んだり。自分が急に頼りなくなってしまったみたいだった。
でも、多分、一番は成瀬さんに会いたくて。
会えたらきっとこの気持ちも全部、解消するような気がしていた。
私は頭を振って、その考えを頭から追い出した。考えても、仕方がない。また書類を拾おうと手を伸ばした時、視界に黒い靴が見えた。
その靴はあっという間に私の近くまで、ちょうど私が拾おうとしていた書類のところまで近づいてきた。その靴の持ち主は膝をついて、見覚えのある長い指がその書類を拾い上げた。
視線を上げると、優しく笑った成瀬さんの顔があった。
驚いて、言葉を失っている私に、成瀬さんはその書類を差し出した。
「これで良い?」
私が黙って頷くと、成瀬さんは私の手から書類の束を取って、手にした書類をその上に重ねた。そしてもう一度私に書類を差し出した。
「ただいま」
たった1週間、正確には5日間、なのに、その声も笑顔も懐かしい。
「お帰りなさい」
その返事に、成瀬さんは嬉しそうに笑った。
「まだ、仕事?」
そう言って、立ち上がる。私も黙って立ち上がる。
成瀬さんは私のパソコンを覗き込んでまた苦笑いする。時計をみればもう夜の9時を過ぎていた。
「これ、急ぎではないよね?まだ、やるの?」
視線を上げると、成瀬さんと視線が合う。私の答えを聞く前に、成瀬さんは私のパソコンに手を伸ばした。
近づいた成瀬さんから、いつもの香水の匂いがした。
返事を迷っているうちに、成瀬さんはそのままデータの保存をかけた。
「あの」
驚いて問いかけると、成瀬さんは近い距離のまま、こっちをみた。
「ずっと、どうしてた?」
「ほとんど課長のお手伝いです」
「少しゆっくりできた?」
私は考えて首を振る。
黙っている私を見て、成瀬さんは私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
成瀬さんの顔が見られなくて、私は俯いたまま返事する。
「何もないです」
「本当?」
隣で困ったような声がした。私は成瀬さんの顔を見てポツリと声を出した。
「心配、してました」
それを聞いて、成瀬さんは目を見張った。
「ごめん、忙しくてなかなか連絡できなくて」
「仕事なので、わかってます」
私は苦笑いした。
「忙しいから、連絡できないのもわかります。わがままだってわかっています。でも心配だったし…」
顔を上げて成瀬さんを見た。
「寂しかったです」
そう言ったら、隣から腕が伸びてきて彼に抱きしめられた。
久しぶりに、だけど確かに彼から抱きしめられてほっとして、同時に何だか泣きたくなる。
仕事で忙しくて、ようやく帰ってきてこんな風に言われたら、かなり面倒くさい。わかっているけど、止められなくて、自分でも自分の気持ちを持て余してしまう。
「成瀬さん、ここ、会社です」
「わかってる」
「誰か来るかも」
「そうだね」
「見られたら、大変ですよ」
「俺はいつ誰に知られてもいいと思ってるよ」
私は彼の腕の中で、顔を上げた。彼を少しだけ非難するように見る。
「みんなに知られたくない、と言ったのは里保だからね」
それを聞いて、怒るよりも、名前で呼んでくれたことを嬉しく思うなんて、もういいかげん自分がおかしいと思う。私は自分の額を彼の胸につけた。
「成瀬さん」
「何?」
「好きです」
深呼吸してから、もう一度言った。
「好きです」
顔を上げると、驚いた顔をしている彼がいた。
「成瀬さん?」
成瀬さんは少し困ったような顔をして、私から視線を逸らせた。
「里保は時々、ものすごく大胆だよね」
「え?」
「誰にも知られたくないって言ったのに、こんなところでそんなことを言ったり」
「今は誰もいないし」
ほら、そう言うところ、と彼は笑った。だから私は思わず不満げに言ってしまう。
「でも、言いたかった」
成瀬さんはそんな私をもう一度抱きしめた。
「俺は君のそう言うところも好きだよ」
そうして、腕を緩めると私の顔を覗き込んだ。
「惚れた方が負けだね」
それから顔を近づけて、私たちは唇を合わせた。
そのすぐ後に顔を離すと、成瀬さんは腕を離して私を見た。
「俺も出張中、里保のことをたくさん、思い出した」
それに驚いた。
成瀬さんはどんな時でも仕事が中心で、仕事以外のことを仕事中に思い出すとは思わなかった。だけど、成瀬さんは記憶を辿るように話していく。
「今どうしているだろうとか、仕事は一人で大丈夫かとか、また誰かの仕事を手伝っているんじゃないかとか」
言いながら、思い出したのか苦い顔になる。
「この1週間、気が気じゃなかった」
「え、どうして」
成瀬さんはため息をついた。
「俺がいないから、いろんな人が里保を誘ってるって、課長が面白がって報告してきた」
全く、と成瀬さんが俯いて、そのまま私をギュッと抱きしめた。
「課長が?そんなことをわざわざ?どうして?」
思わずそう問いかけると、私の顔の脇から成瀬さんは顔を上げた。困ったような顔をする。
「課長はね、俺のことに気がついているから」
「え?」
「課長には、俺が何を気にしているかすぐにわかるらしい」
成瀬さんは私をもう一度、抱きしめた。
「俺は君のことになると、ありえないくらい余裕がなくて」
抱きしめる腕に力が入った。
「余裕がなさすぎて周りからおかしいと思われるくらい、俺は里保を思っているってことだよ」
私の肩でため息をついた成瀬さんが、何だかとても愛しくて、今度は私から手を伸ばして抱きしめた。
しばらくして、成瀬さんは体を離すと、私を見た。
「里保を捕まえようと思って急いで帰ってきた」
「でも、課長にこの仕事を今日中って」
それを聞いて成瀬さんは困ったように笑った。
「それはね、もういいの」
「え?」
「それは、課長から俺への気遣いだから。もう、いい」
そう言って、私に向かって笑って頷いた。
「じゃあ、行こう」
そう言って先に立ち上がるから、私も慌てて立ち上がる。
廊下を歩きながら、隣で声がした。
「1週間、長かった」
「私もそう思ってました」
そっと彼へと顔を向けると、成瀬さんと目があって笑った。
「軽く食事して帰ろう」
どこに帰るのか、なんて聞かなかった。
多分、成瀬さんの家で、そして私もそうしたいと思っている。
今はまだ、彼と一緒にいる事に慣れない。
だけど、こうして時を過ごして、いつかそれが当たり前になったら良い。
だって、私たちはまだ、始まったばかりなのだから。




