同じ空
目を明けると、強い日の光が目にはいった。
その眩しさに目を細めて、どうしてこんな所に窓が、と思ったところで急に覚醒した。私の顔の前にはカーテンの開いた窓があり、そこからの明るい光が真っ直ぐに私の顔に降り注いでいた。
目の前には誰もいなくて、ベッドの中には私一人で、そこが自分の部屋でないから、私は慌ててそこから飛び起きて身支度をする。
恐る恐る部屋のドアを開けて廊下を歩いてリビングに行くと、誰もいなかった。
「成瀬さん…?」
声をかけたけど、部屋の中はしんと静まり返っていて、人がいる気配はない。
まさか誰もいないなんて。そう思って見渡して、自分が今ここに一人でいることを実感する。
もしかして、もう帰って良いという事?
そんな考えが過ぎって、そんな事ないと思うと同時に、やっぱりそう言う事かもしれないと思う。そう言う…つまり一夜の過ち、的なものだった、と言う事だ。
ふと昨日の夜のことを思い出して、あれが嘘だったら、これから先何も信じられなくなりそうだ、そう思っていたら、後ろで物音がして成瀬さんが入ってきた。
洗ったままで髪をセットしていないからか、前髪が自然に降りていて、少し幼く見えた。なんでもないシャツにブルゾンを合わせた格好も、スタイルがいいと様になる。
私が起きているのに驚いたようだったけど、笑顔になって持っている紙袋をあげた。そこからコーヒーのいい匂いがする。
「ごめん、うちには何もないから、朝ごはんを買ってきた」
彼は紙袋を机に置いて、私の頭に手をおいた。まだ寝起きで、ぼうっとしている私は思わず考えていたことが口から出てしまう。
「まだ、ここにいていいですか?」
「え?」
「もう帰ったほうが、いいですか?」
それを聞いて成瀬さんは荷物をテーブルに置くと、私の目の前にやってきた。それから背をかがめると、私の唇にキスをした。
「帰りたいって言っても、まだ、帰さないよ」
そうしてゆるく私を抱きしめた。
「準備してるから、シャワー浴びてきていいよ」
彼の腕の中から見上げた笑顔が、普段の倍以上甘く見えてしまったのは、やっぱり気持ちを確かめた後だからかもしれない。
結局シャワーを借りてから、一緒に朝ごはんを食べた。彼の家にいることも、一緒に朝ごはんを食べていることも、すべてが本当に信じられなくて、何度も隣を見る。
それを何回も繰り返して、ようやくこれが現実なのだと頭が追いついてくる。
本当に、隣のこの人と…。
そう思ったら、自然と顔が赤くなって、それを気付かれないように俯いた。
近くのお店で買ってきてくれたサンドイッチとコーヒーはとても美味しかった。
意外だったのは、彼は普段からほとんど料理をしないらしく、だから家にはほとんど調理器具がないと言う。
コーヒーですら、自分で入れるのは苦手だと聞いて驚く。そういえば、一緒に働き出した頃、彼にコーヒーを入れた時、美味しいと褒めてくれた。その時は褒めるのが上手だと思ったけれど、もしかしたら、本当にそう思っていたのかもしれない。
「なんでもできそうなのに、意外です」
そう笑うと、反対に彼は苦い顔をした。
「誰にでも苦手なものはあるよ」
だけど、その後で私を見て
「じゃあ、毎日ご飯を作ってくれてもいいよ」
そんなことを言うから、これ以上ないくらい私は真っ赤になった。
何だか信じられない。だってつい昨日までは、上司だった人なのだ。
だけど、こんな風にさらっと言えてしまうのは
やっぱり恋愛経験の違い、なのかな…。
そう思って少しだけ落ち込んだ後で、
「からかわないでください」
チラリと視線を向けると、成瀬さんは余裕な顔で答える。
「かなり本気なんだけどな」
顔を真っ赤にしている私を見て、肩を竦める。
さすがに一緒に住むなんて急展開だから、頭が追いつかない。そう返事しようと口を開いたら、ちょうど成瀬さんの電話が鳴った。画面を確認して成瀬さんが少しだけ嫌そうな顔をする。
「課長だ」
立ち上がって、電話に出る。電話から漏れる課長の声は、ちょっと焦った感じだった。長い電話が終わると、成瀬さんがため息をついた。
「明日から出張だ」
電話を終えて座り直すと、肩を竦めた。
「ついでに他も回ってくるから、ちょっと長くなるかもしれない」
「どのくらい?」
「3日はかかるかな」
そうか、と少し気持ちが落ち込む。
いろんなことの展開が急だと困っていたくせに、いないとなるとそれを残念に思う。人間ってとても難しい。つい黙ってしまった私に、成瀬さんが声をかける。
「でも、出かけるのは明日からだから」
成瀬さんが私の前で腕を広げた。
「今日は一日ゆっくりしよう」
私は笑ってその胸に飛び込んだ。
飛び込んだ先で、成瀬さんは私の頭にそっと手を当てて、優しく撫でた。
「一人で働くより、里保と仕事するが良いんだよ」
「え?」
顔を上げると、成瀬さんは笑って、腕に力を込めた。
「一生懸命やってくれるから助かるし、仕事も捗るし、里保と働くのは楽しい」
そんなことを思ってくれていると思わなかった。仕事の時の私について、こんなにはっきり言ってくれたことはなかった。
「前も言ったろ?君がいないと働けないって」
そういえば、そんなことを言ってくれたと思い出す。そう、とても嬉しかった。
成瀬さんは私をもう一度胸に押し込めると、大きく息をはいた。
「でもこうしていると、仕事よりもこうして里保と家にいる方がいいと思ってしまうよ」
頭上で少しだけ苦い声がした。
「この俺でも、出張にいくのが面倒だと思うくらいね」
顔を上げると、成瀬さんは思った通り、とても苦い顔をしていて、私と目が合うと困ったように微笑んだ。
こうして仕事以外の場面で同じ時間を過ごす。それだけでも以前は想像も出来ないくらいだったのに、そのすべてが甘くて。
現実とは思えないくらいだった。
***
月曜日からはいつも通りの仕事が始まる。成瀬さんが出張で会社を数日空けるなんて今までもあったのに、いつもと違う気がしてしまう。
午前中はマイペースに仕事をし、昼は社食で一人で食事をしていた。すると空いたテーブルの反対側に人がやってきた。
「ここ、良いですか?」
顔を上げると、多分私より年上の男性社員が二人いた。初めて見る人だった。それなりに社食も混んでいるからと思って、私は慌てて頷いた。
「君、営業なんだ」
私の社員証を見たのか、声をかけてきた。私が頷くと、その人も社員証を出してきた。短髪で目鼻立ちのはっきりしたその人は、屈託なく私にも笑いかけた。
「ねえ、今度、飲みに行こうよ」
「え?」
もう一人も一緒になって話しかけてくる。
「もちろん、他にも誘っていいから」
そこで、私の隣にトレイが置かれた。振り向くとそこにいたのは橋本さんで、ごく自然に私の隣に座った。そのまま二人の顔を交互に見て、素っ気なく返事する。
「この人、彼氏第一ですから、飲み会とか行かないですよ」
そう橋本さんが言うから、私は慌ててそれを止めた。
「え、そうなの?残念」
その人たちは笑って、今度は橋本さんに誘いをかけて瞬殺された。そのせいか食事が終わるとあっという間にいなくなった。
「ありがとう、助けてくれて」
「牧野さんの頭の中は一人でいっぱいだもんね」
お礼を言うと、橋本さんは呆れたように笑った。でもその言葉に私は、橋本さんにちゃんと報告していないことを思い出す。
あの日、彼と相談して、いくつか決めたことがある。
その一つが、私と成瀬さんが付き合っていることは秘密にすると言うものだった。これに関しては、私がどうしても秘密にして欲しいと頼んだ。
アシスタントになっただけであんなに騒がれたのに、付き合っているとなったら…想像するだけで怖い。
成瀬さんは、別にみんなに知られても構わない、と言う態度だったけど、そうも行かない。私は全力で成瀬さんを説得して、最終的には『基本は秘密にするけれど、お互い話す必要がある人には、話すことにしよう』と言われて、頷いた。
私は周りに人がいないことを確認してから報告すると、橋本さんは嬉しそうに笑った。
「うまく行ってよかったね」
そのいかにもほっとした、と言う態度に何だか心が温まる。
私はみんなの知らない彼のいいところをたくさん、知っている。
でも、最初は見えない壁があった。いつも感情のない笑顔しか見せてくれなかった。だけど、いつの間にかいろんな顔を見せてくれるようになった。
私はいろんな場面で、彼のたくさんの顔を見て、そして、どんな彼もとても、好きだった。
橋本さんはため息まじりに呟いた。
「でも、そんな予感がした」
「え?」
「一度、牧野さんと成瀬さんが二人でいるのを見たけど、あの成瀬さんがすごく優しく笑っていて、あの人もあんな顔をするんだって思った」
「え」
「あんな顔見たら、成瀬さんは牧野さんのこと好きだって誰でも思うよ」
「そんな」
橋本さんはそんな私を見て、笑った。
「よかったね」
秘密の関係でも、それを祝ってもらうのはとても嬉しい。
そして、他の人にこう言ってもらえて初めて、私は彼と付き合っていると実感することができた気がする。
社食から戻る途中、私は廊下でふと立ち止まった。
そこは以前、成瀬さんが立ち止まったところで、そして私も何度となく足を止めたところだった。
あの時は、成瀬さんと自分が同じ空を見るようになるなんて、思わなかった。
だけど、今は彼と同じ場所にいると思える。
窓の外はきれいな青い空が見えた。
彼も同じ空の下にいる。
今は自然とそう思えた。




