開いたドアの先
エレベーターのドアが開いたのは、それからすぐ後だった。
開いたのは私の前の、下へ向かうエレベーターだった。
私はゆっくりと成瀬さんを見上げた。
「下、ですね」
そう言った瞬間に、もう一度軽快な音がフロアに響いて、隣の上へ向かうエレベーターのドアが開いた。
ほんのわずかな違いだった。
だけど、それで全てが決まってしまった。
先に来たのは、下へ向かうエレベーターで、だから私はそれにのって帰る約束だ。
私は足を動かそうとして、止める。
視線を動かして、もう一度成瀬さんを見上げる。
本当は自分がどうしたいのかわかっているから、私は躊躇う。だけどすぐに口を開いた。
「じゃあ、帰ります」
それ以外に私には何もいえなかった。
踏み出す勇気なんて、出せるはずがなかった。
だから私はエレベーターに乗るために、足を前へ出した。
だけど、私が下へ向かうエレベーターに乗ろうとした時、隣から出てきた腕が私の腕を掴んだ。視線を上げると、切なそうにこっちを見る成瀬さんがいた。
その視線に思わず足を止めると、成瀬さんは私の腕を自分へと引き寄せた。声を出すより先に、私は成瀬さんの胸の中におさまった。
引き寄せた腕は、その勢いのまま強く私を抱きしめた。後頭部に彼の掌が添えられて、彼の胸に頬があてられて、私の頭に、そっと彼が頬を寄せたのがわかった。
自分がいまされていることに、驚いて、そしてみじろぎしようとするけれど、あまりにも強く抱きしめられて、身動きが取れなかった。私は両手で思わず彼の胸を叩いた。
「成瀬さん」
「うん」
「苦しい、です」
そう言ったら、少しだけ拘束が緩んだから、私は顔を上げる。すると見下ろしてきた成瀬さんと視線が合う。
苦しいのは私のはずなのに、成瀬さんの方が苦しそうな顔をしていた。
「帰っていいって言ったのは、成瀬さんなのに」
思わずそう言ったら、私の額に成瀬さんの額が重なった。目の前の顔は、切なげに視線を閉じた。その長い睫毛が目の前だった。彼の吐息が私の耳にかかる。苦しいような声が耳元で聞こえた。
「ごめん、やっぱり帰せない」
成瀬さんは額を離すと、右手でそっと私の顔にかかった髪の毛を払って耳にかけた。そのままその手を下げて、その長い指で私の顎に触れて顔を上向かせると、そのまま彼がゆっくりと背をかがめた。
その動きはとてもゆっくりで。
避けようと思えばいくらでも避けられた。止めようとしたら、きっと止めてくれた。
だけど私はそうしなかった。
だから彼はそのまま体を落として、
そして、私の唇に、彼の唇が重なった。
触れ合った唇は、すぐに離れた。そのまま視線を上げると、私のすぐ目の前に彼の顔があった。彼の親指が私の頬をそっと撫でる。
今起きたことが夢だと思ってしまいそうだけど、私に触れるその指がとても熱くて、その熱さがこれが現実だと言っている気がした。
その手が私の頬を撫でると、そのままそっと離れていく。それを見て、私は思わず彼の腕をつかんだ。成瀬さんは驚いたように目を見開いた。
何も考えられなかった。
理性とか慎みなんて、いつの間にかどこかに行ってしまった。
ただ、成瀬さんの手が、腕が、離れていくのが嫌で。私は成瀬さんの腕を掴むと、そのままその腕を引き寄せた。そして私に引かれて背をかがめた成瀬さんに向かって、背伸びをすると
今度は、私から彼に、キスをした。
さっきのキスと同じくらい短いキスをして、唇を離すと、私は俯いた。
「同じです」
私は小さな声で言った。
「私もきっと、成瀬さんと同じ、です」
自分のした事に、その時ようやく気がついて、とても恥ずかしくて、ただギュッと彼のスーツの腕をつかんだ。
「同じか、成瀬さんが思うより、もっと…」
そばにいたいです。
最後までいう前に、また私は彼に抱きしめられた。顔を上げると成瀬さんと視線があって、成瀬さんは私の顔を見て、笑った。
優しい笑顔だった。
いつもよりずっと優しくて、ずっと甘いから、涙が出そうだった。
成瀬さんは笑顔のまま、もう一度背をかがめて、今度は私の額に唇を落とした。
そして私の腕を引くと、上へ向かうエレベーターにのった。
「このままここに泊まってもいいけど」
成瀬さんは私を見下ろして、困った顔をした。
「ついさっき別れた二人に、明日の朝に会うのは困るから」
そう言われて、思わず朝のホテルであの二人に会ってしまうところを想像して苦い顔をしてしまった。その顔がおかしかったのか、頭上で成瀬さんの笑いを含んだ声がした。
「だから、俺の家に行こう」
成瀬さんが私を連れてきたのは、坂の上にあるまだ新しいマンションで、彼の部屋は広いのに、あまり物がなくて、そのせいか綺麗だった。
あまり人が知る人がいないだろう上司のプライベートを、思い切り見ていると言うことに、なんとなくいたたまれない。私はどこを見ていいのかわからなくて、俯いて立ち尽くす。
「後悔してる?」
そんな声がして、私の後ろから手が回って、私は後ろから彼に抱きしめられた。彼の頭が私の左肩に載る。ちょっと重いけど、だけどそれを心地よいと感じる。
私は顔だけ振り返ると、彼は視線だけを上げて私を見た。私は首を横に振った。
「絶対に、しないです」
私は彼の腕にそっと手を当てた。
「成瀬さんは知らないと思いますけど、私は、ずっと前から成瀬さんの事を」
「知ってる」
重ねられた声に驚いて彼を見ると、成瀬さんは苦い顔をしながら私を見た。
「おそらく、君の方が早いけど。だけど俺も、君のこと」
何だか聞くのが恥ずかしすぎて、私は体を反転させて彼の胸に顔を寄せた。
それを待っていたように、彼の腕が私を囲う。いつもの香水の匂いがした。それを大きく吸い込む。顔を上げると、成瀬さんは笑って私の頭を撫でた。
だけど、いつものように掌で撫でるだけでなくて、髪の毛を梳くように、指が動いていく。
こんなことも、私たちがただの上司と部下でなくなった証拠なのかもしれない。
「里保」
成瀬さんは私を、初めて私を名前で呼んで、それからゆっくりと体をかがめて、私にキスをした。
私たちがした3回目のキスは、さっきよりももっと深いものになった。唇を離した後で、彼は笑って私を呼んだ。
「里保」
成瀬さんは私の名前を呼ぶと、もう一度、唇にキスをした。
その夜、彼は何度も私の名前を呼んだ。
だけど、反対に私は言葉を出すことができなかった。
言葉を出したら、急に魔法が解けたみたいに、全てが夢になってしまう気がしたのだ。
魔法が解けて、私たちは上司と部下に戻ってしまうのではないかって。
繋いだ手が、離れてしまうのではないかって。
それが怖くて、漏れそうになる声を、必死で堪えた。
目を開けた先には、じっと私を見つめる成瀬さんが見えた。成瀬さんは窓から入る月の光に照らされていて、いつもきちんと整えられている髪が乱れて、額にはらりと一房、髪がかかっていた。
彼の姿がこんな風に乱れたところを見たのは初めてで。そうさせているのが自分であることを理解して、だけどそれを嬉しくも思える。
月の光に照らされている彼は、壮絶な色気を放っていて、少し怖くなるくらい綺麗だった。
好きだ。
この人が、好きだ。
そんな思いが溢れてきて、何故だか涙が出そうになる。それに気づいた成瀬さんが、繋いでいない方の手で、私の涙をそっと拭うとゆっくりと体を倒して、宥めるように額にキスをした。顔を上げると、笑って私の額に自分の額を合わせた。
「里保」
返事をする代わりに、私は成瀬さんの首に両腕を絡めて、彼に強く抱きついた。
部屋の窓から、丸い月が見えた。部屋の中は真っ暗で、月の光が差し込んでいた。
私の手はずっと、成瀬さんに触れていた。
触れるたびに、彼を思う気持ちがどんどん膨れ上がってくるようだった。
成瀬さんは私と視線が合うと、優しく微笑む。
私は成瀬さんに向けて右手を伸ばす。成瀬さんはその手を捕まえると、指を絡めてしっかりと握ると、私の手に口付けた。
「里保」
私は彼の手を強く握った。
この手が離れなければいいと
それだけを願っていた。




