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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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どちらが、先に

「じゃあ、お疲れ様」

そう言って奥平課長は酔い潰れた男の人に肩を貸すと担ぐように持ち上げた。

「お疲れ様です」

私はその背に声をかけるけど、肩を担がれた人はもう半分眠っていた。

どうしてこんなことに。私は数時間前の出来事を思い出す。


その日の午後に古くからの取引先の会長がやってきた。その元会長は対応に出た私に、もう引退して地方に引っ越しているけれど、たまたま東京にくる用事があって成瀬さんと奥平課長に会いにきた、と豪快に笑いながら説明した。見るからに人の良いおじいさんと言った雰囲気で話しやすかったこともあり、二人がくるまで話し相手をしていたら、何がどうなったか気に入ってもらえて、

「じゃあ、みんなで食事に行こう」

と急遽連れてこられた。

なんとも微妙なメンバーだったけれど、自分ではいけないような高級ホテルの中華をたくさんご馳走してもらって、今では聞けないような昔の成瀬さんや課長の仕事ぶりを聞かせてもらって、意外にもとても楽しく過ごせた。


だけど、元会長はお酒がとても強く、酒豪の奥平課長と成瀬さんを相手に、全く負けないペースでお酒を飲んでいた。二人ほどお酒が強くない私を庇って二人が飲んでくれたため、最後には成瀬さんも課長もいつもに比べたら、酔っていた。

そして流石に潰れてしまった会長は、このホテルの上の階に部屋をとっていて、急遽自分の分も部屋をとった課長が連れて行ってくれることになった。

課長は振り返って私に声をかける。


「牧野さん、成瀬のことよろしくね」

「迷惑をかけるほど酔っていませんよ」

隣で不服そうな声がした。課長はそれをいつもより赤い顔で、でも笑って受け流す。

「いろんな意味でお願いね。牧野さん」

「はあ」

意味がわからないお願いに、私はとりあえずの返事をすると、課長は意外と軽々とその人の肩を担いで歩いて行った。


レストランの入り口には私たち二人が残された。

「とりあえず帰ろう」

そう言って、いつもよりゆっくりとしたペースで成瀬さんが歩き出す。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫。だけどいつもよりは飲んだ」

「そうですね。ちょっと飲み過ぎかな、と心配になりました」

「君にあんなに飲ませるわけにはいかないだろう」

あの人、昔からお酒が強いんだよ、と成瀬さんはこぼした。


確かにあの人はとても私のことを気に入ってくれて、散々私にお酒を勧めてきた。それを途中から隣にいる成瀬さんがほとんど代わって飲んでくれた。確かにあれだけ飲んだら、誰でも潰れる。自分のせいで酔わせてしまったことに、申し訳ない気持ちになる。


ゆっくり歩く成瀬さんに合わせてエレベーターホールまで歩く。

ふと窓を見たら、今日は満月だった。


時々、怖いくらい月が綺麗な時がある。

いつもより大きく、そして怪しく光る月。

今日はそんな月だった。

見ていると何だか吸い込まれそうになる。私は怖くなって目を逸らせた。


エレベーターホールに着いて、行先ボタンを押そうとした時、私の腕が後ろへと引かれた。振り返って見上げると、成瀬さんと視線があった。


「ねえ」

「はい?」

成瀬さんはじっと私を見ていた。酔っているせいか、目尻が赤い。

「帰らないでって言ったら、どうする?」

「え?」

酔っているのに、その目はじっと私と見ていて、冷えているのに熱く感じるようなその瞳から、目が離せなかった。


言われた内容が衝撃的すぎて、どう返事をしたらいいのかわからない。どれが正解か、頭の中で考える。だけどすぐに答えが浮かばなくて、ただ彼を見ていると、彼は口角を上げて笑った。

「じゃあ、こうしよう」


成瀬さんは私の目の前のエレベーターの下に向かうボタンを押すと、今度は自分の前のエレベーターの、上へ向かうボタンを押した。そして私を振り返って、エレベーターの動くランプを指さした。


「もし、下へ向かうエレベーターが先にきたら、君はそれに乗って帰っていい。でも」

「でも?」

「もし、上へ向かうエレベーターが先にきたら」

「きたら?」

成瀬さんは私の目を見て、笑った。

「今日は、帰らないで。ずっと一緒にいて」

瞬間、息を飲んだ。成瀬さんはもう一度、私に言った。

「まだ、君を帰したくない」

そう言って、私を見た。


今はホテルの半地下で食事していたから、下へ行けば、地下鉄の駅に繋がって、反対に上へ行けばロビーやタクシー乗り場がある。帰るなら、まだ電車もあるから地下鉄に乗ればいい。それが私の考えていたことだった。

だけど、もし上へ向かうエレベーターが先にきたら…?


それでも、私はまだ、心のどこかでこれは冗談なのではないかと思っていた。

だから、誤魔化すように笑ったら、これで終わりになると思った。

だけどそれが冗談ではないかもしれないと、彼の目を見て思う。

冗談でないならば、それは彼が私に帰って欲しくないと思っているということになる。

そんなはずないと否定しようとして、成瀬さんを見て、彼がじっとこっちを見ていることに気がつく。


それを見て実感する。

あんな目で、嘘なんていうわけがない。

真剣だ。

これは、本気だと伝わってくる。

それを痛いほど感じて、私の胸が大きく早く打つ。


酔った勢いかもしれない。

やっぱりからかっているだけかもしれない。

何よりも、まだもう少し飲みたいと思っているだけかもしれない。


だけど、彼は今、私を求めている。

それが、私の心臓をこれ以上ないくらい早くさせる。喜びと戸惑いと不安と、たくさんの感情が一気に押し寄せる。


私は無言で視線を上げる。エレベーターの移動を示すランプは、順番に移動して、私たちのいるフロアまで近づいてくる。

見ているだけでは、どちらも同じ速さで移動して、私たちのところへ近づいている。多分、もう少しで着く。


だけど、どっちが先に?


私たちは黙って、それを見ていた。

ランプが動くたびに心臓の音が大きくなる。

いつもならあっという間に終わるはずのその時間を、とても長く感じた。


そして、エレベーターが着く前に、私はどっちが先にきてほしいと願っているのか、もう苦しいくらいわかっていた。


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