まだ、アシスタント
時が経つのは早くて、季節が変わろうとしていた。まだ冬には少し早い秋の日は穏やかに過ぎていった。成瀬さんは相変わらず仕事にも精力的で、私はついていくのがやっとだった。柳原さんとは何もなく、心配だけれど見た目は平和な日が続いていた。
「今日は成瀬くんいないの?」
私は時計を確認して、松橋さんに返事する。
「ええと。そろそろ戻るとは思います」
二人で話していると、課長から呼ばれる。
「牧野さん、ちょっとお願い」
急いで課長の所に向かうと、課長は私に封筒を差し出した。
「これ、秘書課に持っていってもらってもいい?」
「わかりました」
手渡された資料を受け取って、秘書課へ向かう。
秘書課にいくと、社長秘書が待っていた。資料を渡すと
「ありがとう」
そう言って素っ気なく受け取る。挨拶して出て行こうとすると、別の秘書から引き止められた。彼女は綺麗にネイルをした指で床にある段ボールを指差す。
「その段ボール、営業に持って行ってくれない?」
私は指差された段ボールを見つめる。
それは女性一人で持つには大きく、両手で持つと私の目線が少し隠れてしまうほどで、そして大きいだけあって、重いのではないかと思えた。
指示した人を見ると完璧にメイクされた顔でじっと見つめられる。
ちょっと女性に頼むには、大変なのでは?
そう思ったが断れないし、仕方なく、両手でなんとか抱える。やっぱり一人で持つには重かったから、フラフラしながらゆっくり歩いて行く。なるべく端を歩いたけれど、私を追い越して行く人がたくさんいた。エレベーターから降りて廊下を歩いていると、反対側から歩いて来た人が目の前で止まった。
自分が道を塞いだと思って横にずれようとする。だけどその人影も、私と同じ動きをするから、視界は塞がれたままだ。
どういうこと?
そう思って、視線を上げると、目の前にいたのは柳原さんだった。
「すみません。邪魔でしたよね」
廊下の端に移動する。だけど、目の前の人は私と同じ方向に動く。
「あの」
そう言った時、私の持っていた段ボールが急に軽くなった。私の反対側から柳原さんがそれを抱えると、そのまま奪うように持ってしまう。
「これ、営業に持って行けばいいのか?」
「あ、はい。でも私が」
「いや、いい」
無愛想にそう言って、今来た道を引き返す。
そのままスタスタ歩いて行くから、私は慌ててそれを追いかける。背中に向かって私がやりますと言おうとしたけれど、それより前に声をかけられる。
「これ頼んだのは、秘書課か?」
「そうです」
それを聞いて、柳原さんは意地悪そうに笑ってこっちを見た。
「秘書課には、成瀬のファンがたくさんいるから、十中八九、嫌がらせだな」
そう言うことか、と納得する。わかりやすくて、よくある嫌がらせだ。
思わず息を吐くと、隣の柳原さんがこっちを見たのがわかった。
「成瀬のアシスタントなんて、大変なことばかりだろ」
「そんなことないです」
この間の会話の続きだと身構えながら返事する。
「こんな嫌がらせされても?」
「大丈夫です」
今、助けてもらっている事を思い出して、慌てて謝る。
「すみません。今助けてもらってる最中でした」
私の返事に柳原さんはわずかに口端を上げて笑った。
今まで私と話すときの柳原さんはとても丁寧で、だけど笑顔で圧をかけているような感じだった。だけど、今はどちらかと言うとぶっきらぼうで、怖くなるような笑顔も圧もなかった。
そのせいなのか、話しやすく感じる。
「成瀬、また大型契約とりそうなんだって?」
探るような言葉に、私は思わず返事を躊躇う。目で隣を見ると、向こうもこっちを見ていて視線があった。それが少し気まずくて、慌てて視線を逸らす。
「隠さなくても、すぐにわかるからいいだろう」
隣から呆れたような声がした。柳原さんを見ると、こっちを見ていた彼と視線が合う。
「君の顔を見れば、答えはわかるよ」
そう言ってこっちを見た瞳が、少しだけ揺らぐ。私はそれに驚く。
多分、柳原さんは成瀬さんよりも少しだけ背が低い。だからか、隣の視線は慣れているものより、近い。そしてその距離の近さが、私を緊張させる。
「君も成瀬以外の人と組んでみたら、成長するんじゃない?」
例の話か、と思わず構えてしまう。
自分と組めばと言いたいのだろうと想像して、それならばときっぱり口にする。
「まだ、成瀬さんから教えてもらいたいことがあります」
「例えば?」
急に具体的な事を言われて、思わず戸惑う。
「そんなにいうくせに、すぐに答えられないの?」
私は少しムッとする。
「説明は難しいですけど、実は地味な部分の方が勉強になるというか」
隣を見ると、柳原さんもこっちを見ていた。
「仕事が始まるまでの準備とか、物の見方とか…言葉で言いにくいですけど」
うまく説明できないから、笑われると思ったのに、意外にも柳原さんはそれをじっと聞いていた。そのせいか、私は考えながら返事する。
いつも見ている成瀬さんの仕事。自分はどこがすごいと思っているのか考える。
そうして考えた後で、口を開いた。
「一番は仕事に向かう姿勢です。とても、尊敬しています」
真剣に答えてしまい、思わず恥ずかしくなる。急いで隣を見ると、私の方は見てなかった。
「なるほどね」
それを聞いて、納得してくれたのかと思ったのに、今度は
「だけど、成瀬が良くても、ずっと同じ人につくって訳にもいかないだろ」
そう、切り返して来た。
そうかもしれない。だけど、成瀬さんのそばがいい。少なくても今は。
成瀬さんが、もういいと言うまでは。
だけどそれはとても個人的な感情だから、口には出せない。
どう答えようか迷いながら、二人で並んで歩いていると、後ろから声がかかった。
「牧野さん」
立ち止まって振り返ると、成瀬さんがいた。
ビジネスバッグを持ったままの成瀬さんは、ちょうど外出から戻ってきた、という感じだった。早足でこっちへ歩いて来て、私と柳原さんを交互に見てから、私に顔を向ける。
その顔が、何かあったのか、これから何かあるのか、探るように見ている。説明しようと私が返事をするより先に、柳原さんが答えた。
「これを持ってのんびり歩かれて、邪魔だから代わりに持っただけだよ」
軽くからかうような口調だけど、その顔は挑むように成瀬さんを見ていた。笑顔のように見えるその瞳は、射抜くように成瀬さんを見ていた。成瀬さんはそれをじっと見て、スッと冷えた顔になる。じっと柳原さんを見て、それから頭を下げた。
「うちのアシスタントが迷惑をかけました」
「成瀬さん」
成瀬さんが頭を下げるようなことではない。
そう思って戸惑っているうちに、成瀬さんは柳原さんからその段ボールを奪うようにして持った。そして今度は柳原さんを見つめ返す。
「私のアシスタントの仕事なので、あとは私がやります。親切にありがとうございました」
顔は笑顔なのに、鋭い目で柳原さんを見つめた。
「関係のない柳原さんに、手伝っていただくわけにはいきません」
丁寧だけど、全てを遮断するような口調だった。
柳原さんはそれを聞いて口を歪めて笑う。だけど挑むような目は変わらず成瀬さんを見ている。
二人の目線がなんだか怖い。二人とも目を逸らす事なくお互いを見ていて、無言だけど、まるで激しい言い合いをしているようだった。
何故こんなことに。
間に挟まれた私は、どうしていいか分からなくて、オロオロしながら交互に二人を見ていると、その気まずすぎる沈黙を破ったのは、柳原さんだった。
「じゃあ、あとは成瀬に任せるよ」
そう言って、成瀬さんから目を逸らす。
「牧野さんは成瀬のアシスタントだしね、今は」
その言葉に、成瀬さんが反応した。眉を上げて、柳原さんを見る。
だけど柳原さんは皮肉げに笑って、もう一度成瀬さんを見て、体を翻して歩き出した。この争っているような空気が薄れたことにほっとした時、柳原さんが足を止めて振り返った。そして私の方を見る。
「あ、そうだ、牧野さん」
「はい?」
急に声をかけられて、戸惑っていると、柳原さんは私に向かって笑顔を見せた。
まるでモデルのような、素敵な笑顔だった。だけど、それを向けられて、なぜか嫌な予感がする。
「ひどい時は、我慢しないで成瀬にちゃんと言えよ」
思わず言葉を失った私に、柳原さんは見た目だけは爽やかな笑顔を向けると、じゃあね、と言って今度こそ歩いていった。
そのままその後ろ姿を見ていると、隣から物凄い視線を感じた。恐る恐るそちらを見ると、成瀬さんは眉を寄せてこっちを見ていた。その姿を見て、直感で感じる。
これは機嫌が悪い。
もともと感情が顔に出にくい人だからわかりにくいけれど、これは絶対に機嫌が悪い、と思う。
私は身構えながら、成瀬さんを見ると、上司はこれ以上ないくらい綺麗に笑った。
その素敵な笑顔のまま成瀬さんは口を開く。
「牧野さん、詳しく事情を教えてもらって良い?」
だけどその顔が綺麗すぎて怖い。やっぱり確実に怒っている。




