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彼とする恋は苦くて甘い  作者: 史音
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優先順位

次の休みの土曜日、私は仕事に向かう。少しやっておきたい仕事があったし、この間の一件以来、気持ちが沈みがちで、仕事をしている方が、気が紛れそうだった。

ドアを開けて驚いた。先客がいた。

「成瀬さん」

その背中に声をかけると、成瀬さんはパソコンから顔を上げて、目を見開いた。

「どうしたの?」

今日は成瀬さんも休日仕様のラフな格好だった。突然現れた私に驚いた様だったけれど、すぐにいつもの様に笑顔になった。

「いえ、ちょっとやっておこうと思うものがあって」

「急なもの?こっちでやっておこうか?」

そう言って体を傾けて私のパソコンを覗き込む。思いもかけず腕が触れて、顔が赤くなるのがわかった。

「別に急ぎではなくて、やっておくと来週が楽だと思って」

成瀬さんの手元には近くのコーヒーショップのカップが置いてあった。それはもう空になっていたから、多分この人はもっと前から来ていたのだろう。

「成瀬さんこそ、お休みなのに」

「君と同じだよ。これをしておくと来週が楽になるからね」

そういうと成瀬さんは自分のパソコンに向き直った。


しばらくして、隣から声がかかる。顔を上げると、成瀬さんがこちらに視線だけ向けた。

「落ち着いたら、ご飯食べにいかない?」

思いもかけない提案に驚いて、そして時計を見た。

「すごく集中していたから、声かけるの躊躇ったよ」

「すみません」

とっさに謝ると成瀬さんは首を横に振った。

「気にしないで。落ち着いたら教えて」

「急ぎます」

私が焦っていると、私の慌てぶりに成瀬さんが笑いだす。

「そんなに急がなくてもいいのに」

「でも…」

「ちなみに何をしてるの?」

そう言って私のパソコンを覗き込んだ。


「これ、何?」

途端に訝しげな声を出した。私は笑って説明する。

「小野さんから頼まれて」

ちょうどその時、同じ営業の小野さんと言う男性社員から頼まれた仕事をしていた。


営業の中でアシスタントの枠を超えて手伝うことはよくある。そんな時も私は率先して手をあげるようにしていた。小野さんは成瀬さんの後輩で、よく私に手伝いを頼んできた。

「実は、空いた時間にはお手伝いをしていて、それが、結構評判が良くて…。よくこうして頼まれて」

私が話せば話すほど、不思議と成瀬さんの眉間に深いシワが寄っていく。

「も、もちろん、成瀬さんの仕事を優先してます。自分の仕事に影響のない範囲でお手伝いして…ます」


なんだか目の前の人の圧に負けて、語尾が弱々しくなる。言いながらチラリと上司の様子を伺うと、成瀬さんは呆れたように肩を竦めた後、私の方へと顔を向けた。

「君は俺のアシスタントなのに、他の人の仕事で忙しくしているなんて」

「え…」

成瀬さんはじっと私の目を覗き込んできた。いつも鋭い目が、じっと避難するように私を見ている。

「ダメでしたか?」

成瀬さんは隣から体を伸ばして私のパソコンを操作する。お互いの体が近くなって、腕が触れ合う。私のパソコンはシャットダウンされる。


何気なく顔を動かしたら、触れてしまいそうな距離で、そのせいで、私の胸が大きく鳴った。至近距離で目があって、何を言われるのか、緊張する。心臓が高鳴って、だけど目が離せなかった。


真っ黒な瞳が、じっと私を見る。

何を言われるのだろうと、思っていると成瀬さんは口角を上げて笑った。

「じゃあ、行こうか」

そう言って立ち上がる。

「え、さっきまで」

ゆっくりでいいって言っていたのに、と思いながら慌てて席を立って、上司の後を追いかけた。


「折角の休みだから、遠出しようか」

そう言われて、車に乗って、海の見える街で、二人でランチを食べた。食事が終わって二人であてもなく歩く。そんな事は初めてで、本当にドキドキした。

まるでデートみたいだから。


立ち寄った店で、商品を見ていると隣から声がかかる。

「どうしたの?」

顔をあげれば、じっとこっちを見てくる。急いで首を横に振った。

「素敵だな、と思っていただけです」

そこにはショーケースに入った万年筆があった。どれも店内の照明に反射して光っている。

「万年筆って、使ってみると意外といいよ」

「そう言えば成瀬さんも万年筆を使っていますね」


初めて話したのは、その万年筆がきっかけだった。黒く輝く万年筆は、成瀬さんに似合うし、彼もそれを愛用して、とても大事にしている。私の言葉に、成瀬さんは笑った。

「そうだね、あれも人からのプレゼントだよ」


そう聞いて、誰からのプレゼントだろうと気になる。

あんなに大切にしているものを、プレゼントした人はやはり大事な人、なのだろうか。そう考えて、苦笑いする。

きっと大切な人からに、決まっている。あんなに大事にしているのだから。


頭の中でもやもやと考えながら、お店を出て二人であてもなく歩く。隣の成瀬さんはいつもよりゆっくりと歩くから、気になって隣を見上げた。

「どうしたの?」

私の視線に気がついたのか、そう聞かれて焦る。

「あの、仕事に戻らなくて、大丈夫ですか?」

彼は立ち止まって私を見降ろした。背の高い彼の姿は、人の少ない広い場所でも、やっぱりとても目立っていて、歩く人たちも成瀬さんをみている。

その彼は、そんな視線を気にする風もなく、当たり前のように私に笑いかけた。

「もし君に、休みの日に異性と二人で出かけることを嫌がる人がいるなら、すぐに帰るよ」

そう言われて私はそんな人いません、とちょっと勢い込んで返事する。言ってから今度は上司の顔を伺った。

「逆に成瀬さんにも、そう言う人がいたら…悪いかと」

言いにくいけど思い切ってそう言うと、成瀬さんは苦笑いした。

「今はそう言う心配はいらないよ」

それを聞いて、少しだけ、よかったと思ってしまった。


「仕事が気になるなら戻るよ」

「成瀬さんは、いいんですか?」

そう尋ねると、意外にもあっさりとした返事が帰ってきた。

「急ぎのものはないかな。だからこうしていても別に問題ないよ。君は?戻らないとまずい?」

別に、急ぎの仕事はない。小野さんの仕事もあるけど、大至急でもない。考えていると、先に成瀬さんの声がした。

「だけど、小野の仕事のためなら、戻ることは許可しない」

成瀬さんは怒ったような、でも口元はしっかりと笑っていた。そのまま肩を竦めて、歩き出したから、慌ててそれを追う。


「君が仕事を頑張ってくれると、俺も助かるし、君が周りに仕事を褒められると、指導上司としてはうれしい」

褒めているはずなのに、成瀬さんはとても苦い顔をした。

「でも、君は俺のアシスタントなのに、他の人の仕事ばかりかと思うと、それは少し納得がいかない」

笑いながらそう言って、足を前に出して歩き出した。

「あの、だから、それは」

からかっているとはわかっていても、私は焦って弁解しようと口を開く。前をいく成瀬さんを引き止めようと、手を伸ばしてそのシャツの袖を掴んだ。


成瀬さんが立ち止まって振り返る。急に立ち止まったことで、勢いよく歩いていた私は、思わずその背にぶつかりそうになる。小さく声をあげた私を、成瀬さんが驚いたような顔で見つめる。


だけど、その距離の近さが、私にこの間の夜のことを思い出させる。そのせいか、私たちの間に、あの時みたいな甘い空気が漂って、お互いから視線を動かせずにいた。

我に帰って、私は慌てて手を離した。そして口を開いて、小さな声を出した。

「…ちゃんと、成瀬さんの仕事を優先してます」

そう言って見上げると、成瀬さんははっとしたように目を見開いて、目を逸らせてそれから笑った。

「優先順位は間違えないで」


成瀬さんの仕事でなくて、成瀬さんを優先してます。

優先順位は、もちろん成瀬さんが一番です。

そう、心の中で宣言した。


隣で笑う上司はもうすっかり機嫌が治ったようでいつも通りの笑顔だった。


ふと隣から名前を呼ばれた。立ち止まって顔を上げると、心配そうに私を見る彼がいた。

「すこし、元気になった?」

成瀬さんはそういった後で、少し視線を外した。

「最近、元気なかったから」

そう言われて、私はようやく、あの後から普通に接していた上司が、自分を心配してくれていたことを理解する。


本当にいつもと同じようにしていたように見えたのに、気にしてくれていたのだ。そうわかったら、何だか胸が暖かくなるような気持ちになる。だから、笑って頷いた。

「もう、大丈夫です」

そう返事したら、良かった、と返事が聞こえた。本当にほっとしたような顔で、成瀬さんは困ったように笑う。

「君にはとても助けられているから。多分、俺はもう君がいないと働けないと思う」


そういってもらえるのは、努力が報われるみたいでとても嬉しい。

この人は私がいなくてもいいのだろうと思っていたから。

大変なこともあったけど、素直によかったと思えた。


その笑顔がいつもみたいに優しかったから、私は笑って頷いた。

「ありがとうございます」

成瀬さんは笑って頷き返してくれた。隣からそっと私の背に手が添えられて歩くように促されて、私たちはゆっくり歩き出す。


アシスタントが誰であっても、こんな風にするのかな?

そんな考えが浮かんで、そしてそれを急いでかき消すように頭を振る。

今日は、本当に特別。元気のない私を励ますため。『アシスタント』に気を使ってくれただけ。そう自分に言い聞かせる。


ただのアシスタントでもいい。

こんなに優しくしてくれて、大切にしてくれるなら、アシスタントでいい。

それで、十分だ。むしろこれ以上を望んではいけない。


そう思いながら、彼の隣を歩いた。

とても嬉しい時間なのに、だけど少しだけ切なかった。

どうして切なくなってしまうのかは、考えないことにした。

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