4話 買い物にこんなに緊張するなんて
休日の朝、ぼくは自分の部屋ですでに三枚目のシャツに袖を通していた。
考えてみればただ買い物に付き合うだけなのに気合を入れる意味などどこにもない。そう頭では分かっているのに、姿見の前に立つたび、この格好で本当に大丈夫だろうかという不安が胸の底から湧いてくる。
そのくせ着替えてみれば前のシャツの方がましだった気がして、結局また元の一枚に戻ってしまう。こんな堂々巡りを、かれこれ三十分も続けていた。
(何をやってるんだ、ぼくは……)
我ながら情けないが手だけは止まらない。ボタンを留め直し、襟を整えてようやく諦めがついた頃には、部屋の空気はすっかり朝の光に温まっていた。
階下へ降りると、台所からバターの焼ける匂いが漂ってくる。フライパンを傾けていた母が、ぼくの姿を認めるなり、菜箸を持つ手をぴたりと止めた。
「あら、悠真。今日どこか行くの? やたら早起きじゃない」
「べ、別にどこでもいいでしょ……」
「その格好、いつもよりだいぶ気合い入ってるわね。シャツ、アイロンかけた跡あるし」
的確すぎる指摘に返す言葉が見つからない。この人の観察眼は、下手な探偵よりよほど鋭いのではないか。
そこへ二階から降りてきたばかりの妹の葵が寝ぐせのついた頭でひょいと顔を出した。中学二年生の妹は、普段こそぼくの存在を空気同然に扱うくせにこういう時にだけ異様に嗅覚が働くのだ。
「お兄ちゃん、なんか今日気合い入ってるじゃん。靴下も新品でしょ」
「……たまたまだろ」
「うっそだあ。……ははーん。もしかして、女の子と会うんじゃない? デートじゃん、お兄ちゃんもやるじゃーん!」
図星を突かれて、ぼくは反射的に目を逸らしてしまう。その反応こそが何よりの自白だと気づいたのは、逸らした後だった。
「お、女の子って、そんな……ただの知り合いというか」
「たった今、言質を取りました、母警部!」
「でかしたわ、葵巡査!」
いつの間にか敬礼まで交わし始めた二人に、食卓は急に取調室じみた空気になっていく。
「それで? 相手はどんな子なの? 同じ学校?」
「クラスの子とか!?」
矢継ぎ早の質問に、逃げ場はなかった。何か答えるたびに墓穴が深くなる予感しかしない。ぼくは口を閉ざして俯くほかなかった。
「……ただの友達で、ゲームを買いに行くだけだから」
言ってから、友達という言葉が思いのほか大きく響いたことにうろたえた。
まだ数えるほどしか言葉を交わしていない相手を、友達と呼んでいいのだろうか。その資格が自分にあるのかどうかさえ正直なところ自信がない。
「えー? 友達と二人でゲーム買いに行くだけで、そこまで服装に気を遣うかなあ。あやしぃ〜」
葵の言い分は腹立たしいほど正論で、反論を諦めたぼくはトーストを無理やり口に押し込み咀嚼もそこそこに席を立つ。
「まあ、頑張ってきなさい」
からかい半分応援半分の母の声。その横で葵がスマホを構えてにやにやしているのを見つけ、慌てて手で制した。
「行ってきます!」
「ちゃんと写真撮ってきてねー!」
背中に投げつけられた声から逃げるように玄関を飛び出し扉を閉めたところでようやく大きく息を吐く。まだ何も始まっていないというのに、今日一日分の体力の半分はすでに使い果たした気がした。
待ち合わせ場所は駅前の時計台の下。約束の時刻より二十分も早く着いたのだから、さすがに先客はいないだろう。
そう高をくくっていたのに、時計台の影の中には見間違えようのない姿がすでに立っていた。混雑でも一目でわかるほどの美貌を際立たせた私服の日野さんが、周囲からの注目をすでに集めていた。
淡い色のワンピースに薄手のカーディガンを羽織り、金色の髪はいつもより緩くまとめられて朝の光を透かしながらほどけるように揺れている。青い瞳はその光を受け、澄んだ水面のようにきらめいていた。
目が合いそうになった瞬間ぼくは反射的に視線を逸らしまう。見つめ続けたら、何か取り返しのつかないことになるような、そんな雰囲気すらある。
目のやり場に困って彼女の背後にある案内看板の文字を必死に追うふりをしながらそろそろと近づいていく。
「お、おはようございます」
「おはようございます。……遅うございますわよ」
「えっ。あの、約束の時間まで、まだ二十分あるはずなんですけど」
「存じておりますわ。ですがわたくしは、一時間前からここにおりましたの」
「い、一時間前から!?」
「一刻も早く、あの令嬢を救って差し上げなくてはなりませんもの。昨夜など、楽しみでほとんど眠れませんでしたわ」
胸を張って言い切るその顔は、遠足の前日に眠れなかった子供そのものだった。学園の女王がそんな理由で一時間も立ち尽くしていたのかと思うと、笑っていいのか驚くべきなのか分からない。
「あなたは、よく眠れまして?」
「ぼ、ぼくも、その……あんまり」
本当は着替えに三十分を費やしたせいで寝不足なのだが、そんなことは口が裂けても言えない。日野さんは「あら」と目を細めた。
「では、同志ですわね。道中、あの令嬢の続きを存分に語っていただきますわよ」
返事に窮して視線を泳がせていると、日野さんがふいに小首を傾げた。
「ところで。わたくしを見て、何かおっしゃることはございませんの?」
「え……あの、何か、って?」
何を問われているのかまるで分からず、間の抜けた声が出る。日野さんは一歩踏み込み、少し前屈みになって上目遣いにこちらを覗き込んできた。近い。甘い匂いがふわりと鼻先をかすめて、思考が一瞬で真っ白になる。
「ふふ。それで、どうかしら」
「ど、どうって、何が……」
「あら。淑女の装いを褒めるのは、殿方の嗜みではございませんこと?」
「え……あっ。その……とても可愛い、ワンピースです」
(無理! 無理無理無理! 女の子を褒めるって、こんなに心臓に悪いのか! 鬼畜ゲーをノーセーブで完走する方が、まだ百倍ましだよ!)
自分でも滑稽なほど顔が熱い。そんなぼくを見て、日野さんはくすくすと喉を鳴らした。
「四十点、といったところかしら。ですが、初めてにしては上出来ですわ」
「は、初めてって、どうして分かるんですか」
「見れば分かりますもの。あなた、褒め言葉を口にするとき、まるで難解な呪文でも唱えているようでしたわよ」
「呪文……」
「うふふ。いじめるのはこの辺りにして、参りましょうか」
軽やかに歩き出した背中を、ぼくは一歩遅れて追いかける。
休日の電車は思っていたよりずっと混んでいた。座席は埋まっていて、ぼくたちは並んで吊り革に手をかける。
ただし二人の間には人ひとり分ほどの隙間をあえて空けておいた。今のぼくには、そのくらいの距離がちょうどいい。
「電車に乗るのは、実は初めてですの」
「えっ、乗ったことないんですか?」
「普段は送迎の車ですもの。ですから昨夜のうちに、経路を調べておきましたわ。乗り換えは一度きり、所要時間は二十七分、運賃は三百二十円」
「あの、やけに具体的ですね」
「何事も下調べが肝心ですのよ。初めての場所で右往左往するなど、わたくしの矜持が許しませんもの」
得意げに胸を張ってはいるが、吊り革を握る指先には妙に力が入っている。電車が揺れるたびにびくりと肩がこわばる様子を見るに、本人が認めたくないだけでどうやらそれなりに緊張しているらしい。
同じ制服を着て同じ教室に座っていても、彼女と自分とでは見えている景色がまるで違うのだ。そんな人が、どうして自分のような人間に構うのか。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていくばかりだった。
「今日は、送迎の車は使わなかったんですね」
「あら。使ってほしかったんですの?」
「い、いえ、そういう意味じゃなくて」
「冗談ですわ。車ですと、お話しできる時間が短うございますでしょう。二十七分あれば、あの令嬢の話を存分に伺えますもの」
そう言われて、ようやく合点がいった。最初から彼女の頭にあったのはゲームの話をすることだけなのだ。妙にほっとしたような、少しだけ拍子抜けしたような、不思議な気持ちになる。
「では早速。三章で、あの令嬢は本当に救われますの?」
「それは……ネタバレになるので」
「ねたばれ?」
「先の展開を、先に知ってしまうことです。楽しみが減るので、普通は言わないんです」
「なるほど。では、聞かないでおきますわ」
意外なほどあっさりと、日野さんは頷いた。
「結末は、自分の手で見届けたいですもの。あの子の運命を他人の口から知らされるなど、御免ですわ」
窓の外へ向けられた瞳が一瞬だけ遠くを見た気がした。何か言葉を返そうとしたが、うまい台詞が浮かばないうちに車内アナウンスが乗り換えの駅名を告げる。
日野さんは「参りますわよ」とだけ言って、迷いなくホームへ降り立った。案内板を確かめる横顔は、調べた通りに事が運ぶのを見届ける指揮官のようだった。
改札を抜けて繁華街へ出ると、休日の人波がざわめきとともに押し寄せてくる。ショーウィンドウの照り返しのなか、前方から歩いてきた数人の男たちが、すれ違いざまに日野さんへ視線を吸い寄せられていくのが分かった。
「今の子、モデルか何か?」
ひそひそ声のはずが、やけに鮮明に耳へ届いた。当の本人はそんな視線などまるで気に留めず、まっすぐ前を向いて歩いている。きっと、こういう反応には慣れきっているのだろう。
一方のぼくはその隣を歩いていること自体がひどく場違いに思えてならない。すれ違う誰かの目に、二人はどう映っているのか。想像するだけで、足取りが重くなる。
「あの……」
「何ですの?」
「無理して一緒に歩かなくても、その、ぼくは少し後ろからついていく形で……」
「あら。何をおっしゃいますの」
「いえ、ぼくと歩いてると、変に見られるかもしれないですし」
「後ろを歩かれては、話し相手の顔が見えなくなるではありませんか。わたくし、独り言を口にする趣味はございませんのよ」
当然だと言わんばかりに言い切られ、ぼくは反論の言葉を失った。それどころか変に見られることを気にしているのは自分だけなのだと気づいて、なんだか恥ずかしくなる。
「それより、あの携帯機というのは、おいくらほどしますの?」
「え、えっと。五、六万円くらいです。限定のは、もう少し高いですけど」
「存外、お安いのですわね」
「安くはないですよ!」
思わず声が大きくなった。日野さんは「あら、失礼」と口元を隠して笑い、すれ違う人の視線も気にせず軽やかに歩いていく。
やがて通りの向こうに目的の店の看板が見えてくる。緊張はまだ解けないままだったが、来る途中よりほんの少しだけ足取りが軽いことに、ぼくは気づかないふりをした。




