第45話 今のなし
「11:55か……。事務所につくころにはお昼になっちゃうな」
クリーンルーム最後の部屋の時計を見ながら試神がつぶやく。
「ほんとに、行くのは簡単だけど帰るのは大変だ。毒があるから仕方ないとしても、もっと簡単にならないかな。防護服とか着て……いや、それだと結局変わらないか」
ヘルメットをリュックの中に押し込み、むりやりチャックを閉める。急いでいたあまりもってきてしまったが、置いてくればよかったと心底後悔した。
「これで来客対応中だったらどうしよう」
最後のクリーンルームを出て廊下を曲がる。
――違和感を感じたのはそのときだった。
人気を感じたのである。
静寂が満ちて活気から無縁に思えた廊下に、人の気配がある。
ここが創造根底館という施設で、ここで働いている人がいる以上人の気配があっておかしいものではないのだが、初めてここを訪れたときずっとなかった雰囲気に、すこし心がざわついた。
思わず足を止めてしまう。
カツ、と足音を最後にまた静寂が戻ったが、まだ空気が動いている感じがしている。
試神以外に人がいる。
しかも大勢。
「そういえば」
この空気を壊すように声を出す。
「今日、どのくらいの人がくるんだろう」
来客がくるとはきいていたが、何人とまでは聞いていない。もしかしたら相当の団体さんなのだろうか。だとしたら事務所いっぱいに人がいる可能性がある。
そういえば、来客が来る場合、携帯に連絡が来るんだったか。
確認すればよかったな、と思いながら忍び足で事務所の前まできたとき。
――悲鳴が、聞こえた。
閉じたままの自動扉の向こうから、大の大人が、しかも男性が、本気で絶叫している声が聞こえた。
……誰だ? いや、なんかあったのか?
事務所の自動扉に近づく。
扉が開いた、と思ったら。
見知らぬ男性が試神に向かって走り出してきた。
軍服、というのだろうか。迷彩服を上下に着た、壮年の男性が恐怖に慄く表情で試神に向かって走り出してくる。
いや、逃げ出そうとしている、というのが正しいだろう。
開いた扉に向かって駆けだしている。
試神が見えていないのか、それともそんなこと関係ないのか試神を踏み倒す勢いで突進してきた男性は――。
――急に体が膨れ、パン、と、割れた。
風船のように顔が、首が、胸が、腹が、腕が、ブクブクとブクブクとブクブクとブクブクと広がって真っ赤な血をまき散らしながら破裂した。
血が顔にかかる。目にも入るが、瞬きを忘れてしまったらしく閉じることはなかった。赤い視界の中に、上半身の消えた男性――男性だったものがいた。
破裂の瞬間に、骨も内臓も飛び散ったらしい。試神の頬や耳たぶに、なにか硬いもので抉られた感触が残っている。痛みはない。上半身にも穴が開いている感触がある。やはりこちらも痛みはなく、異物が体内に侵入したという搔きむしりたくなるほどの嫌悪感がじわじわと湧き出ている。
真っ赤な視界のまま、顔を動かす。
白かった事務所は、血で染まっていた。
今朝みた机はなくなっており、広い、だだっ広い事務所の中に、血を敷き詰め、肉片と肉塊を浮かべている。何人の血が集まっているのかわからないが、何百ではなさそうだなとぼんやりと思った。想像だが、もしそうなら泳げたはずだ。まだ足元にしかないので、数人程度のはず、じゃないとこの血の量は説明がつかない。人が何リットルの血を保有しているかなんてわからないが、かなりの多さであるだろう。だとすればこのくらいだ。
よく見れば死体は、おそらく生きていたであろう人は、みんな同じ服を着ていた。さっき弾けた人と同じ服だった。流行っているのだろうか、それとも強制だろうか。制服だとしたらなんとも窮屈な服だ。まるで軍隊のようである。迷彩服なんて作業着には似合わないし、生地もごわごわで仕事に適さないだろう。今は迷彩服は血の色でなんの色かわからなかったが、模様はなんとなくわかる。洗えばもっとしっかり見えるだろう。あれだけの血を吸ってしまったら、ちょっと洗濯した程度じゃ落ちないだろう。何回洗えば薄まるだろう。いや、そもそも買い換えたほうがいいまである。どうせ着ている人は死んでいるのだ。捨てたところで文句は言われない。いや、形見だから大事にしろと言われるだろうか。もしそうならあんな血で汚さないでほしい。もっていく身にもなれってもんだ。
下半身が倒れる。さっき破裂した人だ。そういえば、上半身だけしか割れなかった。爆破物でも飲み込んだのだろうか。それにしては音はしなかったし、胃のあたりから飛び散って頭は無事だと思うのだが、この人は頭まで綺麗になくなっている。ほら、天井に髪と脳がこびりついてる。掃除が大変そうだ。やはり骨も一緒にばらばらばらばらばらばらばらばらになったのか天井と壁に穴を開けている。見れば、腕に骨がささっていた。どこの骨だろう。肋骨か? それなりに大きな骨を引き抜くと、血が出た。誰の血だろう? 一緒に飛び散ってきたのだろうか? ああ、いや、ちがう。俺の血だ。いや、違った。俺の体の血だ。ああ、これも違う。そうだ、これは神羅 試神の血だ。神羅 試神の体から出てくる血だ。痛みはない。ただ、違和感がある。体に突き刺さったものがあった違和感と、抜けた違和感と、血が出てくる違和感がある。痛覚は死んでしまったのだろうか? いや、痛覚だけじゃない。触覚も薄い気がする。感覚全部が薄い気がする。
パシャと音がして我に返る。下半身が倒れ、血の海に浮かんでいた。いや、浸かっていた。泳ぐかと思ったが、微動だにしなかった。そのかわりドクドクとザブザブと血があふれている。下半身がコップだったように、足までたっぷり詰まった血が、横になったことにより我先にと血の海に帰っていく。このままぺったんこになるんじゃないだろうか。肉も骨も皮膚も全部溶けて解けて融けていって、液体になるんじゃないだろうか。当然服だって同じだ。繊維が血に溶かされて全部混ざって赤くなるんだ。じゃないとこんな状況はありえないじゃないか。
たくさんの死があった。
たくさんの死しかなかった。
たくさんの死しか見えなかった。
何人ここで死んだんだろうか。
何人だったのだろうか。
誰だったのだろうか。
何だったのだろうか。
動きたくない顔を動かして視線をあげる。
事務所には人がいた。
死体じゃない人がいた。
一人は赤いメイド服をきていた。
一人はフランス人形みたいな見た目をしていた。
一人はまだ小学生くらいの男子だった。
一人はフランケンのような大男だった。
そして、一人は、タタンだった。
口を開く。血が口に入るが、味はしなかった。液体が入ってきた感触があって、感覚があった。
なにか言おうとして、なにも言えず、それでもなにか言おうとして、考えて、口をあけたまま止まって、それから口を閉じて、もう一回あけて。
考えて
考えて
考えて
考えて
考えて
考えて
考えて
考えて
考えて
「タタン」
名前を読んだとき。
タタンが「あ」と言った。いつにもなく間抜けな、ぽかんとした顔だった。
これは、
これらは、
この死体は、
この血の海は、
この死屍累々は、
これは全部キミが、
キミが全部やったの
「今のなし」




