第133話 名は体を表すなら、苗字はルーツを示す
「安心しろよ」と黙った試神に向かって墓蒔が言った。
「偽名って言っても、それはお前に名前を隠したいってことじゃない。不敬を働いたとか、不信感を抱かれたとか、知られなくないからとか、そういう理由で本名を名乗りたくないわけでもない。誰に対してもそうだし、名刺なんてものにも『ユミズ』って書いてるんだ。会社にだってその名前で通してるんだろうぜ。偽名だけど、それが今のあいつの名前ってだけ。本名は捨てて、今はその名前で生きてるってだけだよ」
「…………」
どうして。
その疑問を飲み込んだのだが、墓蒔には言わんとしていることがわかったらしい。
「それがここの――異球の生き方のひとつだから」
「…………それは」
名前を捨てて、偽名で生きることが、生き方?
「名は体を表すなら、苗字はルーツを示す」
「…………」
「偽名を持つってことは、今までの人生を捨てて新しくやり直すってことだ。ダンジョン的に言えばリセットするって感じ? そんとき、特に苗字なんてものは持たないのが普通だな。過去を捨てたいんだから、ルーツなんて不要……というか、持てないんだろ。今新しく生まれたんだから、そいつの前にしか道がなくて、後ろには道がない。その人だけを表す……その人の体を表す名前だけあれば十分だ」
もう一度、名刺に目を落とす。
ユミズ。
その三文字が、とても重く見えた。
「……なんで、過去を捨てようと思ったんだ」
「それを俺様が知ると思うか? そんなもん、あいつにきかなきゃわかるもんか」
「…………犯罪、とかかな」
ぽつりとつぶやくと、「さあな」と返ってきた。
「でも、多分そうじゃないと思うな」
試神が墓蒔を見ると。
「というか」と、いやらしく笑う姿があった。
「犯罪とかその程度で、過去なんか捨てない」
「…………」
「と、俺様は思うけどね」
肩をすくめる。
「俺様の周りにも何人か偽名を名乗ってる奴はいるけど、そいつが昔なにやったのかわからん。訊いてもいない。素直に教えてくれるとは思わんし、下手にきいて恨みを買っても困るからな。虎の尾を踏んでも嫌だし、マジで殺されかねん」
「…………」
「地球じゃどうかしらんが、異球じゃ案外簡単に過去を捨てられるってことだ。覚えておいて損はないと思うぜ」
「…………」
「自己紹介のときに名前しか言わないってことは、そういうことだよ。まあ、名字だけしか名乗らない人も中にはいるだろうから、全員そうとは言い切れないけど。異球じゃこういう生き方が一般的なんだ。深い理由がなけりゃ、名字も入れて自己紹介するさ」
試神の頭に、創造根底館の人の顔が浮かんでくる。
その中で、苗字のある人は、何人いただろうか。
そして――。
タタンも。
苗字を名乗っていないということは。
偽名、なのだろうか。
「そんなわけで、名前をきいても『ユミズ』って返ってくると思うし、深追いしてもうまい具合にはぐらかされると思うぞ。特にあいつ営業だろ? 口の上手さだけでいえばお前が勝てる相手じゃねえよ」
もちろん、どうしても教えて欲しいって懇願するなら、ワンチャンあるかもしんねえけど。墓蒔が小さく言った。
「……了解。サンキューな、墓蒔。とりあえず勇み足にならずにすんだわ」
「うはは。まあ、そうなってるシーンも立ち合って見たかったけどな。お前が名前をきいて、ユミズがはぐらかす。気まずいんだろうなあ……ぞくぞくする」
恍惚とした表情のまま自分で自分を抱きしめる墓蒔を見て、思わず呆れてしまう。
墓蒔と違い、ユミズは自分が偽名であることは隠すだろう。途中で試神が知らないと気が付いたところで、それを指摘するか怪しい。
そして。
……知らなかったら、多分ぐいぐい訊いちゃうんだろうなあ。
名前は試神にとって重要なものだ。
これから長く付き合うかもしれないのだから、いいタイミングで訊いておきたいという気持ちが少なからずある。
そこを訊けなかったのが、今のタタンなのだ。
偽名かもしれないとわかった今、訊いたほうがいいのか訊かなかったほうがいいのかわからないが、まだ異球にきて間もないときに訊いていれば、もう少しもやもや感は薄れていたことだろう。
それに、ユミズのことだ。名前をきいても表情に出さずにのらりくらり交わすなりの対応をするのだろう。それを見て、さらに質問を重ねる自分の姿が容易に想像できてしまう。
「というか、そうなった場合、ちゃんと止めるなりしてくれよ」
「俺様が? なんでさ。むしろ焚きつける側の人間よ」
悪びれることなく言う墓蒔。
……まあ、そんな気はしていたが。
「逆に俺様としてはお前に頼んで、ユミズって奴に訊いてほしいくらいだね。本名じゃなくて、その理由のほう。『いったいなにをどうすれば、名前を捨てる結論にいたるのか』って」
なあ。お前もそう思うだろ。
と、共感を求めるような目線を向けてくる――が。
「そのあたりは、俺もわかるよ」
「……へえ」
「名前を捨てたいって気持ちは……そうすれば、過去を変えられるんじゃないかって気持ちはわかる」
名は体を表すが、名字はルーツを示す。
だからそれを捨てれば。
名前と苗字、両方無くしてしまえば、新しい人生を歩めるんじゃないか。
そう思う気持ちは、よくわかる。
「じゃあ訊くが、なんでユミズは名前を捨てようと思ったのか、試神にはわかんのか?」
「わかるよ」
達観したように、そして諦めたように。
「名前くらいしか捨てられないからさ」
と、試神は言った。
「自分を変えようと思ったとき、最初にできるのはそれくらいしかないんだよ。だって名前って、他人からもらったものだろ。自分で付けたものじゃない。自分で作り上げたものじゃない。自分で育て上げたものじゃない。愛着があっても愛情があっても、執着はないんだよ」
だから、まずはそこから捨てる。
墓蒔の言い方を借りれば、ルーツから、捨てていく。
「転生とかって、その最たる例だと思わないか?」




