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共鳴するバイナリ



 その漆黒の直方体は、物質でありながら物質ではなかった。


 科学者たちはそれを、この世界のコードに発生した物理的なエラーの塊だと推測した。


あるいは、高次元から投影された、三次元世界を上書きするための「外部ストレージ」だと言う者もいた。


 光を一切反射せず、電波を吸い込み、周囲の磁場を激しく書き換えていくその存在は、世間からいつしか『モノリス』と呼ばれるようになった。


 それが、新たな神の降臨なのか、宇宙による強制的な再起動の予兆なのか、誰にも分からない。


分かっているのは、それが現れた場所から順に、既存の物理法則が「古びたOS」のように、使い物にならなくなっていくということだけだった。


信号機は見たこともない規則性で点滅を繰り返し、街頭の電光掲示板には意味不明な「0」と「1」の羅列が激しく流れる。


パソコンを立ち上げれば、勝手に古い写真が表示されては消えていく。


モノリスが放つ不規則なパルスは、時折、人々のスマートフォンの画面を砂嵐に変え、平和だった東京の空を、見たこともない緑色のオーロラで塗り潰した。


 世界が終わりを告げる、巨大な警告サイン。

 けれど、僕にとってモノリスは、世界の終わりを告げる象徴などではなかった。


 それはただ、彼女という「1」を失った後の、あまりに無機質で、無慈悲な世界の残像に過ぎなかった。


世界が壊れていく。 


それがどうしたというのだろう。


僕の世界は、あの日、受話器の向こう側から冷徹な声で彼女の訃報を聞かされた瞬間に、とっくに粉々に砕け散っているのだから。




 社会的な大混乱は起きていたが、物理的な死傷者はほとんど出ていない。


ただ、世界が「バグ」を起こしている。


そんな奇妙な停滞の中で、僕の時間はあの日から一歩も動けずにいた。


 そんな夕方のことだ。


インターホンが鳴り、僕はドアを開けた。



そこには、派手な色彩のコートに身を包んだサチが立っていた。


 センサータイマーで点灯した廊下の真っ白な光が、彼女の纏う鮮やかな色を容赦なく照らし出し、その瞳に宿る深い疲労を浮き彫りにしていた。


「……今日は少しだけ、外が落ち着いているみたいだから。どうしても、今日渡しておかなきゃいけない気がして」


 サチが掠れた声で言った。


 昨日まであんなにパニックになっていた街は、今は不気味な停滞の中にあった。


モノリスが吐き出す磁気嵐のパルスが一時的に弱まり、人々が怯えて家に閉じこもっている隙を突くようにして、彼女はここまでやってきたのだ。


 彼女の瞳は赤く、手にした使い古されたキャンバスバッグは、何か重いものを守るように強く握りしめられていた。


 中学時代から彼女と苦楽を共にしてきたというその親友は、バッグの底から銀のチェーンを通した指輪を取り出し、僕に差し出した。


「あの子がね、これをあなたにって。……それから、他にもいくつか預かっているものがあるの。どれも大切なものだから、一つずつ渡していくわね」


彼女が取り出したのは刺繍布だった。


「彼女、亡くなる直前までこれを刺していたわ。


でも、最後の一針を刺そうとした時、糸を引く力さえなくなって……。


私の手を握って、震える声でこう言ったの。


『サチ、ごめんね……。あと少しだったのに。

……この続きは、サチが縫って。できあがったら、あなたに届けて』って」


「続きを、サチが?」


「ええ。彼女からどう仕上げるか、口頭で詳しく聞いたわ。この2週間、頑張って縫っているけど刺繍ってあんまり得意じゃないからまだ完成していないんだ。


時間のある時に少しづつ、だから常に針を刺したままなんだけど、あと10針くらいで終わると思う。


そうそう忘れないように、その場で描いたのがこれなんだけど……」 


サチが手帳から一枚のスケッチを差し出した。


デザインの仕事をしている彼女らしい、繊細で正確なイラストだった。


そこには、刺繍の完成図となる、複雑に組み合わさったドットとラインの幾何学模様が描かれていた。 


その絵を覗き込んだ瞬間、僕の背中に冷たい電気が走った。


「……この模様、見覚えがある」


「え?」 


サチが首を傾げたその時、マンションの共用廊下の照明が無機質な音を立てて消えた。


センサーのタイマーが切れたのだ。


落ちてきた暗闇の中で、

 サチが差し出したスケッチの白い紙が、暗闇の中でわずかな月光を拾い、そこに描かれた複雑な幾何学模様を浮かび上がらせていた。


「サチ、悪いけど中に入ってくれ。……ここで立ち話をするような内容じゃない気がするんだ」


 僕は彼女を自室へと招き入れた。


サチは少し戸惑いながらも、僕のただならぬ気配に押されるようにして、ソファーに腰を下ろした。


 僕は台所で手早く湯を沸かし、マグカップにティーバッグを放り込んだ。


サチの前にそれを置く。


「ごめん、まともな茶葉もなくて。……それで、さっきの絵だけど。もう一度見せてもらってもいいか?」


 サチは頷き、手帳から切り取ったそのスケッチを、蛍光灯の下で改めて広げた。


僕は自分の腕時計を外すと、その盤面をイラストの真上に重ねるようにして置いた。


「見てくれ。これだ……」


 僕は外した腕時計を、蛍光灯の下でスケッチの真上に置いた。


「見てくれ、このドットの配置だ。……この時計は、もうずっと動いていない。


でも、僕の頭の中には、この時計が生きていた頃の、あの独特な光のリズムが焼き付いているんだ」


 僕はスケッチに描かれた、彼女が遺したというドットの並びを指でなぞった。


「サチ、君が描いたこの図案は、僕の時計が、ある特定の時刻を示した時のLEDの点灯パターンと……気味が悪いほど完璧に一致している」


 サチは息を呑み、沈黙したままの時計の盤面と、自分の描いた絵を交互に見つめた。


スケッチに描かれたドットの配置は、僕の時計の盤面が示す二進数(0と1)の配列と、気味が悪いほど完璧に一致していた。


「……僕の時計だ。彼女は僕がいつも見ているこの光を、刺繍にしようとしていたのか……?」


「ただの模様だって言ってたわよ」 


サチも言葉を失い、僕の時計と自分の描いたスケッチを交互に見つめた。 


僕のBCD時計(バイナリ時計)の盤面は、真っ暗なまま沈み込んでいる。


彼女と別れてからしばらくして、この時計は前触れもなく光を灯すのをやめ、死んだように静止した。


 電池が切れたにしては早すぎるなと思いつつも、僕は交換に出す気にもなれなかった。


動かない時間を引きずるように、それでも習慣だけが残って、僕は毎日この黒い盤面を腕に巻き続けていた。



彼女が命を削ってまで布の上に写し取ろうとした、僕の時計の「リズム」。


それが何を意味しているのか、その時の僕らにはまだ、想像することさえできなかった。



 その瞬間だった。

 長らく静止していたはずのBCD時計が、突然「チッ」という鋭い音を立てた。


 点滅、消灯。点滅、点滅、消灯。


 オレンジ色のLEDが、これまでにないほど激しく、狂ったような速度で明滅を始める。


 同時に、テーブルの上の刺繍が、その光に呼応するように青白く波打った。


窓の外で不気味に瞬く巨大なモノリスと、僕の腕の時計が、物理的な法則を無視して共鳴している。


「え……何、これ。時計と刺繍が……光ってる?」

 サチが息を呑む。


 刺繍の金糸と銀糸が、僕の時計が刻むバイナリデータと同期し、新たな模様を浮かび上がらせていた。



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


〜Dream〜


 

混乱した僕はそのまま意識を失ったのか、

 あの夢の世界、居酒屋『パラレル・ライン』にいた。


琥珀色のグラスを弄ぶ彼女。


 昨日までとは違っていた。


彼女は僕を見ようとも、口を開こうともしない。


ただ、彼女の指先がテーブルの木目をなぞるリズムだけが、静寂の中で際立っていた。


 一、一、〇、一、〇……。


 トントン、と叩かれるその数列は、僕の時計が刻んだパルスと残酷なまでに一致していた。


僕が彼女の肩に触れようと手を伸ばした、その瞬間だった。


「パラレル・ラインに来て。サチと一緒に」


 彼女の唇がそう動いた直後、その姿は古いテレビが受信に失敗した時のように、激しいスノーノイズへ混ざり合っていった。


 指先が触れたのは、温かな肌ではなく、バチバチと火花を散らす無機質な電子的ノイズだけだった。


 彼女の存在そのものが、この世界の記述から「エラー」として弾き出されようとしている。


 そんな、得体の知れない根源的な恐怖が僕の脊髄を貫いた。



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。






「――くん!」


 名前を呼ぶ声に弾かれたように目を開けると、サチが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。


 どうやら、一瞬だけ意識を失っていたらしい。


 部屋の隅では、猫のデジットが窓の外をじっと見つめていた。


その視線の先にある漆黒のモノリスに向かって、何かに怯えるように、あるいは誰かを恋しがるように、低く寂しげな声で喉を鳴らしていた。


 時計の針は、まだ18時を少し回ったところを指している。


 けれど、夢の中で彼女が遺したあの言葉は、耳の奥にこびりついて離れなかった。


 僕は、彼女の遺品の指輪を強く握りしめた。

 なぜ世界が狂い始めたのか。


なぜ彼女の遺品が僕の時計と共鳴するのか。


 答えはまだ、霧の向こうにある。けれど、じっとしてはいられなかった。


「サチ。パラレル・ラインへ行こう」


 僕は静かに、けれど抗えない予感と共に口にした。


 窓の外ではモノリスが放つ漆黒のノイズが夜を侵食し、十七時半に来客があった時よりも状況は明らかに悪化していた。


「今から? この嵐の中を……」


「ああ。避難に必要なものを纏めて持って行く」


 押し入れから古いボストンバッグを引っ張り出すと、

サチが「これも渡すべきだと思って」と、亡くなった彼女のラップトップPCを差し出した。


「彼女の、パソコン……」


「ええ。指輪と刺繍と一緒に預かったの。

『必ず彼に届けて』って。ロックがかかっていて中身は見られなかったけど」


 PCをタオルで包み、バッグの底へ沈める。続けてアダプタ、食料、懐中電灯を無造作に詰め込んだ。


「パラレル・ラインに行くのに、食料……?」


 サチの困惑した声に、自分も混乱しているのだと気づく。


苦笑して手を止め、スマホを取り出した。


短縮ダイヤルのトップ、『長沢 陽菜』をタップする。


「陽菜ちゃんに連絡してみる。今日は店番のはずだ。マスターを心配して無理にでも店に向かっているかもしれない」


 耳に当てたスマホの画面には『圏外』の文字。テレビは砂嵐を上げ、緊急放送すら絶絶え絶えだった。


「ダメだ。サチ、急ごう。」


 首にかけた指輪をシャツの上から握り、バッグのジッパーを一気に閉じた。


「……ん? やけに重いな……」


 一瞬、手が止まりかけたが、すぐに思考を切り替えた。精密機器と食料。重くて当然だ。


 急き立てられる予感に背中を押されるままバッグを肩に担ぎ、シャツの下で僕の鼓動を刻み始めた指輪の熱を感じながら、夜の静寂へと踏み出した。


 バッグの奥で、灰色の「重み」が静かに息を潜めていることなど、知る由もなかった。

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