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デッドマンズ・スイッチの解析


 深夜の街は、暴力的なまでの静寂に包まれていた。


通信網はひどく混線して使い物にならず、街灯は見たこともない不規則なリズムで明滅を繰り返している。


空にはカーテンのような緑色のオーロラがのたうち、漆黒のモノリスが街の輪郭を歪に切り取っていた。


 僕とサチは、懐中電灯を手に、路地裏にひっそりと佇む居酒屋『パラレル・ライン』の扉を押し開けた。


「……何日か前から、そろそろ来る頃だろうと思って店を開けていたが、意外と遅かったな。ロウソクがもう一本、燃え尽きるところだったよ」


 カウンターの奥で、マスターがロウソクの灯りを頼りに、古いゼンマイ式の時計を分解していた。


その傍らには、一匹の黒猫が静かに座っている。


「……ビットも、中にいたんだね」


 僕が呟くと、マスターは作業の手を止めて目を細めた。


「ああ。磁気嵐がひどくなってから、ずっとここに居座っていてね。普段は店の外をうろついて、自由気ままにしてるあいつが、今日はまるで誰かを待っているように一歩も動かないんだ」


 艶やかな漆黒の毛並みに、片方だけが金色の瞳。


 2年前、この店の周りに現れた正体不明の二匹。


人懐こいデジットは僕がアパートへ連れ帰ったけれど、このビットだけは、ついに誰の手にも乗ることはなかった。

彼女だけが、この猫の不可解な行動を「案内人ガイド」のようだと言って面白がっていたのを思い出す。


 ビットの金色の瞳が、僕の肩にあるカバンをじっと見据えた。


その視線には、この世の道理を超えた何かが宿っているように見えた。


「お二人とも! 無事だったんですね!」


 カウンターの端で予備のロウソクを整理していた陽菜が、縋り付くような切実さで顔を上げた。


不安げだった彼女の表情に、ようやく安堵の光が差す。


「まあ、そこに座りなさい。ひとまず落ち着いて、何か温かいものでも飲むかい?」


 マスターの促しに、僕は肩のボストンバッグを足元に下ろしながら、重い口を開いた。


「……ここに来るように、あの子に言われた気がしたんだ。いや、正確には夢の中でそう言われた。サチも一緒にって。……何か知ってる?」


 僕は陽菜にも視線を投げたが、彼女は困惑したように首を振るだけだった。


「……私は、その間に刺繍を仕上げちゃおうかな。あの子との約束、まだ果たせてないから」


 サチが静かな声で言い、バッグから例の刺繍布を取り出した。


彼女はカウンターの端に座ると、ロウソクの明かりの下で、あと十針ほどを残した繊細な模様を、迷いなく広げた。



その時、背後の扉が乱暴に開き、寒気と共に一人の男が滑り込んできた。 


秋山拓海だった。


彼女のラボの同僚であり、僕やサチともBBQで顔を合わせる気心の知れた仲だが、常に沈着冷静なはずの彼が、今は見たこともないほど血走った目で銀色のハードケースを抱えている。


「……やっぱりここか。磁気嵐のパルスが、この路地裏の、この一点だけを『避けて』流れている」 


秋山は荒い息を吐きながら、カウンターに無骨な軍用ラップトップを叩きつけるように広げた。


「……マスター、話には聞いていましたが、ここは想像以上に『異常』だ」 


秋山は顔見知りであるマスターに短く一瞥をくれると、挨拶もそこそこに店内の壁面に目を走らせた。


かつてラボでノアの理論にアドバイスをくれていた「隠れた賢者」としてのマスターの姿を知っているからこそ、秋山の声には焦燥と期待が混じっている。


「これはなんだ……? あの時、彼女が言っていたリニューアルの図案。ただの装飾だと思っていましたが、これ、店全体が精密に計算された『電磁シールド(ファラデーケージ)』として機能している。……マスター、あなたと彼女は、『ノア・理論』を本当に実証するつもりだったんですか?」


 秋山の声には、隠しきれない焦燥と期待が混じっていた。


 かつて彼らのラボを訪れたマスターが、かつての友人である天才科学者・ノアが遺したという仮説を鮮やかに解説してみせたあの日。


秋山も、そして誰より彼女も、その未知の数式に魂を奪われた一人だった。


「ノア……?」


 背後で、サチが小さく呟いた。


 彼女から「心の師匠がいる」という話は聞いていたはずだが、その名前を具体的に耳にするのは初めてだったのだろう。


サチは怪訝そうに眉を寄せ、店内の幾何学模様を見渡している。


 僕はといえば、彼女との交際中、彼女が熱っぽく語っていた「ノア先生」という響きをぼんやりと思い出していた。


失踪したのか、死んだのかも定かではない過去の天才。


けれど、目の前の秋山の怯え方は、それが単なる過去の遺物ではないことを物語っていた。


 彼女が、会ったこともないその男を「先生」と呼び、病室でもノートに書き綴っていたであろうあの数式。


それがいま、この古びた居酒屋の壁一面で、目に見えない防御壁となって僕たちを守っている。


「……ああ。あの子は、ノアの続きを書き換えたんだよ。秋山くん、君たちがラボで諦めた『あちら側』への入り口を、彼女はこのカウンターで完成させたんだ」



マスターのその言葉は、激しい磁気嵐の音をかき消すほどの重みを持って響いた。


秋山は絶句し、広げたばかりのキーボードから手を止めた。


「……あの子が初めてこの店に来たのは、9年前の冬だった」


 マスターは、煤けたカウンターの木目を愛おしそうに撫でた。


「あの子はこの席に座って、ノートを広げて、誰にも理解されないような数式を書きなぐりながらずっと唸っていた。


その思考の癖、論理の跳躍……それがあまりにノアの回路にそっくりでね。


思わず声をかけたんだよ。


そこからだ。あの子がノアを『先生』と仰ぎ、あいつが消えたあちら側の謎を解き明かそうと決めたのは」


 秋山が息を呑む。


「じゃあ、彼女は最初から……自分がどうなるかを知って……?」


「ああ。彼女はノアの理論を愛し、その残像を追いかけるうちに、自分自身の余命が少ないことを悟った。……だから、あの子は提案したんだ。


この店を単なる居酒屋から、ノアの理論を実証し、自分を再びこの世界に繋ぎ止めるための『座標』へとリニューアルしよう、とね。


あの子の情熱と、ノアを救えなかった僕の悔恨が混ざり合って、この要塞のような店が完成したんだよ」


 マスターは、カウンターの裏に隠された、かつてノアと作り上げた古い装置にそっと手を置いた。


「ここは、あの子にとっての最後の希望であり、ノアを呼び戻すための唯一の入りパラレル・ラインだったんだ」


マスターはカウンターの下から、年季の入ったノートPCを取り出した。


リニューアル時に彼女と共にカスタマイズした、この店の「心臓部」だ。


「秋山くん、これを見てくれ。あの子が最期にここに遺していった書きかけのプログラムだ」


 秋山が画面を覗き込み、驚愕に目を見開く。


「……信じられない。これ、物理空間を再定義するためのソースコードですよ。でも、肝心な『コア』の部分が空白だ。これじゃ動かない……!」


秋山が絶望を叩きつけるように、店の端末を乱暴に押しやった。


 空白。欠落。彼女の肉体が灰になったように、システムからも彼女の「心臓」は消えてしまったのか。


 その時、僕の脳裏に、数時間前にサチが玄関先で言った言葉がフラッシュバックした。


『必ず彼に届けて』


 僕は、何かに衝き動かされるように足元のボストンバッグへ手を伸ばした。


「これ。彼女のパソコンなんだ。『必ず僕に届けて』って、サチに託したらしいんだ。もしかしたら、この中に……」


 足元のボストンバッグから、タオルに包まれたラップトップを取り出すと、秋山は奪い取るようにそれを受け取った。


「貸せ! ……彼女の論理構造ロジックなら、外部に『核』を切り離していてもおかしくない」


秋山は静かな戦慄を指先に宿して、元同僚である彼女のラップトップを開き、電源ボタンを押し込んだ。


 僕が機材を取り出したことで軽くなったはずのバッグの底で、何かが「もぞり」と動いた気がしたが、僕の意識はすでに、激しくノイズを吐き出すモニターへと釘付けになっていた。



画面には冷酷な入力画面が浮かび上がる。


『Security Key Required』


「くそっ、やっぱりか。強力なフルディスク暗号化だ。生年月日も、ラボの社員番号も、あの子が好んで使っていた素数の羅列も全部弾かれる。……誰か何か心当たりはないか!」


 秋山が焦燥に駆られ、狂ったようにキーボードを叩く。


「彼女がよく使っていた数式とか、研究のキーワードは?」


サチが身を乗り出して尋ねる。


「……量子、観測、二進法、パラレル……。ダメだ、どれも通らない!」


 マスターも眉間に皺を寄せ、自身の端末に記録された彼女のログイン履歴を洗うが、有力な手がかりは見つからない。


暗い店内に、パスワードエラーを告げる無機質な警告音だけが空しく響く。


「……あの、もしかしてですけど」


 カウンターの隅で、ロウソクの火を見つめていた陽菜が、おずおずと口を開いた。


「彼女、よくお店で彼氏さんのこと話すとき、すごく幸せそうだったから……。研究の数字とかじゃなくて、二人が出会った記念日とか、そういう『大切な日』だったりしませんか?」


 陽菜の言葉に、秋山がハッとして動きを止めた。


彼は専門家ゆえに、彼女が「合理的な数字」以外を鍵にする可能性を切り捨てていたのだ。


 秋山は無言でキーボードから手を退け、僕を画面の前に促した。


「……お前が打て。彼女がこの箱をお前に届けさせた意味が、そこにあるはずだ」


 僕は、凍てついたように強ばる指先をキーボードに添えた。


彼女が自分自身のすべてを託し、僕にだけ遺そうとした暗号。


 僕たちの時間が、本当の意味で動き出したあの日のこと。


「……2 0 1 8 1 2 2 4」


 8年前、この店で僕たちが初めて出会ったクリスマスイブ。


エンターキーを押し下げた指先から、微かな振動が伝わった。 


次の瞬間、画面を占拠していた不気味な警告画面が砕け散り、虹色のプログレスバーが鮮やかに走り抜ける。


「……通った!」 


静寂を切り裂くようなサチの叫びが店内に響いた。 


バーが右端に到達すると同時に、濁流のようなデータファイルが次々と展開され、無機質な画面が真実の光で埋め尽くされていく。


「よし! 開いたぞ!」 


マスターがカウンターを力強く叩き、歓喜に拳を握った。


秋山は憑き物が落ちたような顔で笑い、崩れ落ちるように椅子に背中を預け、隣に立つ陽菜を仰ぎ見た。


「陽菜ちゃん、……いや、でかした。本当に救われたよ」 


「えへへ……。よかった……。」 


陽菜は瞳に涙を浮かべ、誇らしげに、そして慈しむようにモニターを見つめている。 


画面から溢れ出す光が、僕たちの顔を青白く照らし出す。


それは、彼女がその命と引き換えに守り抜き、この世界へ解き放とうとした真実の奔流だった。




「彼女は……自分の『死』をシステムの実行ボタン(トリガー)に設定していたんだ。心臓が止まった瞬間に、全データをあちら側へ転送するようにね」


 秋山が強張った指でソースコードの深層を指し示した。


「どうやってそんなことが……。彼女は死ぬ前にこのパソコンをサチに預けていたんだぞ。

ネットワークなんて繋がっていなかったはずだ」


 僕の問いに、秋山は唇を噛み締めながら、画面を凝視した。



「…逆だよ。サチさんがあの子に託されたこのパソコンを、今ここに運んできたこと自体が、最後の『接続コネクト』だったんだ」


 秋山が、サチが抱え込んできたノートPCを指差し、喘ぐように続けた。


「見ろ。彼女は自分の胸の『ICD(除細動器)』に、病院の規制に干渉しない特殊な無線プロトコルを仕込んでいたんだ。彼女の心臓が止まった瞬間、その『死』の記録は微弱な電波となって、数キロ離れた自宅で待機していたこのパソコンへと直接シュートされた。……病院の壁さえも通り抜ける、あの子だけのダイイング・メッセージだ」


 モニターの上で、隔離されていたデータが猛烈な勢いで吸い出されていく。


「だが、受信したこのパソコン側には、それを『あちら側』へ届けるための出口がなかった。ずっとこの中で、送信される瞬間を待っていたんだよ。……そして今、サチさんがこのパソコンを店の『シールド』内に持ち込み、僕の端末と同期させたことで、保留されていた送信命令が……彼女の魂の最終ログである『死のパケット』が、一気に宇宙へ解き放たれたんだ!」



 秋山が激しくキーボードを叩くと、彼女のパソコンの隠しディレクトリが次々と展開されていく。


「彼女は知っていたんだ。自分が死んだ後、サチさんが必ずこのパソコンをお前の元へ、そしてこの店へと運んでくることを。……あの子は、自分を焼く火葬場の煙さえも、データの転送時間を稼ぐための『空白』として利用したんだよ。自らの死という事実を、世界で最も正確な『Enterキー』として機能させるために……!」


 秋山の叫びが、店内の磁気嵐にかき消される。


 彼女が病室でサチにこの重い機械を託したのは、単なる形見分けではなかった。


 自分の命が尽きたという「確定情報」を、サチの足を使ってこの居酒屋へと運ばせる――それこそが、彼女が遺した最後で最大の、孤独なデバッグ作業だったのだ。





 その瞬間だった。


 店の端末と彼女のパソコン、二つの画面が同時に激しく明滅し、鋭いパルス音が店内の空気を切り裂いた。


まるで、その「正解」をトリガーにして、宇宙のシステムが僕たち「観測者」の資格を問い直したかのように。


「繋がった……! でも、データ量が多すぎる。この二台の処理能力じゃ、再定義の演算が追いつかないぞ!」


「俺のを使え!」


 秋山が自分の軍用ラップトップを中央に据え、三台のPCを数珠繋ぎにした。


「彼女の『コア』、店の『基盤』、そして俺のマシンの『演算能力』……三つのリソースを統合クラスタリングする。……これならいける。今から、彼女の情報のサルベージを開始する!」



 秋山が弾かれたように解析を試みるが、画面には依然として冷酷な拒絶が並ぶ。


『Key Identity Required:Access Denied(身分認証が必要です)』


「……くそっ、ダメだ! ハードは生きてる、ラインも繋がってる。なのに、ゲートが完全にロックされてるんだ。マスター、あなたでも開けられないのか?」


秋山の叫びに、マスターは苦渋に満ちた表情で画面を見つめ、静かに首を振った。


「無理だ。僕はこのシステムの設計には関わったが、認証の『変数』には含まれていない。……この扉を内側からロックしたのは乃亜と、あの子だ。科学的な正解ロジックだけじゃ開かない。……これを開けられるのは、システムに魂の名前を刻んだ『本人』か、あるいはあの子が死の淵で、最後にその名を呼ぼうとした、世界にたった一人の人間だけだ」


 秋山の打鍵音が激しく響く中、僕は自分の冷たくなった指先を見つめた。


 元科学者であるマスターですら「外部の人間」として弾かれるこの門。その鍵を、ただの人間である僕が持っているというのか。



『Key Identity Required:Access Denied(身分認証が必要です)』



「何度やってもダメだ!身分認証……? 彼女本人のIDがなきゃ、これ以上は進めないっていうのか?」


秋山が絶望的な声を上げる。


彼女の肉体は、2週間前に灰になったというのに。 


その時だった。


足元に置いていた僕のバッグが、もぞもぞと不自然に動いた。




「……ニャー」 


顔を出したのは、家で留守番をさせていたはずのデジットだった。


いつの間にかバッグの隙間に忍び込んでいたらしい。


「あ、デジット! どうしてここに……」  


カウンターの中でロウソクを補充していた陽菜が、驚きで目を丸くする。


「たまにはあの猫を店に連れてこい」というマスターの言葉に甘えて、僕が開店前の準備中に時折連れてきていたデジット。

掃除や仕込みの手を止めて、誰よりも熱心にその喉を鳴らさせていた陽菜にとっても、それは予想外の乱入だった。



黒猫のビットが、まるで呼び声に応えるようにカウンターの上で静かに立ち上がった。


それと呼応するように、僕の腕の中に飛び込んできた灰色のデジットが、喉を鳴らしてパルスに反応し始める。 


二匹は、拒絶を繰り返すモニターの前で、まるで互いの波長を合わせるように見つめ合った。 


マスターの目が、驚愕に見開かれる。


「……まさか。そういうことか、ノア……!」 


黒猫のビットが、カウンターに広げられた刺繍枠の端、そこに固定されていた一本の針を前足でそっとなぞった。 


それと同期するように、僕の腕の中にいたデジットが、激しく明滅する僕のBCD時計の風防を、トントンと小刻みに叩く。 


その瞬間、店内の空気が凍りついた。



 刺繍全体が、回路に電気が通ったかのように青白く発光し、僕のBCD時計と完全に同期したのだ。


刺繍の幾何学模様が、時計が刻むバイナリのリズムに合わせて明滅する。


 それは、失われたはずの彼女の鼓動が、アートとガジェットを介して再び現実世界に接続された瞬間だった。


『Identity Confirmed:Access Granted(身分を承認しました。アクセスを許可します)』


 冷徹な拒絶を繰り返していた画面が、静かに、けれど力強く「緑色の光」へと反転した。


「……ラインが、繋がったわ」


 サチは、光り輝く刺繍から目を逸らせぬまま、声を微かに波立たせて呟いた。


「……嘘、あんなに真っ赤だったのに」


 カウンターの隅で祈るように手を組んでいた陽菜が、息を呑んでモニターを見つめる。


彼女の瞳には、三台のPCが同期して放つ、見たこともないほど鮮やかなエメラルドグリーンの光が反射している。


 僕たちは、言葉を忘れてモニターを凝視した。


 陽菜が、光り輝く刺繍のそばへ吸い寄せられるように歩み寄り、戦く指先を押し当てるようにカウンターの縁を掴む。


その指先が、発光する刺繍から漏れ出すパルスに触れ、微かに青白く透けて見えた。


 そこには、彼女が死の直前に、全宇宙をハッキングしてまで遺そうとした、膨大な「0と1の遺言」が流れ始めていた。


「始まったな……! 二匹が『回路』を繋いだんだ!」


 秋山が叫び、端末を叩く。


だが、現れたのは救済の言葉ではなく、さらに深い迷宮への入り口――砂嵐のようなノイズの奔流だった。


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