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葬列のパケット



 世界が反転したのは、その日の昼下がりのことだった。


 秋山からのメッセージは、あまりに無機質な記号として僕の網膜に飛び込んできた。


『彼女が死んだ。先週のことだ。葬儀は今日、午後からだ』


 理解が、物理的な衝撃となって脳を殴った。

 指先が震え、持っていたカップが床に落ちて砕ける。熱いコーヒーが足元に広がるが、熱さすら感じない。


「死んだ……? 誰が。あの子が?」


 喉の奥から、ひび割れた声が漏れる。


 死因は、ある種の進行性細胞崩壊……原因不明の難病だったという。


 あの日、居酒屋『パラレル・ライン』で僕を突き放した、あの冷たい言葉。


『もうあなたを観測する必要がなくなったの』


 まさかあの言葉は、僕を嫌いになったからではなく、自分が消えていく現実を悟り、僕をその絶望から遠ざけるために……まさかな、そんなわけ…

仮にそうなら、あまりに不器用で、あまりに残酷な愛だ。


いずれにしても、彼女がもうこの世界にいない事実にかわりはない。


 僕は誰もいない部屋で、膝をつき、獣のような声を上げて泣いた。なぜ気づかなかった。

なぜあの不自然な別れを信じて、彼女の手を離してしまった。


愛していると、まだこんなにも愛していると言葉にできないまま、彼女は一人で「無」へと向かってしまったというのか。


僕は、自分の無力さと、取り返しのつかない過去の選択を呪い、喉が枯れるまで叫び続けた。




斎場を包む空気は、死の冷たさに満ちていた。


 一月半ばの鉛色の空からは、雪になりきれない冷たい雨が静かに降り注いでいる。

どこまでも無機質な、ありふれた冬の午後だった。


「……来てくれたのね」


 受付で記帳を済ませた僕に、一番に声をかけてくれたのはサチだった。


中学時代からの親友として誰より近くで亡くなったあの彼女を支えてきたはずのその瞳は、見たことがないほど真っ赤に腫れ、喪服の黒が彼女の白すぎる肌を痛々しく際立たせている。


 サチの隣には、秋山が立っていた。彼女の職場のバーベキューで何度か顔を合わせ、同い年ということもあって親しくなった男だ。

いつもは論理の鎧を纏っている彼も、今は言葉を失い、自分の腕時計の秒針を無意味に追い続けていた。


「皮肉なもんだな。解析しきれないバグなんて、この世には存在しないと思ってたのに」


 秋山が自嘲気味に呟く。


僕たちは彼女を通じて知り合った仲だが、今日、ここで交わす言葉はあまりに無力だった。



少し離れた場所には、マスターがいた。

 僕と彼女の行きつけであり、二人が出会った場所でもある、あの店のあるじだ。

いつも店で纏っている白衣のような清潔なエプロンを脱ぎ、窮屈そうな黒いスーツに身を包んだ彼は、まるで見えない重圧に耐えるかのように、静かに焼香の列を見つめていた。

その横顔は、この数日だけで一気に数年分の歳月を重ねてしまったかのように、深く、静かな疲労を湛えている。



 祭壇の脇では、陽菜が必死に涙をこらえながら、彼女のご両親を支えていた。

 マスターの店でアルバイトをしている21歳の大学生。

長野の実家であるペンションで培った持ち前の明るさと、細やかな気遣い。


亡くなった彼女からも実の妹のように可愛がられていた陽菜は、今はその優しさを「家族の盾」にするために、慣れない弔事の中で一人、甲斐甲斐しく立ち回っていた。


 陽菜に促されるまま、僕はご両親の前へ進み出た。


「……星野さんの、ご両親です。こちら、星野さんがよくお店で話していた……大切な、お友達の……」


 陽菜は僕の名前を出すのを、あえて躊躇ったようだった。


 21歳の彼女なりに、7年という月日を共に歩み、そして一年前に別の道を選んだ僕たちの不確かな関係を、この場でどう定義すべきか迷ったのだろう。


 康弘さんがゆっくりと顔を上げた。その瞳には僕を責める色はなく、ただ底知れない悲しみが濁っていた。


「ああ……娘から聞いていました。あなたが、あの子が言っていた……。あの子、実家に帰るたびに楽しそうに話していたんですよ。7年ほど前になりますか。最近、すごく気の合う人と出会ったんだって。研究の話をしている時より、あなたの話をしている時のあの子が、一番……普通の女の子に戻っていました」


 恵子さんがハンカチで口元を押さえ、小さく嗚咽を漏らした。

僕は自分の名前を名乗ることさえできなかった。

彼女が家族に語っていた「僕」という像が、あまりに眩しく、今の自分にはあまりに重すぎたからだ。


 僕は震える足で棺へと歩み寄り、花の中に横たわる彼女と対面した。



棺の中で横たわる彼女の顔は、投薬の影響なのだろう、マシュマロのように不自然に膨らみ、かつての鋭い知性を宿した面影は、ぼんやりとした輪郭に書き換えられていた。


 僕は指先で彼女の白い額に触れた。


「……ごめんね。ごめん……」


 指先が沈み込むような、奇妙な柔らかさ。けれどそこには、血の通った人間の弾力はなく、冷たく、静止した物質の感触しかなかった。


秋山も、サチも、誰もが「終わったこと」として頭を垂れている。

 けれど、僕の中の「愛」というパルスだけが、この現実をエラーとして拒絶し続けていた



僕はまだ、こんなにも君を想っている。この想いは、行き先を失ってどこへ消えればいいんだ。




。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


〜Dream〜


 その夜。

 彼女の額の冷たさを手に残したまま泥のように眠った僕は、また「あの場所」にいた。





 居酒屋『パラレル・ライン』。


 琥珀色のグラスを弄ぶ、生きた彼女。石鹸の匂い。少しだけ癖のある指先。


 昨夜と全く同じシーン。デジャブのように繰り返される、初対面のふりをした会話。


「あら……どうしたの? そんなに悲しい顔をして」


 彼女がバッグからハンカチを取り出し、僕の頬を拭う。


 昼間、火葬場の煙の中に消えていったはずの彼女が、ここでは確かに呼吸をし、瑞々しい肌の色を湛えて僕を見つめている。


 触れたい。抱きしめたい。


 この温もりこそが真実だと、宇宙の全データを使って叫びたい。


 けれど、夢の中の彼女は、僕を知らない。

ただ、困ったように、けれどどこか愛おしそうに微笑むだけだ。


「……行かないで。どこにも行かないでくれ」


 僕が彼女の細い手首を掴むと、彼女の唇が微かに震えたように見えた。


「……あなたは、優しいのね」


 彼女が僕を慈しむように呟いた気がした。



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



 目が覚めればそこには冬の凍てつく暗闇と、猫のデジットの規則正しい寝息しかない。


 それからというもの、僕は毎夜、同じ夢を見るようになった。


 居酒屋の暖簾をくぐれば、必ず彼女が隣に座っている。

 現実では彼女の遺品を整理し、彼女の死という「絶対的な0」を悼む日々。


 夢の中では彼女と語らい、触れ合うことさえ叶いそうな「未確定の1」を追い求める日々。


 僕は、現実の死を生きているのか、夢の生を生きているのか。


 その境界線は、少しずつ、けれど確実に溶け始めていた。


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