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0の微睡み(まどろみ)




 ビールの泡が弾ける小さな音だけが、やけに鮮明に聞こえていた。


 店内の喧騒はどこか遠く、まるで深い水底で騒ぎを聞いているような心地がする。居酒屋『パラレル・ライン』。カウンターの隣の席。そこに座る彼女の肩が触れそうなほど近くにある。懐かしい石鹸の匂い。少しだけ癖のある細い指先。その指が、琥珀色のグラスを静かに弄んでいる。


 心臓が、喉から飛び出しそうになる。ありえない。僕たちはもう、一年以上も前に別れたはずだ。僕はたまらず声をかけた。けれど、彼女がこちらを振り向いた瞬間、僕の全身は凍りついた。


「……あ、すみません。何か付いてました?」


 彼女の瞳には、見慣れた柔らかな光が宿っていた。けれどそこには、僕を映す「記憶」の色彩だけが、一滴も混じっていない。かつて数え切れないほどの夜を分かち合った唇からこぼれたのは、見ず知らずの他人に向けた、あまりに丁寧で、あまりに冷ややかな微笑だった。


 彼女は、僕を知らない。


「いえ……。あまりに美味しそうに飲むから、つい。僕はその酒、苦手なんですよ。苦すぎて」


 咄嗟に嘘をついた。すると彼女は「あら」と喉を鳴らして笑った。


「面白い人。これは苦いんじゃなくて、深いのよ。飲んでみる?」


 そう言って差し出されたグラス。指先が触れた瞬間、微かな静電気のような刺激が走った。


僕たちはそのまま、導かれるように言葉を交わし始めた。


「あなた、仕事は何をしてるの?」


「……システムエンジニアです。0と1の海で溺れるような、地味な仕事ですよ」


「素敵じゃない。世界を記述する最小単位を扱っているのね。私は、そうね……。失くしてしまったものを、もう一度計算し直すような仕事をしてるわ」


会話の合間、彼女はふと、聴き慣れない、けれどどこか懐かしい旋律を小さく口ずさんだ。


 ハミングに近い、微かな鼻歌。

彼女は結露で濡れたカウンターを指先でなぞりながら、そのリズムに合わせて文字を置いていく。

 一、一、〇、一、〇……。


 会話が弾むほどに、僕の胸には鋭い痛みがせり上がってくる。

 呼吸のタイミング、笑う時に少しだけ細められる右目、グラスを持つ指の角度。そのすべてが僕の記憶と完璧に一致している。それなのに、彼女の瞳には僕の存在が「1」としても記録されていない。

 

 ――僕だよ。本当にわからないの?

 

 心の中で、張り裂けんばかりに叫んでいた。一緒に通った公園のこと、明け方まで語り明かしたあの部屋のこと、二人で名付けた猫のこと。思い出してほしい。その瞳に、僕という光をもう一度灯してほしい。

 あまりの切なさに、熱いものが視界を歪ませ、一筋の涙が頬を伝った。


「あら……どうしたの? そんなに悲しい顔をして」


 彼女は驚いたように目を見開くと、バッグから柔らかなリネンのハンカチを取り出し、僕の頬を優しく拭った。その手つきも、記憶にある彼女そのものだった。


「ごめんなさい、つい。……なんだか、昔から知っている人に会ったような気がして」


 拭う彼女の指先が、微かに震えていることに僕は気づいた。本当に憶えていないのか。別人なのか。いや、そんなはずはない。職業も、趣味も、その震える唇さえも、僕が愛した彼女だ。


 そうだ、名前だ。名前さえ分かれば。


「あの、名前を。名前を教えてください!」


 食い入るように問う僕に、彼女は少しだけ困ったように、けれど慈しむような慈愛を込めて微笑んだ。


「いまは、その時じゃないから……。」


「……そうですよね。初対面の男にいきなり名前なんて、失礼しました」

 

 僕は力なく笑った。そうだよね、と自分に言い聞かせる。でも、その拒絶さえもどこか優しくて、余計に孤独が深まった。


 ああ、そうか。不意に、何の根拠もなく理解してしまった。

 君は一度死んで、生まれ変わったんだ。

 だから僕のことも、あの夜のことも、憶えていない。そうだよな、生まれ変わったのなら、仕方ないよな。


 そんな荒唐無稽な納得感に身を委ねているうちに、気づけば僕たちは店の外に立っていた。冬の夜気は鋭く、吐き出す息は白く滲む。


「楽しかったわ。なんだか、ずっと言いたかったことを全部話せた気がする」


 街灯のオレンジ色の光が、彼女の横顔を照らし出す。


「……また、会えるでしょうか」


 僕の問いに、彼女は小さく頷いた。


「ええ。きっと。」


 別れ際、どちらからともなく、ごく自然に顔が近づいた。

かつて、僕たちが「じゃあね、またね」という挨拶を交わす時、必ず交わしていた小さなキスの習慣。

肉体が、細胞が、その距離感を記憶していた。


唇が触れ合う直前、彼女がハッとしたように目を丸くし、僕もまた、自分の身勝手な本能に気づいて慌てて身を引いた。


「……ごめんなさい、つい」 


「……いえ。僕の方こそ」


 彼女は少し顔を赤らめ、はにかむように微笑んで背を向けた。


「じゃあね。さよなら」


 その背中を見送りながら、僕はどうしようもない孤独に襲われた。彼女は「さよなら」と言った。かつての僕たちにはなかった言葉。遠ざかる背中が、雪のノイズの中に消えていくのを見つめながら、僕はただ、立ち尽くしていた。



。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




「――ニャー」


短い鳴き声と、胸元にかかる柔らかな重みで目が覚めた。

灰色の猫、デジットが僕の顔を覗き込んでいる。

頬には、夢の続きのような冷たい湿り気が残っていた。


 彼女がいなくなったあの日から、この部屋の空気は淀んだまま一歩も動かず、ただ深い泥のような眠りと、目覚めるたびに突きつけられる「不在」だけが繰り返されている。



 彼女の夢を見るのは久々だった。

あの日、あんなにひどい嘘で僕を突き放した彼女。


 ……どうしているかな。



窓の外には、いつもと変わらない無機質な街の灯りが広がっている。

けれど、その見慣れた夜景の中に、僕はどこか「世界の綻び」のような得体の知れない静寂を感じていた。


 僕はただ、消えゆく夢の余韻を、手のひらからこぼれ落ちる砂を掬うように、何度も、何度も反芻していた。



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