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プロローグ 観測の始まり



 都会の喧騒が嘘のように遠のいた、ひどく静かな夜だった。


 30年前。


開店準備を進める東京の片隅にある居酒屋『パラレル・ライン』の薄暗いカウンターで、佐伯慎一郎さえき しんいちろうは、かつて共に研究に明け暮れた親友、秋月乃亜あきづき のあが持ち込んだ「ある物」を前に、言葉を失っていた。


「乃亜、本当にやるのか? あそこに行けば、二度と元の場所には戻れないんだぞ」


 佐伯は低い声で、親友の無謀を諌めるように言った。カウンターに置かれた「それ」は、ただ静かにそこにあり、窓の外では街灯に照らされたアスファルトが冷たく光っていた。


 乃亜は不敵に笑って、佐伯の肩を強く叩いた。


「場所の話じゃないんだ、佐伯。俺はただ、世界の記述の『向こう側』へ行くだけさ。誰も俺を知らない、ずっと遠い場所までな。……いつか、誰かが俺を見つけてくれるその日まで」


 乃亜は佐伯の瞳を真っ直ぐに見据え、共同研究者として、そして相棒として何かを託すように続けた。


「この店を、俺たちの『座標』にしろ。俺が迷わず帰ってこられるように、お前がここを守ってくれ。観測を止めるな。お前にしか頼めないんだ」


 その数分後、乃亜は店から姿を消した。


 一人の天才物理学者の失踪。


警察の捜査も虚しく、目撃証言一つ得られないまま、彼はこの世界から忽然と消え去った。


 後に残されたのは、不規則にノイズを繰り返す古い通信機と、解読不能な数式が記された紺色の芳名帳。


 そして、親友との約束を抱えたまま、この場所で酒を出し続けることを誓った男――

佐伯慎一郎という名のマスターだけだった。


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