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シュレーディンガーの居酒屋 〜観測が世界線を書き換える〜  作者: アイアイ
イマジナリー・ラインの観測
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21話 観測のエラー、薬指の固有時



1、多色の狂騒


 それは、零たちが境界の彼方へと身を投じ、神崎壱誠かんざき いっせいの腕でバイナリ時計のbitがひとつ、静かに繰り上がる頃のことだった。


 現実世界の硬い地表に、再びあの漆黒の直方体――『モノリス』が、音もなくその不気味な質量を現した。


 世界のコードに生じた物理エラーは、単なる物質の破壊などではなく、この世界を世界たらしめている「情報」そのものの完全な融解となって、冷たく現世の肌を浸食していく。


 出現したその瞬間から、周囲の実数データが次々とその固有の意味を失っていった。


 街頭の信号機は赤・青・黄のすべてを同時に点灯させたまま凍りつき、電光掲示板には意味を剥ぎ取られた「0」と「1」のバイナリコードが、まるで血を流すように激しく奔り出す。


 世界中の時計という時計が、まるでそれぞれ異なる宇宙を観測しているかのように不揃いな時刻を示し始め、人々の携帯端末に表示された銀行口座の数字は、一斉に「NaN(非数・未定義)」という冷酷なエラー文字へと書き換わっていった。


 空間の物理法則もまた、その確かな「定義」を失っていく。


 浮き上がったゴミや、路上に放置された車両が、上下の感覚を失ったように宙で静止する。


 しかし、それは何か見えない大きな法則に拘束されているかのように、人や建物へ衝突することはなく、不自然なほど静かな軌道を描いてただ漂い続けていた。


 端末のGPSは全世界で現在地を「未定義」と表示し、空間の座標そのものが泥のように融け始めていることを示している。


 実数宇宙の磁場が引き裂かれた証拠である、歪な紫色の光の亀裂が、極夜の空に幾筋も走り、東京の夜を不気味に照らし出していた。


 それは社会全体を極度の混乱へ陥れるには十分だったが不思議なほど、物理的な死傷者はただの一人も出ていなかった。






 居酒屋『パラレル・ライン』の、煤けた1階フロア。


 突然、カウンターの奥に置かれた電子レンジや冷蔵庫のインジケーターが、見たこともない速度で「0」と「1」を明滅させ、店内のあらゆる既存家電が、命を落とすように次々と機能停止していく。


「何事だ……!?」


一斉に電子の悲鳴を上げる店内の計器に、マスターが低く鋭い声を上げた。


 その直後、窓の外の異様な夜空の光に気づいた陽菜が、ガラスに顔を寄せて叫んだ。


「ちょっと、あれってモノリスじゃないですか!?」


「動かないで! 全員そのまま!」


 神崎壱誠の声が、鋭く、けれど冷静に店内に響き渡った。


 壱は乱高下する店内の異変を一瞥し、秋山、律、そしてマスターと陽菜を、射抜くような強い視線で見据える。


「世界システムが過剰反応している。ビット、状況を報告してくれないか」


『了解、壱様。零様たちが跳躍し、スカラー領域の干渉を受けたことで、入口であるカーネル領域に境界の歪みが発生。モノリスは、世界システムがその急激なバグを補正するために出現したと推測されます。――もっとも、それを知らないこの世界の住民はそうは思わないでしょう』



 ビットの言う通り、案の定、世界はまたしても急速に混沌の底へと叩き落とされていた。


 同じ一つのモノリス、同じ一つの怪奇現象を見ているはずなのに、人間というあまりにも不確かな観測者たちは、世界中で都合の良い解釈を始め、全員が違う物語を勝手に語り始める。



世界中の通信網には救助要請や悲鳴が溢れ、SNSは数分で機能を失い、これは地球の自浄作用であり破滅のカウントダウンだと怯える「災害派」。


 ついに偉大なる意思が我らの前に姿を現したと狂喜乱舞する「モノリス崇拝派カルト」。


 大国による情報空間兵器やサイバー実験だとネット上で騒ぎ立てる「陰謀論派」。


 政府は傷口を広げるパニックを力ずくで隠蔽し、戒厳令を敷いてでも事態を統制しようと躍起になっている。


 意味のない物語が交錯し、世界中が勝手な解釈を始める喧騒のなか、特にモノリス崇拝派の反応は狂気的な熱を帯びていた。


 彼らはこの物理エラーの発生を「神の意思」と呼び、北の研究所に眠る秋月乃亜の肉体へ、さらなる狂信的なエネルギーを注ぎ込もうと、不穏な動きを加速させていく。




「観測」の歪みが現世の人間を狂わせるなか、その混乱を孕む世界のさらに奥底――あの闇の世界、不帰の城、黒の最奥に潜む異形のそれもまた、現世の不揃いなノイズを敏感に感じ取っていた。


 愛しい残響を、現世のバグのなかに探すように、狂おしく蠢きながら……




「これ以上の猶予はない。カルトの動きが本格化する前に、現世の混乱を突いて一気にノア先生の肉体を奪還する」


 壱が毅然と言い放ち、視線を交わした秋山たちに鋭く指示を出す。


「秋山、律くん、マスター、陽菜。これ以上の混乱に巻き込まれ、交通網や通信網が完全に窒息する前にカタをつけよう。準備はいいか」


 秋山が静かに顎を引いて頷き、律はビットが開発した小型特殊端末の画面を握り直す。


 既存の通信網が全滅するなか、モノリスの影響を全く受けずに駆動するのは、ビットのテクノロジーを搭載したバイナリ時計と青く光るその端末だけだった。



 マスターは必要な装備を無造作に引っ掴み、陽菜は自らの細い指先に、いつでも引き出せる白い霊力を陽炎のように纏わせ、静かに息を整えた。


 誰もが覚悟を決めて、自らの武器を固く構えていた。


「よし。――ビット、全員を北の研究所へ送ってくれ」


 壱の迷いのない命令を受け、端末の画面から、ビットの凛とした電子の声が響いた。


『了解いたしました。――では、送ります』


 ビットが固有の転移能力を発動した瞬間、パラレル・ラインの端末に投影されていた彼女のホログラムが、サラサラと音を立てるようにして、淡い青白い粒子になり分散した。


 その粒子の半分は、壱誠の管制とバックアップを維持するためにこの場に残り、もう半分が、現実世界の物理的な距離を完全に無視して、強烈な光となって4人の身体を優しく包み込んでいく。


「みんなは余計なことを考えず、着地した瞬間に目の前の標的に集中してくれ。よろしくたのむ!」


 壱の力強い声が彼らの背中を押し、情報のエラーが網膜を白く染め上げる。


 光の奔流が収まったとき、使い古された木製のカウンターの前には、もう4人の姿はなかった。


 彼らはビットの能力によって、歪む実数空間を鮮やかに飛び越え、北の研究所付近の座標へと、転移していった。








2、一ヶ月の断絶


 一方、境界の彼方――スカラー領域の狭間に広がる異世界、翠松町すいしょうまちへと降り立った、零、亜依、サチ、デジット、レイイチ。

 

 歪む光の裂け目から零れ落ちるようにして、硬いアスファルトに足を進めた瞬間、彼らを迎えたのは、現世の日本と何一つ変わらない、どこまでも穏やかで、残酷なほどに美しい日常の風景だった。


 見上げる空は、吸い込まれそうなほどに深く、青い。


 そこから降り注ぐ陽光は初夏のそれのように瑞々しく、周囲の景色をきらきらと眩しく照らし出している。


 すぐ近くにあるはずの海から吹き付ける風が、潮の香りを乗せて心地よく彼らの肌を撫で、遠くからは、名前も知らぬ鳥たちのさえずりがのどかに響いていた。


 あまりの平穏さに、ここが本当に命を賭して跳躍した未知の領域なのかと、誰もが時間の感覚を失いそうになる。


「みんな、無事?」


 零が周囲の景色へ鋭い視線を走らせながらも、真っ先にサチの細い腕を引き寄せ、包み込むような声音で問いかけた。


 レイイチは、衣服に付いた目に見えない次元の塵を軽く払い、いつもの穏やかな微笑みをたたえる。


「僕は無事だよ」


 そのひだまりのような声に、一同の張り詰めていた肩の力がわずかに抜けた。


 しかし、その安堵は、手首のバイナリ時計が無機質な文字盤を閃かせた瞬間に霧散することとなる。


 亜依が自らの手首に視線を落とす。


 文字盤のドットは、現世の壱誠との同調を細い糸のように保ちながら、この異界の固有時ローカルタイムを瞬時に逆算し、光を明滅させていた。


 だが、そこに表示されたコードを読み解いた瞬間、亜依の端正な横顔が凍りついた。


「……違う。計算が狂ってる」


「どういうこと、亜依」


 零がその横顔を覗き込む。


亜依は厳しい表情を崩さぬまま、冷たい光を放つ文字盤を一同へと向けた。


「私たちがジャンプしたのは、3年前(36ヶ月前)じゃない。正確には『2年11ヶ月前』。――目的の時代より、ちょうど一カ月遅れて到着してる」


「一カ月の遅延だと……!?」


 デジットの瞳が、驚愕と同時に独自の論理演算を開始し、鋭く、怜悧な灰色へと変色していく。


 快晴の空の下、あまりにも不条理な数字がただ静かに明滅していた。


 高次元の跳躍において、一ヶ月という座標のズレは致命的な意味を持つ。


その空白のひと月の間に、秋月乃亜の身に何が起きたかによって、彼らが携えてきた作戦の前提はすべて覆りかねないからだ。


「すぐにノア先生の居場所を特定する」


 亜依が精神を集中させ、特異点としての超越的な視界を翠松町全体へと広げようとした。


いつもなら、彼女の意思一つで標的の存在確率は収束し、ピンポイントの座標が脳裏に浮かび上がるはずだった。


 しかし、数秒後、亜依は苦しげに美しい眉を寄せ、片手を額に当てた。


「だめ……ピンポイントで探せない。何かしらの強力な隠蔽が街全体を覆ってる。ノイズが多すぎて、視界に霧が立ち込めるみたいに……」


 本来、このスカラー領域では、他宇宙の存在――つまりカーネル領域の出身である零やデジット、レイイチたちは、世界システムからの強烈なデバフによって、その能力を急激に減衰させられるはずだった。


 ただ、この宇宙のルールに縛られない『特異点』である亜依だけは、どんな領域の檻であっても影響を受けないだろうというのが、出発前の壱誠たちの見込みだった。



 しかし、現実の境界は違った。



 特異点であるはずの亜依の『観測』すらも、薄い陽炎のような不気味なノイズが遮っている。


 陽光が降り注ぐ美しい街並みのなかで、何かが決定的に狂っている。


 だが、この時の彼らはまだ知る由もなかった。


それが単にスカラー領域の環境によるデバフのせいだけではないということを。






 ――少し、時間を遡る。


 それは、跳躍空間の白い狂気のなかで弾き飛ばされ、サチが何者かの手によって元の航路へ引き戻された直後。


まだ次元通路の出口、翠松町の入口にたどり着く寸前の、狭間での出来事だった。



「貴様…何と契約した?」



 異能の解析を発動させ、瞳を底冷えする灰色に染めたデジットが、怒りとも恐怖ともつかない、複雑な色をその魂に浮かべながら言った。


その鋭い眼差しは、眼鏡の奥にあるサチの瞳、そして彼女の魂の表面にこびりついた「異質なルール(契約の痕跡)」を冷徹に見透かしている。


 サチはすぐには答えない。


ただ、胸元に下げた愛用のデジカメを、まるで壊れやすい宝物を守るように、小さな両手でそっと握りしめるだけだった。



「おい」



 デジットが逃げ道を塞ぐようにさらに一歩、冷たい圧迫感をもって詰め寄る。


 サチは眼鏡のブリッジを小さく指で押し上げ、その威圧感に気圧されるようにして、ぽつりと、掠れた声を漏らした。



「少年…何者かはわからない」



「少年だと…?」  



 デジットの眉間が、より一層深く、険しく刻まれる。


サチはデジカメを握る手にいっそ祈るような力を込めながら、言葉を紡いだ。



「あの、白い場所で出会って……そこから出してくれたの」



 デジットは腕を組み、自らのなかに眠る論理回路と、あらゆる宇宙の知識を高速で走らせた。


サチに宿る淡い気配と、その言葉の整合性を精査していく。



「なんだ、そういうことか」



 不意に、フッと静かに鼻から息を吐き、デジットの顔から刺々しい険しさが消えていく。


それと同時に、彼の瞳もまた、灰色の輝きから元の深い青色へと、凪ぐように戻っていった。



「そいつはおそらく、次元の狭間に棲む精神体だ。お前の心の隙間を覗いて、お前に最も認識されやすい姿で現れたのだろう」



「じゃあ……彼も、あなたと同じ神獣なの?」



 サチが恐る恐る訊ねると、デジットは心底心外だというように、フンと鼻で笑い飛ばした。


その仕草にはどこか人間じみた諦念が混じっている。



「我が方と一緒にするな。お前らの言葉で言えば、妖精か精霊の類だ。神ほど強くはないが、人間の理屈だけで測れる存在でもない」



「彼、妖精なんだ…」



 サチは、あの真っ白な空間で悪戯っぽく微笑んでいた、白銀の髪の少年の姿を思い浮かべる。


記憶のなかの彼は、まるでガラス細工のように儚く、美しかった。 



「お前と同調しているようだな。ということは借力が可能か」



「しゃくりき?……って何?」



 聞き慣れない言葉に、サチは小さく小首を傾げた。



「お前らの世界で分かりやすいのは…加護だな。守護や特別な恩恵を与えられている状態だ」



「え?本当?どんな力?どうやって使うの?」 



 サチの瞳に、ほんの少しだけ期待の灯火が宿る。


もし自分にもみんなを助ける力が使えるのなら、という、それはあまりにも純粋な願いだった。


 しかし、デジットは冷淡に視線を逸らした。



「知らん。そもそも、そいつが何処の宇宙そらから来たかにもよる。我たちのように別宇宙から来たのであれば、エレメンタル程度ではその力も大して発揮できぬだろう」



「ふーん、そうなんだ……」



 小さな期待はあっけなく外れ、サチは少しだけ肩を落とした。


デジットはその細く鋭い指先をサチの鼻先に向け、釘を刺すように低い声で警告する。



「とにかく、今後は異界で勝手に契約はするな。やばい相手なら面倒なことになるからな」



「……」



 サチはそれには答えず、ただ静かに視線を落とした。


けれど、胸の奥の深いところで、あの少年がまた楽しそうにクスクスと笑ったような気がして、デジカメの冷たいボディをそっと指先で撫でた。






 ――場面は再び、翠松町。陽光の降り注ぐ全員の合流地点へと戻る。


 なぜ予定の座標から一カ月もずれてしまったのか。


ここでどれだけ言葉を重ねても、埒は明かない。


原因の本格的な解析は、現世のビットに委ねるしかなかった。


 ジジジッと低い駆動音と共に、手首のバイナリ時計のランプが青く点灯する。


不安定な時空の壁を越え、現世の『パラレル・ライン』にいる壱誠との音声通信がようやく開通し、文字盤にノイズ混じりのパルスが刻まれた。



「壱、聞こえる?こちら零。到着座標に一カ月のラグが生じているの。亜依の『観測』も妨害されていて、ピンポイントでの特定ができないの」



 零が時計に向かって鋭く状況を伝えると、スピーカーから、現世の混乱の只中にいる壱誠の、けれど絶対に揺るがない、深く力強い声が返ってきた。



『――一カ月のズレは、実数側でこちらが解析する。作戦は続行しよう。ノイズで観測しにくいとはいえ、そのタイムラインにノア先生がいることは間違いない。捜索を開始してくれ』



「了解」



『零…』



「ん?何、壱…」



『くれぐれも気をつけて』



「うん」




 通信機越しに響いた壱の声に、零はまるで自宅のリビングで会話を交わしているかのような、いつもの柔らかい声で応じた。


そして、手袋越しに左手の薬指をそっと愛おしそうに撫でる。


 彼の声を聞くだけで、凍りつきそうな胸の奥がじんわりと温かくなる。


 ――必ず無事に、壱の待つ場所へ帰る。


 言葉にはせずとも固く心に誓い、零は通信を切った。




 こうして、彼らはこの未知のタイムラインでのノア捜索へと、即座に舵を切った。


 ピンポイントの特定は不可能。


亜依が限界までノイズを削ぎ落として弾き出した『翠松町の中心半径10キロ四方』という大まかな観測データを元に、限られた猶予のなかで手分けしてローラー作戦にあたるしか道はなかった。



「時間が惜しいわね。手分けしてエリアを潰していきましょう」



 零が全員を見渡し、静かにチームを分ける。



「レイイチ、亜依。二人は西側をお願い」


 レイイチは、あらかじめ地形が頭に入っている『海凪みなぎ病院』と西エリアへ、亜依を伴って歩き出す。



「サチ。私と一緒に来て。南から東へ回ろう。ノア先生を見つけよう」


「うん、必ず」


 サチが力強く呼応する。


その瞳には、先ほどの不安はもうなかった。



 デジットは、最も異常な気配が濃い北側を、自ら引き受けるように、単独で静かに北エリアへとその身を翻した。



 それぞれのバイナリ時計が、澄み切った青空の下で静かに、けれど確実に。


 この世界に許された僅かな猶予を、一秒ずつ零すように刻み始めていた。


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