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シュレーディンガーの居酒屋 〜観測が世界線を書き換える〜  作者: アイアイ
イマジナリー・ラインの観測
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22/24

20話 不帰(かえらず)の城、未完のライン


1、虚無を孕む黒の巨城


深く、昏く、どこまでも堕ちていく深淵の底。


そこには、光という名のあらゆる救いを貪り喰らう、黒い石の巨城が静まり返っていた。


見上げるほどに巨大なそれは、世界の絶望のすべてを型に流し込んで固めたかのように、圧倒的な威容で虚空を睥睨へいげいしている。


上空に広がるのは、終わりなき漆黒の天空。


ただ、死臭に似た微かな紫色のモヤが、生きながら腐敗していく肉体のように低くのたうつばかりで、届かない太陽の光は、この世界には決して訪れない。


風の音も、羽虫の羽ばたきすらも剥ぎ取られた完全なる静寂。


そこにあるのは、鼓膜をじっとりと圧迫する、重苦しい「無」であった。


ときおり遠くで地脈が悲鳴を上げてきしむ音が、まるで誰かの骨が砕けるように不気味に響き渡る。


黒の最奥。


すべてを容赦なく見下ろす位置に、その玉座は鎮座していた。


王を囲む燭台の上で揺らめくのは、熱を忘れた不気味な青い炎。


氷のように凍てついた光が照らし出す足元には、生を奪われた死者たちの黒い影が、まるで逃げ場を失った煙のように群がり、絶え間なくうごめいている。


彼らはただ、これ以上の苦痛がないことだけを祈りながら、互いの輪郭を溶かし合っているのだ。


灰色の地面に走る、無数のひび割れた細い道。


それがどこへ向かっているのか、知る者は誰もいない。


薄暗い空間には、行く先を奪われた名前のない灰色の霧が、ぼんやりと漂っている。


それは、神にも悪魔にも分類をあきらめられ、ただそこに「在る」ことだけを強制された魂の群れであった。


世界の片隅には、かつて魂を数えるために使われていた巨大な石の玉が、役目を終えてバラバラに転がっている。


崩れ落ちた巨大なそろばんの残骸が、虚しく散らばるばかりの墓標。



果てしなく広がる荒野には石碑がどこまでも並んでいるが、数字の消えかけた墓標に刻まれた文字や日付は、どれも生者の記憶とともに擦り切れて読めない。


いたるところに置かれた巨大な砂時計は、途中で粘土のように詰まり、落ちるのをやめている。


時間は完全に死んでいるのだ。


地面のあちこちには、正しく処理されなかった死者の記憶が、黒い水たまりとなって、持ち主の怨嗟を映しながら静かに光っている。


ここは、圧倒的な恐怖と静寂、そして永遠の虚無が支配する場所――


永遠の闇を孕んだ静寂が、突如として、内側から爆ぜた。




黒い城の影から、「それ」が現れた。


漆黒の闇よりもなお深い、光を拒絶する「黒」を纏ったその姿は、完全に人の理を外れた異形そのものである。


およそ生者としての感情を削ぎ落とし、ただ純粋な恐怖と悪意を形にしたようなかたち


その額からは、捻じれ狂った2本のツノが天を衝くように伸び、禍々しい王冠のごとく君臨している。


無慈悲な鋭い爪は、黒い石の床を無造作に削り、不快な摩擦音を響かせて静寂を殺していく。


だが、最もおぞましいのは、その両のまなこであった。


闇のなかで、それの瞳はぎらぎらと金色に輝いている。


その金色の虹彩の中央を、蛇のような縦長の瞳孔が裂けていた。


生物としての本能が、細胞のひとつひとつが捕食者に対する原初的な拒絶を叫ぶような眼。


異形は、その不気味な瞳を狂おしく蠢かせ、何かを狂信的に求め続けている。


絶望の残響。


大気が激しく波打った。


「ど こ だ…」


それは言葉というよりも、世界を呪う地響きだった。


「ど こ に い る…」


地の底から、遥か深淵の底から、重く、低く響くその声は、黒い世界の静寂を容赦なく引き裂いていく。


何かを飢えたように探す。


その声音に宿る執念は、出会うすべての魂を容赦なくすり潰し、霧へと変えてしまうほどの絶対的な恐怖に満ちていた。


何度も、何度も。


「か ん ざ き……」


「神崎……真零……」


その名を求める咆哮は、誰にも届かぬまま闇に沈んでいった。









2、残された者たちの灯


境界渡りチームが『第一跳躍』を敢行し、居酒屋『パラレル・ライン』からその姿を消して、すでに30分が経過していた。


先ほどまで実数と虚数の狭間で激しく明滅していた空間の歪みは完全に収まり、店内には、使い古された木製のカウンターと、煤けた壁、いつもの匂いだけが静かに取り残されていた。


神崎壱誠は、カウンターの向こう側で、自らの手首に巻かれた管制時計をじっと見つめていた。


文字盤のバイナリコードは、微かに規則正しいパルスを刻み続けている。



 ――繋がってはいる。


だが、その信号はどこか遠く、底知れない深淵の奥から届いているかのように朧げだった。


壱はゆっくりと顔を上げ、フロアを見渡した。


店内に残されたのは、マスター、秋山、律、陽菜。


そして、フロアの一角に設置された端末の画面から、淡い電子の明かりを放っているビット。


商売道具のグラスを磨き終えたマスターが、カウンターの端に置かれた律のノートPCへと視線をやる。


ともしかんから連絡が入ったよ。亜依ちゃんは無事に実家に到着したってさ。今頃はあの二人を完全に子分にして遊んでるはずだ」


 律が、キーボードを叩く手を一度止め、眼鏡のフレームを押し上げながら不敵に笑った。


星野灯と星野観。


律と三つ子の兄弟だ。


亜依にとっては大叔父にあたる二人は、血縁の子を守ることに関してだけは異常なほど容赦がない。


「あいつら、見た目はあれでも身内の護衛に関しては絶対にしくじりませんからね。カルトの影がチラつくだけで、やつらを跡形もなく消し飛ばすくらいのことは平気でやりますよ。きっちり守るって約束してくれました」


 少し大袈裟に、けれど絶対の信頼を込めて語る律の言葉に、壱は深く息を吐いて頷いた。


ここが戦場になる。


30分前、跳躍直後に2歳の我が子をその渦中から完全に遠ざけられたことは、何よりも強固な後ろ盾だった。


だからこそ、もう迷う理由はなかった。





「……こちらも、いよいよだな」


 秋山が、パイプ椅子の背もたれに体を預けながら、天井の染みを見つめるようにして呟いた。


その手は、無意識のうちに、ジャケットの内側に隠されたディスラプター・ペンに触れている。


「私たちの仕事は、あの子たちが帰るべき場所を、何が何でもここに繋ぎ止めておくことだ」


マスターが、いつものように静かに布巾でグラスを磨きながら答えた。


その手元は驚くほど正確で、微塵のブレもない。


かつて乃亜と共に研究に没頭していた男の横顔には、感傷を押し殺した老兵の凄みが宿っていた。


『現在、境界渡りチームの追跡信号はスカラー領域の干渉により一時的に乱れていますが、壱さんのバイナリ時計が座標を維持しています』


端末のスピーカーから、ビットの感情を排した、けれどどこか聞き慣れた電子の声が響いた。


彼女は地下室のシステムと同期しつつ、1階のフロアに北の研究所の立体ホログラムを淡く投影し直す。


「カルトの連中、完全にあの施設を要塞化してるね」


律が、カウンターに広げたノートPCのキーボードを激しく叩いた。


眼鏡の奥の瞳が、画面のブルーライトに冷たく照らされる。


彼の画面には、ビットの走査データと、22歳の亜依の『観測』によって暴かれた研究所の立体透過図がリアルタイムで同期されていた。


「警備の巡回パターン、防犯カメラの死角……データとしては完璧だけど、実数次元の物理的な防壁を破るには、どうしても正面からの突破力が必要になる」


「そこは、アタシの出番ですね」


陽菜が、自分の細い指先を見つめながら不敵に微笑んだ。


彼女の指先から、陽炎のような白い霊力が、ピチ・ピチと小さな音を立てて爆ぜる。


その光は、デジタルなホログラムの光とは違い、どこか生々しい熱量を持っていた。


「カルトの連中がどんな異能や兵器を使ってこようと、アタシの霊力で全部こじ開けます。秋山さん、突入のタイミングは?」


「ビットの転送の余波が完全に消える、今からちょうど一時間後だ」


秋山が腕のバイナリ時計に目を落とす。


「カルトの連中は、ノア博士の肉体を単なる崇拝の対象アイコンとして祀り上げている。

だが、最近の動きを見る限り、奴らはその肉体を使って『何か』を起動させようとしている形跡がある。これ以上の猶予はない」



『肯定。研究所の最深部で、未知のエネルギーの脈動を検知しています。これの臨界を迎える前に、乃亜さんの肉体を確保し、私の転送能力でこのパラレル・ラインの地下へと直接引き抜く必要があります』


ビットの厳格な声が、作戦のタイムリミットが極限まで迫っていることを告げていた。


壱は、カウンターの向こう側から、肉体奪還チームの面々とビットの端末を静かに見つめていた。


自分が開発したバイナリ時計が、彼らの命綱になる。


零たちが時空の向こう側で戦っている間、こちら側がカルトに潰されれば、すべてが瓦解する。


二つの作戦は独立しているようでいて、その実、一つの因果の表と裏だった。


「壱誠」


マスターが、磨き終えたグラスを棚に戻し、壱を真っ直ぐに見つめた。


「お前は、ここに残ってビットと共に管制に集中しろ。あいつらがいつ、どんな状態で戻ってきてもいいように、この店を、世界で一番頑丈な座標にしておくのがお前の役割だ」


壱は、拳を握りしめた。


「行ってらっしゃい」


と言った時の、零の、サチの、大きくなった我が子の感触が、まだ手のひらに残っている。


「……分かってる」


壱の声は、低く、けれど絶対に揺るがない質量を持っていた。


「カルトの好きにはさせない。ノア先生の体も、零たちの未来も、全部ここに連れ戻す」


薄暗い居酒屋。


かつて秋月乃亜が愛し、守り抜こうとしたその小さな空間のなかで、残された者たちの静かな闘志が、夜の街の底で赤々と燃え始めていた。




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