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シュレーディンガーの居酒屋 〜観測が世界線を書き換える〜  作者: アイアイ
イマジナリー・ラインの観測
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21/25

19話 理(ことわり)の寄り道



1. 【作戦説明 ― 二極の強襲】


 夜の居酒屋『パラレル・ライン』。


 まだ暖簾の仕舞われていないフロアの、あの独特な油と出汁の匂いが混じる空間のさらに奥。


営業前の静けさを言い訳にするように、地下へと続く階段の先で、冷たい電子の駆動音だけが定数ルールのように響いていた。


 地下室に据え付けられた高次元転送装置。


その青白い光の檻に囲まれるようにして、集まった全員の視線が一点に収束していく。


 制御卓の液晶が、演算の余熱でわずかに明滅した。その前に立つビットが、声のトーンから一切の感情を排して告げる。


「それでは、乃亜さん奪還作戦の最終確認を行います」


 空中に不意に投射されたホログラム。


そこに浮かび上がったのは、北の研究所の、あまりにも冷酷な幾何学模様だった。


実数次元を切り刻むような、美しく、そして血の通わない構造図。


「乃亜さんの肉体は現在、この研究所の地下深部に安置されています」


 マスターは、ただ無言で顎を引いた。


その座標なら、彼自身の網膜の裏に焼き付いて離れない。


かつて乃亜と机を並べ、数式に熱を宿らせようと狂奔していた、あの苦く甘い記憶の聖域。


それが今や、モノリス・カルトという不条理なバグに浸食されつつある。


「未来から来た亜依さんの観測能力によって、現在の警備状況、配置、乃亜さんの肉体の位置まで確認済みです」


 走査線が走り、映像が切り替わる。


 研究所内部。


 張り巡らされた電子の監視網。


 可能性の隙間を縫うような侵入経路、そして脱出経路。


 剥き出しの数式を睨みつけるようにして、秋山が腕を組んだ。


「作戦自体はシンプルだ」


 彼が光の経路を指先で冷酷になぞる。


その境界線には、最初から迷いなど1bit(1ビット)も存在しない。


「俺たちは研究所へ侵入する。乃亜さんの肉体を確保する。その後、ビットの転送能力でパラレル・ライン地下へ直送する。――以上だ」


 短く区切られた言葉。


けれど、全員が理解していた。


その簡潔なセリフの余白に、どれほど濃密な死線が、どれほど凄惨な狂信者たちの銃口が待ち受けているかを。


「こちらは、私たちが担当します」


 ビットの静かな声。


機械の振動板が震えているだけのはずなのに、そこにはどうしようもないほど、人間の「覚悟」に似た周波数が混じっている。


「マスター、秋山さん、律さん、陽菜さん。――肉体奪還チームの成功が、この作戦の前提です」


「任せてください」


 陽菜が笑って、親指を立ててみせた。その瞳の奥には、恐怖のデータなど最初から書き込まれていない。


一瞬、彼女の指先に宿った白い霊力。


小さく、しかし極限まで圧縮された密度の光が、地下室の無機質な闇を強引に削り取る。


マスターはそれを見て、小さく苦笑した。


かつて時空の狭間で護られるだけだった小さな少女が、今や自分の背中を支える因果の一部になっている。


胸の奥が、ほんの少しだけ熱量を持った。


「頼もしくなったな」


 一方、投影されたホログラムの反対側には、全く性質の異なる、朧げな航路が描かれていた。


 翠松町。


海凪病院。


そして、3年前という、通常の方法では絶対に遡れないはずの時間座標。


 実数次元の歪みに深く埋もれた、誰も触れることのできない「過去の記憶」。


それは別宇宙の中にある、こちら側と酷似した街。


 しかしそこは、カーネルの理が届かない、スカラーという絶対的な環境が支配する領域だった。



「こちらが境界渡りチームです」


 ビットの視線が、残る面々へとしなやかに向けられる。


 零。サチ。亜依。デジット。そして、レイイチ。


「皆さんには翠松町へ向かっていただきます。乃亜さんの意識を救出し、この世界へ帰還させることが目的です」


 落ちてきた沈黙は、コンクリートの底に溜まった冷たい空気のように、全員の肌にまとわりついた。


 やがて、サチが小さく、本当に小さく息を吐いた。


「33年」


 それは、誰の鼓膜にも届かないほどの、ただの空気の震え。


けれどそこには、彼女が一人で、たった一つの観測点として背負い続けてきた途方もない時間の質量が、すべて乗っかっていた。


「あと少しなんだね」


 零が、そっと彼女の肩に手のひらを置いた。


その血の通った温もりが、サチの震えそうになる因果を、現世の座標へと静かに繋ぎ止める。


「ええ。迎えに行きましょう」


 サチは、33年分の涙をまぶたの裏に押し込めるようにして、力強く頷いた。







2. 【境界渡り】


 翌朝。


 出発の地点は、少し薄暗い居酒屋『パラレル・ライン』の1階だった。


 使い古された暖簾の下。


朝靄の静けさのなかで、全員が静かに最後の調整を行っている。


 壱が、特別製のバイナリ時計を一人ひとりに手渡していった。


彼はこの店に残り、秋山と共同で組み上げた管制システムを使って、二つの作戦を接続し続ける。


「これはビットの技術と、亜依の観測能力を組み込んだ通信装置だ。異界あちらにいても連絡が取れる」


 亜依(22)が、受け取った時計の文字盤をじっと見つめる。


そこに踊る不可思議なバイナリコードの配列、彼女はそれを知っていた。


「翠松町で協力者を得られる可能性もあると、篝さんは言っていた。だから、予備も入れてある」


 

 サチが時計を受け取る。


金属の冷たさが、これから飛び込む世界のリアルを彼女の手のひらに伝えていく。


零もそれに続いた。


 だが、壱が最後に二人に渡したその二つだけは、外観のモジュールが微妙に違っていた。


「それは?」


 零が首を傾げる。


壱は、ははっと声を立てずに笑った。


「内緒だ。特別仕様。特別の特別だ」


 亜依も少しだけ驚いたように目を見張ったが、それ以上は追及しなかった。


父の仕掛ける不器用で、けれど絶対に狂わないサプライズの価値を、彼女は誰よりもよく知っていたからだ。


 その時。


ぴょこんと、小さな手が下から伸びてきた。


「ほしい!」


 2歳の亜依だった。大人たちの、張り詰めた因果の糸をハサミでチョキンと切ってしまうような、あまりにも無邪気な声。


「わたしも!」


 壱はその場にしゃがみ込んだ。


大人の高い目線を、愛おしい小さな娘の視界に合わせるようにして、優しく、けれど世界のどんな法則よりも確実な声で語りかける。


「これはね、22歳になったらあげる。やくそく」


「にじゅうにさい!」


 その言葉の意味する時間の重さなど、今の彼女には分かるはずもない。


けれど、パパの優しい手のひらの温度に満足したように、2歳の亜依は誇らしげに頷いた。


 それを見て、張り詰めていた一同の口元に、ふっと柔らかい笑みがこぼれる。


緊張の糸が、家族というあまりにも強固な絆のなかで、静かにほぐれていった。





 出発地点は、居酒屋『パラレル・ライン』一階。


 あえて地下室ではなかった。


 マスターが守り続けてきたこの店そのものが、最も強固な座標であり、最も深く秋月乃亜と結びついた場所だからだ。


 煤を落とし、新しい木材で補修されたカウンター。


 それでも、どこかにまだ残る焦げた匂い。


 零が帰ってきた夜の痕跡は、完全には消えていない。


 消してはいけないものとして、店はそれを静かに抱えていた。


 サチは、カウンターの端に置かれた紺色の芳名帳を見た。


 Part 42。


 あの日、零と壱が自分たちを再定義したノート。


 そして自分が、父から届いた手紙を胸に、最後の一針を刺した場所。


 すべての始まりと終わりが、この店には重なっている。


「サチ」


 零が隣に立った。


 彼女はサチの手を、そっと握る。


「怖い?」


「怖いわよ」


 サチは即答した。


「父に会いたい。でも、会うのが怖い。もし会えなかったらって考えるのも怖いし、会えたとして、自分が何を言うのかも怖い」


「うん」


「でも、行く」


 サチは、デジカメを胸に抱いた。


「今度は、私が父を見つける番だから」


 零は何も言わず、ただ強く頷いた。


 壱がカウンターの向こうから全員を見渡した。



 通信機のランプが青く点灯する。


 地下室の転送装置が駆動し、ビットの演算回路と接続されていく。


『航路、安定。篝様による次元ノイズ除去、正常。第一跳躍座標、翠松町次元入口。第二跳躍座標、三年前の翠松町。転移可能時間、極短』


 ビットの声が、店内のスピーカーから静かに響いた。


 デジットの肉体が、足元から青白い粒子へとほどけ始める。


「いいか、人間ども。最初の跳躍は、まだ序の口だ。翠松町の入口に到達した後、すぐに三年前へ落ちる。二度目の跳躍で意識を手放せば、肉体と記憶が別々の方向へ剥がれるぞ」


 レイイチもまた、半透明の青い粒子となって輪郭を薄めていく。


「サチ、零、亜依。僕たちが経路を固定する。怖くても、目を逸らさないで」


 未来亜依は、バイナリ時計を左手首に巻き、深く息を吸った。


「私は視る。どこへ落ちても、未来を取りこぼさない」


 零は、壱を見た。


 壱は、彼女を見返す。


 言葉はいらなかった。


 零の時計が青く灯る。


 壱の管制時計も同じリズムで明滅する。


 二つのパルスが重なり、かつて死を越えた二人だけのラインが、もう一度静かに結ばれた。


「行ってくる」


「行ってらっしゃい」


 壱はそう答えた。


 その声は震えていなかった。


 震えさせないために、彼は今、全身の力を使っていた。


 ビットの声が告げる。


『第一跳躍、開始』


 次の瞬間、店内の空気が反転した。


 床が消える。


 天井が消える。


 壁の木目が、光の粒子となってほどけていく。


 しかし、それは破壊ではなかった。


 篝が掃き清めた航路は、あまりにも澄み切っていた。


 世界が、静かに道を開けている。


 サチは零の手を握り、未来亜依はサチの背中に触れた。


 デジットの異能『神隠し』が、サチの肉体を霊的な膜で包み込む。


 レイイチの青い回路が、その膜の外側にもう一つの輪を描く。





3. 【理の剥離】


 すべては正常だった。


 あまりにも滑らかで、あまりにも美しい跳躍。


 店の灯りが遠のき、次元の膜を一枚抜ける。


 その先に、翠松町へと続く入口が見えた。


 白い。


 けれど、温度のある白。


 遠くで、波の音のようなものが聞こえる。


『第一跳躍、成功。第二跳躍へ移行します』


 ビットの声が、遠くから届いた。


 だが、その瞬間だった。


 スカラー領域との接続が始まった途端、世界の手触りが変わった。


 まるで、今まで意味を持っていたすべての方向が、急に剥ぎ取られたようだった。


 上へ進む。


 前へ進む。


 過去へ戻る。


 未来へ抜ける。


 そうした一切の「向き」が、意味を失う。


 サチの耳元で、レイイチが鋭く舌打ちした。


「駄目だ」


 彼の声が、初めて焦りを帯びた。


「情報層が反転している」


 デジットが即座にそのバグの本質を理解した。


スカラーの持つ「ベクトルの無効化」という、あらゆる存在の定義を奪う最悪のことわり


「全員、意識を固定しろ!」


 デジットの叫びが、白い空間を裂いた。


 世界が砕けた。


 光でも闇でもないものが、全身を貫いた。


 すべてがバラバラに散散していく。


カーネル宇宙の法則が、皮膚を無理やり剥ぎ取るようにして、彼らの存在から剥離していった。


 零は、自らの内にあった異能が、急激にインクが薄まるように減衰していくのを感じていた。


身体の奥底から絶対的な力が抜けていく、システム側からの強制的なデバフ。


 この地獄のなかで、22歳の亜依だけが、かろうじて平然と立っていた。


彼女の特性は「特異点的観測」。


世界のルールが崩壊しようとも、彼女自身が独立した観測点であるため、辛うじてその存在の座標を維持していたのだ。


 しかし、その完全なカオスの中で。


 一人だけ。


 サチだけが。


 何の異能の防壁も持たない、ただの、あまりにも脆い人間の魂だけが、引き裂かれた航路の隙間から、暗黒の彼方へと弾き飛ばされていった。


 サチは零の手を掴もうとした。


 亜依の声が聞こえた気がした。


 レイイチの青い光が、自分を包もうと伸びた。


 デジットが何かを叫んでいる。


 けれど、すべてが遠い。


 方向がない。


 距離がない。


 誰が近くにいるのかすら分からない。


 そして、最後にサチの指先から、誰かの温度が消えた。


 



4. 【誰もいない場所】


 気付くと、世界は白かった。


 上もなければ、下もない。


 光とも言えず、かといって闇でもない。


ただ、果てのない白。


 無限。


 そして、完全な静寂。


 己の呼吸音すら、吐き出した瞬間に世界の無機質さに吸い込まれて消えていくような、ぞっとするほど静まり返った世界だった。


 サチは、自分が立っているのか、それとも虚空に浮いているのかすら分からなかった。


五感が、すべての情報処理機能を失っている。


「零?」


 返事はない。


「亜依ちゃん?」


 誰も、いない。


「デジット」


 ただの沈黙。


「レイイチ」


 何も、返ってはこない。


 33年間、父親を探して暗闇を歩き続けてきた。


ずっと一人だと思っていた。


 でも、違ったのだ。


独りきりで歩んでいると思っていたあの暗闇のなかでも、

 みんながいた。


 零がいて、亜依がいて、デジットがいて、零壱がいた。


彼らの存在という名の命綱が、いつだって自分の心をこの世界に繋ぎ止めてくれていた。


 けれど、今は本当に誰もいない。


 凍りつくような絶望が、サチの思考のすべてを塗り潰そうとした、その時だった。


 どこか遠くから、ひどく間の抜けた声が響いた。


「へぇ」


 サチが振り返る。


 白い虚空のなかに、誰かがいた。 


「人間だ」


 白銀の髪。


汚れのない裸足。


 少年とも、あるいは少女ともつかない、あまりにも曖昧な存在。


 世界の終焉を司るような絶対の領域にいながら、まるで近所の公園のベンチで暇を潰している子供のように、あまりにも異質で、あまりにも気易い佇まいだった。


「珍しいなぁ」


 サチは思わず身構え、全身の神経を警戒に尖らせた。


「あなたは……?」


 その少年は、不思議そうに首を傾げた。


そのガラス細工のような瞳には、大宇宙の戦争も、カーネルの厳格な規律も、何一つ映ってはいない。


「うん? 僕は……」


 言いかけて、自分の名前を定義することすら面倒になったように、ふいと言葉を止めた。


 そして、キョロキョロと悪戯っぽくサチを観察し、逆に尋ねてくる。


「それより君は?」


 サチは、あまりの温度差に、脳の処理がほんの一瞬だけ戸惑った。


しかし、自分の胸の奥にある「33年分の熱量」を確かめるように、真っ直ぐに答える。


「私は秋月サチ。――父を探してるの」


 その瞬間だった。


 少年の瞳が、初めて明確なベクトルを持って動いた。


世界のすべてに退屈しきっていたその瞳の奥に、小さな、けれど奇妙な火が灯る。


「父を?」


「うん」


 サチは頷く。


「33年間、会えてないの」


 沈黙。


 白い世界の時間が、一瞬だけ止まったかのような錯覚。


 少年が、ゆっくりと上体を起こした。


虚空のシーツを滑るようにして、サチの正面へとその顔を近づけてくる。


「へぇ。――それ、面白そう」


 サチの表情が、一瞬にして険しくなった。


自分の人生のすべて、血を吐くような思いで擦り切らせてきた33年間の軌跡を「面白い」の一言で片付けられたことに、激しい怒りが湧き上がる。


「面白い話じゃない!」


 けれど、少年は笑った。


 楽しそうに。


本当に楽しそうに、無邪気な子供そのものの笑顔で。


「うん。だから面白いんだよ」


 サチは、その圧倒的な価値観の断絶に、言葉を失った。


少年は淡々と、けれど弾むような声で言葉を続ける。


「33年経ってるのに。みんな無理だって言うのに。まだ探してる。まだ諦めてない」


 少年は心底愛おしそうに笑う。


世界のシステムが定めた「不可能性」という絶対の数式を、ただの人間の執念だけで笑い飛ばそうとするそのエゴを、彼は狂おしいほど楽しそうに見つめていた。


「好きだなぁ、そういうの」


 そして、少年は、ふらりと頼りなげな、けれど底知れない手を差し出してきた。


「じゃあ、契約する?」


 サチが目を見開く。


「契約……?」


「うん」


 少年は、今日のおやつに何を食べるかを決めるかのような軽い調子で言った。


「僕と契約すると、ここから抜け出せるよ」


 サチの脳裏に、デジットたちの冷徹な言葉がよぎる。


大いなる存在との契約。


そこには必ず、魂や寿命といった相応の、あるいは苛烈な対価が必要なはずだ。


「代償は……何?」


 少年は、きょとんとしてみせた。


「代償?」


 少しだけ、そいつは考える素振りをした。


サチの寿命、あるいは大切な記憶、あるいは魂のデータ――そんなありきたりな人間のリソースを思い浮かべ、そして、そんなゴミみたいなものには全く興味がないという風に、くすくすと笑った。


「僕に、君たちの再会を見せてよ。――それだけ」

 サチは、呆然とした。


 寿命でもない。


記憶でもない。


魂でもない。


ただ、人間が紡ぐ泥臭い物語の「続き」が読みたい。


その無機質な理の世界にポツリと生まれた、気まぐれな好奇心、ただそれだけ。


 少年は、悪戯っぽく微笑む。


「だって気になるじゃない。33年探した結末。見届けたい」


 サチは、長く沈黙した。


 少年の瞳の奥にある、規律など存在しない、けれど嘘偽りのない純粋な「渇き」を見つめる。


ここで足手まといのまま消えるわけにはいかない。


父の元へ、みんなの待つ前線へ行くんだという強い意志が、彼女の背中を強烈に押し出した。


 そして、ゆっくりと手を伸ばす。


 少年の、温かいのか冷たいのかすら判別のつかないその手を、ぎゅっと握りしめた。


 その瞬間、白い世界が激しく、狂ったように震えた。


 どこか遠く、スカラー領域の深淵で、鉄の秩序(枢)が、あるいは世界のシステムそのものがゆっくりと目を開いたような、恐ろしい地響きが魂の底を揺らす。


 けれど、少年はそんな大層な異変など一瞥もくれず、嬉しそうに笑っていた。


 まるで、最高のおもちゃを、最高の物語を見つけた子供のように。 


「契約成立」


 白い世界が、ガラスのようにパリンと音を立てて砕け散る。


 そして、サチの身体は、再び激しい因果の濁流の中へと、仲間たちのいる世界へと真っ逆さまに落ちていった。






5. 【違和感】


 翠松町へと続く航路。


 崩壊しかけた転移空間のなかで。


 光の濁流が渦巻く中、完全に弾き出されていたはずのサチの座標が、強引に、力ずくで仲間たちのいる位置へと引き戻される。


「サチ!」


 零が叫んだ。


その瞳には、異能の減衰に耐えながらも、親友を無事に連れ戻せたことへの安堵が浮かんでいた。


亜依も振り返る。


 サチは無事だった。


息を荒く乱しながらも、その魂の衣服に傷一つついていない。


だが。


デジットだけは、その灰色の瞳の奥の色彩を、驚愕と、そして深い不快感へと一瞬にして変えた。


彼女は駆け寄ろうとする零を制するように片腕を上げ、サチをじっと見据える。


「……おい」


デジットの声は、低かった。


サチは立ち上がろうとして、胸の奥に奇妙な感覚が残っていることに気づいた。


 もう一つの視線。


 後ろの席に、誰かが座っているような感覚。


「サチ、大丈夫!?」


 零が肩を支える。


「大丈夫……だと思う」


 サチは答えた。


 しかしデジットは動かない。


 その顔には、怒りとも恐怖ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。



 デジットが、一歩近づく。


「貴様…何と契約した?」


サチは答えられなかった。


ただ胸の奥で、あの少年が、楽しそうに笑った気がした。


 


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