18話 アイデンティティ・レゾナンス ― 奇跡の五人
1. 【残響の警告】
キィィィィン――と、鼓膜を鋭く刺すような、おぞましい高周波の警報音が地下室に鳴り響いた。
テスト起動で安定していたはずの転送の光の「向こう側」から、あり得ない方向へのエネルギーの逆流――凄まじい因果の逆流の突風が吹き荒れ、地下室のコンクリートの壁を激しく叩きつけた。
ビットの制御パネルがパチパチと制御不能なエラーログを吐き出し、過負荷で派手な火花を散らす。
「馬鹿な、あり得ません! まだ誰も跳んでいない、ただの試験起動のゲートなのに……何者かが、境界の向こう側……はるか遠い時間軸の先からこちらの座標を逆探知して、この転送ゲートを無理やり力技でこじ開けてくる……!?」
空間そのものと化しているビットの、驚愕に引き裂かれた声が地下室に木霊する。
完璧に制御されていたはずの光の裂け目が不自然に歪み、のたうち回り、指示された座標ではない「未知の時空」と強引に直結していく。
空間がバグったように激しくブレ、まばゆい光の奔流とともに、次元のゲートがこじ開けられた。
溢れる極光の中から現れたのは、一人の謎の女性だった。
息をのむほどに気高く、凛とした佇まいでそこに立っている。
一切の迷いを感じさせない揺るぎない眼差しと、威風堂々とした立ち姿は、まるで一国の女王のようだった。
しかし、ゲートの光がゆっくりと収まり、彼女を包む影が濃くなった一瞬――その美しい横顔に、世界の終焉を何度も見てきたかのような、深く、果てしない寂しさが宿っていた。
「――零に限界まで力を使わせないで」
地響きのような威厳を湛えた声が、地下室の空気を凍らせる。
「デジットにビット。そしてレイイチ…さん……あなたたちなら、その言葉の意味がわかるわね」
それだけを告げると、女は追究を許さぬ速さで、再び激しい光の中に溶けるようにして消え去っていった。
過負荷の嵐が嘘のように収まり、火花を散らす精密機械の音だけが残される。
「あれは……」
ビットの戸惑う声に、粒子化を解いたデジットが灰色の瞳を鋭く光らせた。
「ああ……間違いない、あれは『未来のノイズ』そのものだ」
セルフビルドした肉体の不可視化を解いたレイイチもまた、自らの胸の奥の回路を抑えながら、消え去った光の残痕をじっと見つめていた。
「あ……」
2. 【黒い来訪者】
数日後。
ノアの救出作戦という見えない嵐を前に、世界はまだ深い静寂のなかにあった。
神崎邸のリビングには、どこか張り詰めた、しかし穏やかな朝の空気が満ちている。
その日の朝早く、壱は秋山と共に、作戦の命綱となるバイナリ時計の改良と最終調整を施すため、慌ただしく職場へと向かった。
彼らの背中を見送った後、自宅に残されたのは、零と、まだ無垢な瞳を持った2歳の幼子、亜依の二人だけだった。
窓辺のカーテン、その僅かな隙間からこぼれ落ちる柔らかな朝の陽光が、宙に舞う小さな埃を金色にきらめかせながら、静まり返った床を優しく照らしている。
亜依の規則正しい小さな息遣いだけが、その静謐な空間に溶けていくようだった。
その温かな平穏のなかに、突如としてインターフォンのチャイムが鳴り響く。
それは静かな空間を優しく揺らす電子の音色であり、変わらない日常の続きを告げるかのように、ひっそりとした邸宅に心地よく響き渡った。
「はーい」
零が何気なくモニターを覗き込むと、そこに映っていたのは、全身黒い服を身に纏った見知らぬ若い女性だった。
「(なにあれ……コスプレ?)」
あからさまに堅気ではない雰囲気に眉をひそめながら、零は受話器を上げた。
「はい、どちら様でしょうか」
『神崎さんのお宅ですよね。……重要な話があって、参りました』
モニターの中の女の目は、冷徹なようでいて、どこか必死だった。
零は直感する。
「重要って……どんなお話でしょう」
『――ノア博士救出に関する話です』
その単語が出た瞬間、零の脳裏に電撃が走った。
なぜこの人間が、極秘裏に進めている作戦を知っているのか。
「……少しお待ちください」
零は冷静に告げると、すぐさま手元の端末で律とデジットへ緊急連絡を入れた。
「今すぐ私の家に来て。至急よ」
そして、2歳の亜依を家の中に備え付けられた絶対安全な防壁空間「パニックルーム」へと静かに隠した。
「亜依、いい子にしててね」と優しく頭を撫でると、幼い娘はコクンと頷いた。
何か不測の事態が起きても、現在の零が持つ異能があれば、一人で十分に目の前の女を制圧できるという計算と覚悟があった。
ガチャリ、と鍵を開け、謎の女をリビングへと招き入れる。
近くで見ると、女が着ているのはただの黒服ではなく、身体のラインに完全にフィットした特殊なバトルスーツだった。
「戦闘服……? あなた、いったい何者?」
警戒を隠さずに問いながら、零は女にリビングのソファに腰掛けるよう促した。
ソファに腰を下ろした女は、零の問いにすぐには答えず、ゆっくりと家の中をキョロキョロと眺め回した。
壁の傷、飾られた写真、部屋の空気。
その瞳は、どこか酷く嬉しそうで、言葉にできないほどの深い慈しみに満ちあふれていた。
まるで、二度と戻らないはずの楽園に、奇跡的に足を踏み入れた迷子のような目をしている。
零は警戒を維持したまま、彼女の前に淹れたてのハーブティーのカップを置いた。
女はしばらくそのカップから立ち上る湯気を愛おしそうに見つめていたが、そっと両手で持ち上げ、宝物を扱うように一口、口に含んだ。
ほう、と、張り詰めていた緊張のすべてを解き放つような、熱い吐息が女の唇から漏れる。
「……懐かしい。この味……」
「それで?」
零が鋭く先を促すと、女はハーブティーを置き、悪戯っぽく微笑んでオウム返しに言った。
「それで?」
「あなたはいったい誰なの? なぜノア先生のことを知っているの?」
まっすぐに射抜くような零の視線を受け止め、女は静かに、けれど世界で一番優しい声で微笑んだ。
「――私は亜依よ、お母さん」
「え……?」
あまりにも突拍子のない単語に、零の思考が一瞬フリーズする。
「私は20年後の未来から来た、あなたの娘。神崎亜依よ。……今の私の特性は『次元跨ぎの観測者(特異点的観測)』。お母さんは、もうその力の片鱗を知っているはずよ。実数次元、虚数次元、そしてマルチスレッド(並行世界)のすべてを、なんのフィルターも通さず、生身の意識のまま『視る』ことができる能力」
女――22歳の亜依は、自らの白く細い手を見つめながら淡々と、けれど誇らしげに、そして少しの切なさを滲ませて語る。
「宇宙の絶対定数の干渉を唯一受けない『特異点』であり、私が観測を確定させることで、不確定な未来を一つの現実へと固定できる。実はこの力、幼少期から段階的に解禁されていく能力だったの。今の私は、未来の因果を確定させて仕留める[因果絶火]、並行世界の自分と同時攻撃する[千裂の同期]、存在確率をゼロにする[確率淘汰]まで扱えるわ。22歳の今が、覚醒段階のピークに達している最強の状態。……だから、私はきっとお母さんたちの役に立つはずよ」
目の前で滔々と語られる、かつてないほど濃密で圧倒的な設定の数々。
零は目の前の美しく成長した女性を見つめ、激しい困惑の中に、血脈が伝える確かな繋がりを感じ取っていた。
その綺麗な鼻筋、少し気が強そうでいて根は優しい拒絶の構え、すべてが自分と、そして愛する壱の面影を濃く宿している。
(本当に……この子が、あのちっちゃい亜依……なの?)
「そう。今回のノア博士救出作戦に加わるか加わらないか、カーネルに選択肢を貰ったの。……未来を、正しい形へ確定させるためにね」
驚きと混乱が天元突破した結果、零の脳内から出たのは、母親としてのあまりにも素朴で、不器用な現実逃避に近い疑問だった。
「亜依が大人になると……こんなに立派なお嬢さんになっちゃうの? ……ねぇ、彼氏は!? 彼氏はいるの!? 変な男だったら、私、絶対に許さないからね!」
「えっ!? お、お母さん、何言ってるの急に……」
さきほどまで軍神のように凛々しかった22歳の亜依が、一瞬にして年相応の女の子のように顔を真っ赤にして大慌てで手を振る。
その、あまりにも「我が家の血筋」を感じさせる素直で可愛い反応に、零はふっと全身の緊張を解き、すべてを受け入れて愛おしそうに微笑んだ。
「そっか。よかった。……うん、本当によく無事で、ここまで来てくれたね、亜依」
3. 【同一性共鳴】
しばらくの後。
リビングの引き戸が激しく開き、連絡を受けて急行したデジット、レイイチ、外で待機していた律が室内に飛び込んできた。
「零姉さん、無事か!?」
律が声を荒げる中、レイイチが黒い戦闘服の女を見るなり一歩前に出た。
「あ……」
「レイイチ、違う。待て、別の奴だ。……こいつは、あの時のあれじゃない」
デジットがすかさずレイイチの肩を強い力で掴んで制する。
数日前のあの地下室を破壊せんばかりの覇気を放っていた影と似てはいるが明らかに違う。
22歳の亜依は、レイイチの顔を見て、張り詰めていた仮面を剥ぎ取るようにふっと目元を優しく緩めた。
「兄さん……。相変わらず、その格好なのね。ふふ」
「え……? 兄さん……? …………
あ、なるほど…そういうこと。…え? …マジで?」
SF小説のプロットを紡ぐ律は、誰よりも察しが良い。
というよりも察しが良すぎる。
この数週間に起きた常軌を逸した出来事を振り返れば、目の前で起きている状況――未来から娘がやってきたなど、いまさら何の不思議もなかった。
頭ではそう理解し状況を受け入れつつも、やはり感情の整理が追いつかない。
律は混乱を隠せないまま、落ち着かない様子で眼鏡のフレームを何度も何度も押し上げていた。
「デジット、レイイチ、律くん。もう大丈夫よ。この子は……私たちの味方。ううん、私の娘だから」
零はそう言うと、リビングの奥へ歩みを進め、パニックルームの重い扉を静かに開けた。
「亜依、もう出てきて大丈夫よ。おいで」
零の腕に愛おしそうに抱かれ、リビングの柔らかな朝の光の中へと足を踏み入れたのは、幼い亜依だった。
零に抱っこされたまま、2歳の亜依は不思議そうに首を傾げ、ソファに座る黒いスーツの女性をじっと見つめた。
「亜依。こんにちは。……私は、亜依よ」
22歳の亜依が、ゆっくり2歳の小さな自分へと目線を合わせる。
慈愛と、言葉にできないほどの切なさが、大人の亜依の瞳から溢れ出していた。
すると、まだ言葉もおぼつかないはずの2歳の亜依が、大人の自分をじっと見つめ返したまま、その大きな瞳をわななかせ、ぽろり、ぽろりと、一筋の涙を頬にこぼしたのだ。
「あ、ぅ……」
小さな小さな手が、何かを求めるように、22歳の亜依の方へと伸ばされる。
「ちょっと、待ってくれ!」
その光景を見ていた律が、恐怖に近い戦慄を覚えて顔をこわばらせ、声を上げる。
「未来から全く同じ人間がやってきて、過去の自分自身に直接接触するなんて……時空の許容量を超えて、大爆発とか、エネルギーの暴発を引き起こす原因になるんじゃないのか!? 二人を近づけちゃダメだ!」
「あなたのSF小説の中ではそうかも知れないけれど」
零は涙を流す我が子を強く抱き締め、目の前の22歳の娘から目を離さないまま、どこか確信を持った静かな声で返した。
「過去に来た時点で、ここは元の未来とは違う別の宇宙(世界線)になっているか……あるいは、目の前にいるのは過去の自分ではなく、自分と全く同じ遺伝子を持った『別の世界の他人』だから、触れても物質的なエラーは起きないってパターンかもしれないわよ?」
「――どれも違う」
デジットが、静かに二人の亜依を見つめながら遮った。
「大宇宙の法は、そんなに雑でも、そんなに優しくもない。宇宙のOSは、この二人を別々の存在だとは扱わん。だからこそ……物理的に触れ合わずとも、ただ視線を交わすだけで、彼女が未来で培った揺るぎない自信と、その奥に秘めた世界の果てのような深い孤独が、この子の心に津波のように流れ込んでいくのだ」
デジットの重々しい言葉に、リビングの空気が完全に静まり返る。
「『アイデンティティ・レゾナンス(同一性共鳴)』。未来の自分が抱える『深い寂しさ』が過去の自分に伝わり、過去の自分が抱く『現在の不安』が未来の自分へと伝わる。互いの感情がダイレクトに同期し、胸が締め付けられるような感覚を今、この二人は共有している。……なぜならそれは、この2歳の亜依がこれから歩む道の中で、いつか必ず出逢うことになる、自分自身の痛み様なのだからな……」
「ちょっと! 亜依はまだ2歳よ! そんな過酷なもの、この子の心に流し込まないで!」
零がたまらずデジットにくってかかる。
「――大丈夫。もう、泣かなくていいよ、亜依」
そっと二人の亜依の間に割って入ったのは、レイイチだった。
彼は見た目こそ大人の青年であり、知識も高位のそれを持ってはいるが、本質は零の帰還から生まれたばかりの、まだ「3歳」の優しき器。
レイイチは、大きな亜依と小さな亜依を同時に包み込むようにそっと両手を広げた。
すると、彼の身体から、自らの温質で澄み切った、まるで陽だまりのような『光の粒子』が溢れ出し、二人を優しく包み込んだ。
「僕がここにいるからね。未来でも、過去でも、亜依が悲しいときは、僕がいつだって隣にいるから」
レイイチの、どこか幼さを残した、けれどどこまでも真っ直ぐで優しい声。
その温かな光に触れた瞬間、律も零も、そして二人の亜依も、言葉では説明できない絶対的な安堵感に包まれた。
22歳の亜依の胸を締め付けていた頑なな呪縛が、そして2歳の亜依の不安が、その光のなかで洗われるようにすっと引いていく。
2歳の亜依は涙を拭い、レイイチのスーツの裾をぎゅっと掴んで、安心したように「にぃに……」と小さく笑った。
その光景に、リビングの全員が、張り詰めていた心の奥底から救われるような安堵を覚えていた。
4. 【つかの間の家族】
その後、リビングには穏やかな時間が流れ、しばらくの間、他愛のない雑談が交わされた。
亜依が身に纏っているバトルスーツや、腰に下げられた銃のような兵器について、本人もなぜこの格好で跳ばされたのか分かっていないのだという。
「カーネルの差し金か……」
デジットの呟きを聞きながら、零は22歳の亜依の肩をぽんと叩いた。
「よし! そんな物々しい格好じゃお出かけもできないし、これから二人でお買い物に行きましょ! 私があなたに最高に似合う可愛いお洋服を選んであげる! 律くん、ベビーシッターお願いね」
「ええっ!? 買い物……?」
亜依の胸が、ドクンと大きく跳ね上がる。
ちょっぴり恥ずかしく、けれど飛び上がるほど嬉しい感情が、彼女の顔を満面の笑みへと変えていく。
零のクローゼットから借りたシンプルなワンピースにひとまず着替え、二人は昼下がりの風が吹く街へと繰り出した。
隣を歩く零が「あっちのお店、可愛い服が多そうなのよね」と楽しそうに道を指差すたびに、つられて心が弾んでいくのを感じていた。
「さあ、着いたわ!」
零が小気味よい音を立てて開け放ったのは、ガラス張りの明るいセレクトショップのドアだった。
色とりどりの春夏の新作が並ぶ店内に、亜依は少し圧倒されたように立ち尽くす。
そんな亜依の手を引いて、零は嬉々としてラックの間を巡り始めた。
「ねぇ、これなんかどう? 亜依は色白だから、こういう淡いミントグリーンのブラウスが絶対に映えるわよ」
「えっ、あ、うん」
「ほら、迷ってないで鏡の前に立って! 次はこっちのプレアスカートね。あ、このワンピースも絶対に可愛い!」
零の目は完全にきらきらと輝いていた。
2歳の亜依にお洋服を着せて遊ぶときの、あの母親としての純粋な楽しさが、そのまま22歳の亜依へと向けられている。
まるで大きくなった我が子を「着せ替え人形」にするかのように、次から次へと服を抱えては亜依の身体にあてがっていく。
亜依は恥ずかしそうに頬を染めながらも、拒むどころか喜んでその提案をすべて受け入れていた。
零に促されるまま、何度も試着室を往復しては、新しい服に身を包んでカーテンを開ける。
「どう……かな?」
「きゃー! すっごく可愛い! やっぱり私の目に狂いはなかったわ」
零が手を叩いて喜ぶ姿を見るだけで、亜依の胸の奥は温かいもので満たされていく。
試着の合間、ラックを眺めながら二人は自然と言葉を交わした。
「お母さんは、普段からこういう洋服が好きなの?」
「そうね。壱くんがいつも無頓着だから、せめて私と亜依くらいはちゃんとお洒落して驚かせてあげたいじゃない? 亜依は普段、どんな服を着ているの?」
「私は……その、機能性重視のものばかりで。こんな風に、自分のために洋服を選ぶなんて、本当に久しぶり」
「じゃあ、今日は遠慮なんて一切禁止! 私が全部プロデュースしてあげるからね」
お互いにあれこれと鏡の前で合わせながら、零が「こっちの方が似合うわよ」と笑いかけるたび、亜依は本当に嬉しそうに何度も何度も頷いていた。
零に選んでもらった服は、どれをあてがわれても、亜依にとっては世界に一つだけの宝物のようだった。
買い物の後、両手いっぱいの紙袋を抱えて、二人は通り沿いにある小さなカフェに入った。
向かい合ってパフェを食べるその時間は、亜依にとって、人生の中で最も美しく、至福のひとときだった。
「美味しい……」
「でしょ? ここのパフェ、ずっと気になってたのよね」
スプーンを動かしながら、零が語る他愛のない日常の話や、壱のちょっとした愚痴に楽しそうに耳を傾ける亜依の瞳は、年相応の輝きに満ち溢れていた。
夕方、二人がたくさんの買い物袋を抱えて自宅に戻ると、壱が職場から帰宅していた。
律やデジットからすでに全ての事情を把握していた壱は、玄関で大人の姿になった娘を見つめ、驚きつつも、どこか誇らしげに「おかえり」と優しく微笑んだ。
その温かい声に、亜依は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら「ただいま」と返し、少し涙ぐむ。
壱は亜依の元へゆっくりと歩み寄り
「本当に……大きくなったな」
「お父さんは、若いね」
「これでも毎日必死なんだ」
壱が頭を掻きながら笑う。
リビングには、いつもの派手なヒーローコスチュームではなく、壱に用意してもらった「カジュアルな服」に着替えたレイイチも待っていた。
ちょこんとソファに座っている姿は、どこか愛らしく、幼さを残している。
「今夜はみんなで亜依の歓迎会をしようと思って、出掛ける準備をしていたんだ」
胸に灯る温もりを分かち合うように、壱は目を細めた。
「だからレイイチが着替え……させられたのね」
可笑しさと愛おしさを混ぜ合わせて、零は小さく息をこぼした。
デジットと律は「じゃあ、気を使わせる前に退散するよ」と、粋な計らいで笑顔のまま帰っていった。
夜の街。
壱、零、2歳の亜依、未来人の亜依、そして少し照れくさそうに歩調を合わせるレイイチ。
夜風が心地よく5人の頬を撫でていく。
元気いっぱいに歩く2歳の亜依が、壱と零の手を交互に握って楽しそうに跳ねるのを、22歳の亜依はただ愛おしそうに見つめて歩いた。
「何が食べたい?」
ふいに投げかけられた壱の言葉に、未来の向こうからやってきた亜依は、小さくはにかみながらどこか懐かしい響きを持つ和食ファミリーレストランの名を挙げた。
「普段使いのファミレスもいいけれど、今日は記念すべき日なんだから、もっと贅沢に、この時代の食文化のトップを味わいに行ってもいいのよ? 遠慮しないでね」
零はふわりと目を細め、気遣うような優しい声音で語りかけた。
「ううん、ファミレスがいいの。行きたいの」
亜依は懐かしさに胸を膨らませるように、けれど譲らないまっすぐな瞳で応えた。
「ファミレス!ファミレス!」
大人の会話に混ざるように、2歳の亜依が嬉しそうにその言葉を復唱して、小さな手をパチパチと叩いた。
「じゃあ、そうしよう」
壱は降参したように目元を緩め、愛おしそうに娘の頭を優しく撫でた。
にぎやかなレストランに入り、テーブルを囲んで腰を下ろす。
注文した料理が並び、賑やかな灯りの中でみんなが楽しそうにその器を箸でつついた。
ふと、零が箸を美味しそうに運ぶ亜依を見つめながら、興味津々といった様子で身を乗り出した。
「ねぇ亜依、未来の話を少し聞かせてよ。私たちのいた未来って、どんな感じなの? みんな元気にやってる?」
壱も箸を止め、穏やかな目を娘に向ける。
「ああ、気になるな。やっぱり、車とか空を飛んでたりするのか?」
二人の純粋な問いかけに、22歳の亜依はふっと目を細め、いつもの優しい声で頷いた。
「ううん、未来でも車は飛んでないよ。みんなが想像するようなSFの世界とは違うかな。ここと変わらない、たわいのないことで笑って、普通に時間が流れてる。……うん、みんな元気だよ。お父さんも、お母さんも、みんな」
「なんだ、車は飛ばないのか。ちょっと期待してたんだけどな」
壱が冗談めかして笑うと、零も「もう、壱ったら。でも、みんな元気ならそれが一番ね」
と嬉しそうに微笑んだ。
その時、テーブルの端で、レイイチが自分の前に置かれたハンバーグをじっと見つめたままでいるのに壱が気づいた。
「レイイチ、どうした? ほら、もっと食べろよ。せっかくの歓迎会なんだから」
壱に促され、レイイチはパーカーの袖を少し引き上げながら、大真面目な顔で答えた。
「……壱誠、僕は食べ物で栄養を摂取しなくていいんだよ。エネルギーは別の回路から補給できるからね」
「何を言ってるんだ。受肉した身体なら、ちゃんと動かすために栄養は必要なんだよ。ほら、口を動かす」
壱が苦笑しながらレイイチの皿にフォークを差し向ける。
その親子のやり取りを見て、22歳の亜依はたまらずクスクスと笑い声を上げた。
「ふふ、本当に変わらないなぁ。未来でも、レイイチ兄さんは同じようなことを言って、人の体で現れても何にも食べないんだから」
「えっ? そうなのか?」
レイイチがハンバーグを見つめたまま、驚いたように大きな目を亜依に向けた。
亜依は楽しそうに頷きながら話を続ける。
「私は精神体の兄さんでも見えるから知ってるよ。最近の未来では、兄さんは人間の体にはなってない時が多いかな。時々、なにかの帰りにうちにふらっと寄ることが多いの。お母さんに『聞いてよ零、カーネルがさぁ……』って、いつもグチを言いに」
「ええっ? 僕は未来で零にグチを言ってるの? ……ちょっと、それは僕としてかなり嫌だな……」
端正な顔を少し赤くして戸惑うレイイチの姿に、壱も零も声を上げて笑った。
そんな大人たちの賑やかな会話の真ん中で、2歳の亜依が「にぃに、あーん!」と、自分のスプーンですくい上げたポテトサラダをレイイチの口元へと差し出した。
「あ……うん、亜依」
レイイチは少し照れくさそうに屈み、小さな手が差し出したポテトサラダをぱくりと口に含む。
「ほら、美味しいだろ?」
と壱が笑い、零が2歳の亜依の口元を優しくナプキンで拭ってあげる。
にぎやかなレストランでテーブルを囲んで、みんなで楽しそうにしている姿は、どこからどう見ても、最高に幸せな「一つの家族」の団欒そのものだった。
神様がくれたような、つかの間の平和。
22歳の亜依は、笑い合う父と母の姿、そして自分の目の前でおいしそうにご飯を食べる2歳の自分の姿を、その瞳に、その魂に、一瞬たりとも忘れないよう深く、深く焼き付けていた。
5. 【別宇宙の理】
同じ頃。
居酒屋『パラレル・ライン』では、ビットがマスターに向けて静かに語りかけていた。
「マスター。……『スカラー』とは、この宇宙の管理システムであるカーネルとは、全く異なる次元の理なのです」
ビットは、美しく磨き上げられたグラスを棚に戻しながら、その深い褐色の瞳をマスターへと向けた。
「カーネルが、零という『不純なデータ』を排除するために世界ごと初期化しようとする宇宙のOSだとすれば……スカラーは、その宇宙に存在するすべての『量』そのものを規定する、絶対的な環境なのです」
「量……環境だと?」
マスターの怪訝そうな呟きに、ビットは小さく、しかし重々しく頷く。
「はい。そこには『どちらへ進むか』という向き――すなわちベクトルもなければ、目的(動機)すらありません。ただそこに、圧倒的な密度と温度を持って『留まり続けている』。そんな、絶対的に動かない静的な概念です。
向けられた殺意も、空間を穿つ攻撃も、すべては『指向性』を持ったベクトル。それがスカラーの領域に触れた瞬間、すべての方向性を失い、ただの無害な熱量へと分解・還元されてしまう。本来なら、完璧に無機質な世界の支点なのです」
「……本来なら、ということは、今は違うのか?」
「いいえ。現時点ではまだ、スカラーはただの完璧な『量』です。ですが……その絶対的な領域と地続きになった架空の街『翠松町』に、ノアさんという、観測史上あり得ない『アウトライヤー(異常値)』が3年前に流れ着いてしまいました」
ビットはカウンターに両手を置き、静かな、しかし確かな警戒を瞳に宿した。
「私たちの跳躍先は、ノアさんが漂着したまさに『3年前のあの瞬間』の翠松町です。私の予測では、この宇宙において存在の『量』が定義されていないノアさんがあの街に居座り続けることで、いずれスカラーの演算回路にゼロ除算(割り出し不能)のバグを呼び込んでしまう。
そうなれば、宇宙のバグを感知した、あのスカラーの膝元に控える防衛プログラム――神獣『枢』が、ノアさんを排除するために必ず覚醒します。枢が動けば、その最悪の特異能力、アバター量産による無尽蔵の軍勢が、ノアさんを消去するためにその星の空間ごと完全に初期化されかねません」
マスターは夜の仕込みの手を止めたまま、無言でビットの言葉の重みを噛み締めるように、静かに頷いた。
「大魔女・篝様が拓いてくれた航路のおかげで、翠松町へと続く次元のノイズは消え去りました。ですが、今回の跳躍先はカーネルの管轄外。回路によるサポートさえ通用しない、方向すら失う最強の理の真っ只中。システムが動く前に先手を打って、私たちは3年前のあの場所へ、境界を越えて飛び込まなければならないのです」
トントン、と。
再び、マスターの手元で包丁が規則正しい音を刻み始める。
それはいつもの夜と変わらない、ひどく安穏とした日常の音だった。
迫り来る三極の運命の足音が、夜の街の静寂の裏で、確実に、その速度を上げていた。
デジットが掴み取り、カーネルが『公式任務』として承認した、零の魂を縛る最後の契約。
この個人的な救出劇を成功させた時、零のエージェントとしての宿命は満了し、壱誠の記憶は完全に再構築される。
システムが望むバグの消去か、それとも、ただ一人の大切な恩師を連れ戻し、家族の未来を取り戻すための『個人の祈り』か。
あらかじめ織り込まれた破滅のプログラムを、その傲慢な愛の力でねじ伏せるために。
まもなく、世界の運命を揺るがす大跳躍が始まる。
そのすべての思惑をハイドしたまま、居酒屋『パラレル・ライン』の看板の灯りは、今夜も静かに夜の街を照らし続けていた。




