22話 登山会議
秋月乃亜の肉体が幽閉されている、北の研究所付近。
モノリスの出現によって、世界の座標が泥のように融け落ちていく混沌の最中にあって、その山道だけは、不自然なほどひっそりと静まり返っていた。
都市のパニックなど遠い国のできごとのように、ただ乾いた土を踏みしめる一行の足音だけが、薄暗い木々の間に吸い込まれていく。
目標である研究所まで、およそ二キロ。
「……ねえ、なんで研究所に直接転移しないで、こんな中途半端なところに降りたんだい?」
律が、手元の端末からふと顔を上げ、怪訝そうに首を傾げた。
画面に滑らせる指を止め、周囲のパルスを追いかけてみても、敵の明確な迎撃態勢は見当たらない。
秋山も、隣を歩くビットへと視線を巡らせた。
「そうだよ、ビット。お前の規格外のテクノロジーがあれば、カルトのセキュリティなんて、実質ないようなものだろ?」
「まあ、ビットにも何か考えがあるんだろ」
背後からマスターが静かに声をかける。
行く手を遮るように伸びた枝を軽く払いながら、男たちの焦りをなだめるような声音だった。
その言葉に、ビットがふと頬を朱に染め、嬉しそうに視線を彷徨わせる。
「マスター……」
その様子を隣で見守っていた陽菜が、物珍しそうな目を向けて小さく笑った。
少し険しくなってきた坂道を踏みしめながら、弾むような声をかける。
「ていうか、ビット。身体が半分になっても、そうやってちゃんと人間の姿になれるんだね」
「ええ。器さえあれば、精神体が半分であっても構造の維持に問題はありません。これは純粋に出力の問題ですので」
「へえ〜。そうしたらさ、何体まで同時に自分の身体を動かせるの?」
「人間の姿であれば、思考の並列同期も含めて十体程度なら同時に動かせますよ」
「一人十役の軍勢じゃん、凄いね!」
陽菜が大きく息を弾ませた。
山道の傾斜は徐々に増し、冷たい山の空気が全員の肺をわずかに満たしていく。
緩やかに歩みを進めるなか、マスターがふと低い声を投げかけた。
「……なぁビット、あっちの世界(スカラー領域)にいるってやつ――『枢』とかいうのも、同じ原理なのか?」
その問いに、ビットの歩調がかすかに緩み、表情がすっと引き締まる。
「あれは、また違います。スカラーの権能を一部引き継いでいるのです。自らの存在データそのものを現実の空間に高速で複製して、無限の軍勢を作り出しているのです」
ビットの瞳の奥で、淡い光の粒子が規則的に明滅する。
「特に厄介なのは、空間の許容量――世界システムのリソースを完全に無視して増殖する点にあります。そのため、周囲の空間そのものが過負荷で処理落ちを起こすのです。敵はアバターと戦うだけでなく、世界そのものが崩壊していく環境とも戦わなければならなくなります。重力異常や、時間の停滞がそのエリア一帯を襲うのです」
「げ、マジかよ……」
秋山が思わず足を止め、肩で息をしながら顔をしかめた。枯れ葉の敷き詰められた地面を睨みつける。
「俺、あっちの担当じゃなくて本当に良かったわ……」
「そんなメチャクチャな相手、どうやったら勝てるんだい?」
律が、端末が弾き出す絶望的な数値を睨みつけながら呟く。
ビットは立ち止まり、静かに、けれど明確な答えを示すように首を振った。
「枢のコピー能力が『周囲の空間を圧迫する』という、その絶対的な弱点を突きます。こちらからはあえて攻撃を仕掛けず、防御や回避、あるいは敵の攻撃を吸収・倍加して反射する結界などを展開し、枢に『もっとコピーを増やさなければ勝てない』と思わせるのです」
ビットはそう言って、山の稜線の先にある、見えない戦場へと視線を向けた。
「枢が空間の限界を超えてアバターを量産した、その瞬間――そのエリア一帯の世界ルールが限界を迎えて完全にフリーズします。システムが破綻すれば、管理者権限そのものがエラーによって強制終了させられる。そうなれば、無防備になったオリジナルの本体が、引きずり出されるはずです」
「……はず?」
マスターがその言葉の僅かな隙間を拾い上げた。
ビットは小さく、陰のある笑みを浮かべる。
「はい。いまだかつて、あれに勝ったものはおりません。枢のシステムが限界に達してフリーズするよりも前に、挑んだ者たちが全員、先に力尽きてしまうのです」
その事実の重みが、静まり返った山道に重苦しく垂れ込めた。
マスターが遠い空を仰ぎ、深く息を吐き出す。
肺に染みる冷気が、焦燥を少しだけ白く濁らせて消えていく。
「零たちは……大丈夫なのか? そんな化け物を相手にする可能性があるなんて」
「それはもう折り込み済みです、マスター。外宇宙では力が減衰するとはいえ、彼らは私たちが揃えうる最強の布陣です。――何より、デジットがついていますから」
ビットの言葉には、同じ高次の存在を信じる、揺るぎない信頼が滲んでいた。
「……話を戻すけど」
律が、手元の端末に走り始めた妙なノイズパルスを睨みながら、再び歩調を早めた。
「なぜ、わざわざ二キロも手前から歩くんだい? 直接乗り込まなかった本当の理由はなんだよ」
「この付近の空間をスキャンした際、どうしても少し気になることがありまして」
「気になること?」
秋山が視線を山道の先、研究所の方角へと向ける。
遮る木々の隙間から、どこか澱んだ空気が漂ってくるのが見えた。
「そうです。今まで感じたことのないプレッシャーといいますか……高次負位相からの干渉波……現実には存在しないはずの『虚数』の気配がしているのです」
「つまり……警戒のため、か」
律がごくりと唾を呑む。
不意に、山の草木の匂いが消え、奇妙に鼻を突く冷たい風が一行の頬を撫でていった。
それまで静かに周囲の空気を探っていた陽菜が、ぽつりと呟いた。
「確かに、私も感じてた。これ……冥界の気配だよ」
「冥界……?」
マスターが眉をひそめる。陽菜は自身の細い指先をじっと見つめ、記憶をなぞるように言葉を紡いだ。
「昨年の夏、私の実家周辺で大きな事件があって、デジットと一緒に行ったとき、母が言っていたんです。『これは冥界の匂いだ』って。死者が赴く、暗くて冷たい地下の世界の匂いだって……」
「それは……地球の裏側の、ローカルな世界のことですね」
ビットがその情報を脳内データと照合し、静かに呟く。
「……そうですか。これが、その世界の気配……」
「ちょっと待った」
律が混乱したように声を上げた。
「地球の裏側にそんなもんがあるのか? いったい何なんだよ。フィクションだと思って切り捨ててきたオカルトみたいなものが、どんどん現実になっていくなんて……」
「これまでは、現代科学で証明されていなかっただけの、未知の物理現象に過ぎなかったってことだ」
秋山が自嘲気味に鼻で笑う。
「まあ、今だって証明されたわけでもなんでもないがな」
「俺は、零の帰還を受け入れた時点で、もう何が起きても驚かんよ」
マスターが静かに笑う。
だが、ビットの表情は晴れないままだった。
足元の土の色が、いつの間にか不自然に色褪せていることに気づく。
「いえ……ローカル世界にしては何かおかしいのです。この実数空間に染み出している気配の基本コードに、別の何かが混ざっているように見えます……」
「あ、デジットもそんなこと言ってたよ」
陽菜の言葉に、ビットの瞳がピクリと鋭く明滅した。
「事態は……私が考えていたよりも、遥かに大きいのかもしれません」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
大気の圧力が劇的に跳ね上がり、周囲の木々が、目に見えない巨大な質量に押されるようにざわりと激しく揺れた。
ビットの身体の表面が、まるで沸騰したように淡い青白い粒子となって空間に溶け出し、そのシルエットを変形させていく。
彼女の肉体を中心として、周囲の空間が強烈な重力波を放って歪み始めた。
足元の砂利が、重力を失ったかのように一瞬だけ空中へ浮き上がる。
キィィィンという澄んだ高周波の駆動音が空間を満たし、虚空の歪みから、高次元の異空間に格納されていた幾何学的な金属装甲が一気に物質化して出現した。
それらの巨大なパーツは、磁石に吸い寄せられるようにビットの身体へと直接重なり、ガシィィンと硬質な音を立てて吸着していった。
「え、ビット……!? 何その姿、髪も青いよ!」
陽菜が目を輝かせて叫んだ。
光の奔流の中心に立つビットの髪は、いつもの色彩から鮮烈なコバルトブルーへと変色し、その細い両手には、幾何学的なラインが発光する一対の「双剣」が確かに握られていた。
「ふふふ。念のための、戦闘形態です」
戦闘用スーツに身を包んだビットが、双剣を鮮やかに一閃させ、不敵に微笑んだ。
青い髪を、高次元装甲が生み出す風圧に揺らし、双剣を構え直して研究所の方角を睨みつける。
その圧倒的なテクノロジーの顕現に、律は額を押さえた。
「ああ、もう、何!? スターウォーズか!」
「もう、何が起こっても、驚かん……と言ったが、これはさすがにな」
マスターも乾いた苦笑いを浮かべながら、その強固な質量を持つ戦闘形態の威容を見つめていた。
ビットは静かに息を整え、決意を秘めた目で一歩を踏み出す。
「さあ、先へ進みましょう」
ビットが先頭に立つ。
誰ももう言葉を発さなかった。
北の研究所へ向け、一行は静かに歩みを速めた。




