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忘却の観測者


店内の時計が、一斉に逆回転を始めた。カチカチという機械音が重なり合い、巨大な心音のように居酒屋を鳴動させる。


「……おい、嘘だろ。何だ、これは」


 秋山が、軍用端末の青い光に照らされたまま、喘ぐような声を上げた。


 それは、もはやホログラムや幻覚ではなかった。


カウンターの椅子、僕たちが先ほどまで触れていた木材の炭素が、店の空気中に漂う水分子やアルコール、そして壁の銅メッシュから弾け飛ぶイオンと混ざり合い、渦を巻いている。


光の渦の中で、血管が編み上げられ、骨が組まれ、白い肌が陶器のように滑らかに表面を覆っていく。


「本当に……生き返るって、いうの?」


 サチが刺繍を抱きしめたまま、腰を抜かすように床に座り込んだ。


マシュマロのように膨らんでいた葬儀場のあの遺体ではない。


サチがよく知る、あの理屈っぽくて、けれど繊細だった彼女の、瑞々しい輪郭がそこにあった。


「まさか、あの子の仮説が、本当にここまで……」


 常に冷静だったマスターが、拭いていたグラスを落として割った。


粉々になったガラスの破片すら、彼女の髪の毛の一部となるべく光の渦に吸い込まれていく。


マスターは縋り付くようにカウンターを掴み、神をも恐れるような表情でその光景を凝視していた。



「ひ、酷い……。店が、消えていく……」


 陽菜が悲鳴のような声を上げ、サチの肩を強く抱き寄せた。


彼女が見つめる先で、居酒屋の日常を形作っていたすべてが剥ぎ取られ、彼女を肉体へと変えるための「材料」として捧げられていた。


「逃げて! 吸い込まれちゃう!」


 陽菜の叫びは、ホワイトアウトしていく僕の意識の淵を辛うじてなぞった。




奇跡が、今、物理現象として目の前で起きている。


 だが、その奇跡と引き換えに、僕の意識は急速に白濁していた。


「……因果律の等価交換だ! いいか、この宇宙には『情報の保存則』がある。無から有は生まれない。彼女という『消えたデータ』をこの現実に戻すには、代わりとなる『情報の器』を差し出さなきゃならないんだ」


 秋山が絶望的な声を上げる。その器とは、僕の脳だった。


 彼女を彼女として形作るための精密な設計図は、僕の記憶の中にしかない。


宇宙のシステムは、彼女を実体化させるための演算リソースとして、僕の記憶回路を直接ハッキングし、そのデータを「実体」へと書き換えているのだ。


 彼女のまつ毛のひと振りが完成するたびに、僕の中から彼女と過ごした「一年」が消える。指先の爪が形作られるたびに、僕の中から彼女と交わした「約束」が消えていく。


「……ごめんね。私のために、あなたを空っぽにしてしまう」


 あちら側の世界から聞こえたその言葉。


それは謝罪ではなかった。


僕の中にある「彼女が死んだ」という確定した過去を、僕自身の記憶ごとフォーマットし、新しい「現在」を書き込むための、残酷で慈悲深いシステム・メッセージだった。


 彼女が形を得るほどに、僕の心から彼女が消えていく。


この再構成は、僕が彼女を「忘れること」でしか成立しない。




——— —————— ———— ——-


—精神世界(あちら側)

30年目の同期シンクロ



「……乃亜。乃亜、そこにいるのか! 応答しろ、乃亜!」


 煤けた無線機のような端末から、激しいスノーノイズを突き破って、ひどく掠れた、けれど聞き間違えようのない声が響いた。


 シルバーとグレーに彩られた無機質な『パラレル・ライン』。


そのカウンターの中で、秋月乃亜は自分の掌を見つめたまま、一瞬動きを止めた。


37歳の肉体のまま、彼はついさっき、あの忌まわしくも輝かしい実験の果てに、この境界線へと「跳んだ」ばかりだった。


「……ああ、佐伯か。聞こえている。成功だ、意識の転送は完了した」


 ノアの声は、かつてと変わらぬ鋭さと落ち着きを保っていた。


「……だが、ここは奇妙な場所だな。店の形をしているが、色がない。物質というより、概念の残像に座っているような気分だ。……そっちはどうだ? 実験が終わってから、何分経った」


 ノアの問いに、通信の向こう側で長い沈黙が流れた。


やがて、祈るような、あまりに脆い声が信じがたい事実を告げる


『……乃亜。30年だ。あの日から、30年が経ったんだよ……』


「30年……?」


ノアは目を見開いた。


 彼にとっては、まどろみから覚めたばかりの数分間の出来事。


だが、あちら側の時間は、親友を老人へと変え、自分を歴史上の人物へと追いやってしまうほどの、残酷な距離を隔てていた。


 マスターはそこから、積もり積もった歳月のこと、そして今、この「あちら側」を目指して自らの命をチップとして賭けた一人の女性について、詳細を語り始めた。


 かくかくしかじか、と。


 彼女がノアの数式を継ぎ、死をトリガーにしてここへ向かっていること。


そして、彼女を愛する「彼」や仲間たちが、今まさに現実世界で再構成の準備を進めていること。


「……なるほどな。俺の遺した不完全な式を、そこまで書き換えた奴がいるのか。……面白い。すべて承知したよ。その『彼女』がここに辿り着くのを、俺はここで待とう」


 ノアは、冷たいシルバーのカウンターを指先でなぞり、一つの決断を下した。


「佐伯。彼女がこちらへ来るパスを繋ぐ間に、一通、手紙を託したい。……デジタルなデータじゃない、あっち側の君の手で、紙に書き写してほしいメッセージがある」


『手紙……? 誰にだ』


 ノアは視線を虚空へ向け、かつて置き去りにしてきた「小さな光」を思い出した。


「ある人物への、大切な言葉だ。……いつか、ふさわしい時が来たら彼女に渡してほしい。内容はこうだ……」


 ノアが静かに紡ぐ言葉を、30年後のマスターは、震える手で一字一句、現実の紙に刻み込んでいった。それは、科学の言葉を超えた、ひとりの男としての、最後のわがままだった。



—— —————————————- - ——-



—現実世界—



「思い出して! あの子の名前を呼んで!」


サチが、記憶を吸い出され虚ろな目をした僕の肩を激しく揺さぶる。


「数学や理論なんて私にはわからない! でも、あの子をただの『データ』や『エラー』のままにさせちゃダメ! あなたが今、あの子の名前を呼んで、ここに一人の人間がいるって証明してよ! あなたしかいないのよ!」


 サチのなりふり構わぬ叫び。それが、ホワイトアウトしかけていた僕の脳細胞の、最後の一欠片を繋ぎ止めた――。




 混乱の極致にいたサチに、マスターが奥の事務室から一通の封筒を持ってきた。


「サチさん、これを。……君の父親からだ」


「え? なに……これ。お父さん? なんで?」


 サチは何が起きたのか理解が追いつかぬまま、差し出されたそれを反射的に受け取った。


「何? どういうこと? お父さんは、ずっと前にいなくなったのに……」


 マスターは、カウンターの隅で激しく火花を散らしている古い真空管式の通信機――その「受信周波数」を指差した。


「……サチさん、落ち着いて聞いてくれ。あちら側には、時間の流れなんて概念はないんだよ」


 苦渋に満ちた表情で、激しく明滅する計器を見つめた。


「あちら側…?」


困惑するサチに、彼は真っ直ぐに視線を返した。


「ああ。君のお父さんは、いま、あの子と一緒に精神世界である『あちら側』にいるんだ。……あちら側では、現実世界の過去も未来もが『今』として重なり合っている。乃亜が事故で飛ばされた30年前も、彼女が落ちていった先日も、あいつにとっては同時に起きていることなんだ。」


火花を散らす古い通信機のダイヤルに、マスターは指先で触れた。


「僕は、この30年間……このダイヤルを回し続け、あちら側の『一瞬』を捉えるために、こちら側の『30年』を費やしてピントを合わせ続けてきた。……そして今、ようやく周波数が一致した。あいつは、向こう側でたった今出会ったばかりのあの子を助けるために、自分のすべての情報を燃やしているんだ」



 マスターは乃亜と共に量子物理を志したかつての相棒だった。乃亜が消えたあの日から、この店を「座標の交点」として守り抜き、あちら側の「不動の時間」にこちら側から楔を打ち込み続けてきた唯一の人間。


「彼女の甦りは、乃亜が自分の帰還を諦めてまで託した、二人の命懸けの二次計画だったんだよ。あいつは、娘の友達を助けることこそが、自分の生きた証になると信じているんだ」


マスターの言葉が、地鳴りの響く店内に重く沈殿した。


「……そんな。じゃあ、お父さんは、ずっとそこにいたの?」


 サチの必死の問いに、マスターは地鳴りのような共鳴音に負けないよう、諭すように言葉を紡いだ。


「ああ。乃亜は30年前、自ら提唱した『意識の量子転送理論』を自らの体で証明しようとして、この座標から『あちら側』へ跳んだんだ。事故じゃない。あいつは科学者として、その先にある真理をその目で見ることを選んだ。……だが、時間の概念がない世界に囚われ、今日この瞬間まで戻れずにいたんだ」


 サチは唇を噛んだ。

父が姿を消したのは、彼女がまだ5歳の時だった。


 大きな背中、難解な数式が並ぶ書斎の匂い。そんな断片的な記憶だけを残して、父は忽然と消えた。


幼かったサチにとって、それは死よりも残酷な、理由のない「拒絶」に思えた。


 中学の時、そんな彼女の心の穴を埋めてくれたのが、親友の彼女だった。


彼女の家は厳格で、彼女の突き抜けた知性を家族の誰も理解してはくれなかった。


二人は形こそ違えど、父親という存在に対して「埋まらない空白」を抱えた似た者同士として、身を寄り添わせてきたのだ。


「でも、どうして彼女が、お父さんと一緒にいるの? 彼女は知ってたの? 私がずっと探して、ずっと憎んできたお父さんが、あちら側にいるって……」


「いや。あの子は、乃亜が君の父親だとは死ぬまで知らなかったはずだよ。……それはあまりに過酷な偶然だった。あの子が伝説の科学者としての『秋月乃亜』に憧れ、その理論を完成させようとしたのは、純粋な知的好奇心からだった。あの子は、実の父親が与えてくれなかった『知的な承認』を、尊敬する師であるノアの中に求めていたんだ。君の父だとは露ほども思わずにな」


 マスターは、激しく火花を散らす通信機に手を添え、寂しげに目を細めた。


「あの子が初めて君をこの店に連れてきて、名前を紹介されたとき、私は確信したよ。君が乃亜の娘であることを。五歳の頃の君の面影が、そこにはあった。……だが、私は黙っていた。あの子は乃亜という『知性』を追い、君は乃亜という『父』を憎んでいた。その二つを混ぜ合わせるには、あの時の君たちはあまりに若すぎたんだ」


 サチの頬を、熱い涙が伝う。


「でも……乃亜はさっきの交信で、すべてを知ったよ。いま自分の目の前にいる天才科学者が、かつて置いてきた5歳の娘の、たった一人の親友であることを。そして、その娘が今、自分の遺した理論(設計図)に針を通してくれたことも」


 マスターは通信機のダイヤルを愛おしそうに撫でた。


「あいつは今、初めて自分の理論を理解してくれた『後継者』を救うために、その魂を燃やしている。それが、自分の娘を支えてくれた恩人だとな……。サチさん、これはあいつなりの、精一杯の償いなんだよ。30年間、5歳の君を置いていったことへのね」


 マスターの言葉が、サチの胸の奥でバラバラだったピースを繋ぎ合わせていく。

五歳のあの日から止まっていた時計が、今、猛烈な勢いで針を回し始めた。


「……お父さん。彼女を、助けて……」


 サチは祈るように封筒を開いた。


そこには、ノアが「見知らぬ後継者」を救うために、そして「5歳のままの娘」へ想いを届けるために遺した、最後の暗号が記されていた。




『娘へ。彼女を頼む。彼女が戻る場所こそが、私の現在いまだ。いいか、再構成の最終段階には、「外部観測者による物理的な定義」が不可欠だ。私のデータがどれほど完璧でも、それはまだ実体のない幽霊に過ぎない。この手紙と一緒に、お前に全てを託す。……お前の最後の一刺しが、彼女をこの世界に繋ぎ止める「一」となる』


「……最後の一刺し?」


 サチが顔を上げると、マスターが鋭い眼差しで彼女を射抜いた。


「そうだ。サチさん、君がやらなきゃならない」


 マスターは、刺繍枠の端で磁場に煽られて鳴動する針を指差した。


「今のあの子は、情報の海を漂う不安定な波だ。デジタルな演算だけじゃ、彼女を肉体という檻に閉じ込めることはできない。……ノアの遺した理論を改良し鍵のひとつにした刺繍。あの子が君に託したその刺繍だ。その核を射抜くんだ。人間の手による物理的な介入アナログ・スイッチが起きて初めて、不確定な波は確かな粒子に変わる。……サチさんが刺さなければ、あの子のデータは、ただのノイズとして跡形もなく消えるだけだ!」


 それは、科学者として30年間「あちら側」を観測し続けてきたマスターが導き出した、残酷で唯一の物理的真実だった。



「……あ、あ……」


 自分を捨てたと思っていた父は、あちら側で彼女と出会い、自分の帰還という唯一の切符を、娘の親友である彼女へ迷わず譲ったのだ。


「お父さん……お父さんなのね……」


 あちら側のノアが、自分というデータを完全に燃焼させ、その炎を現実世界のサチへ、そして彼女の再構成へと流し込んでいた。


「…あ。。」


そして手紙にはこうも記されていた。


『君の刺繍の色使いは、私の数式よりもずっと正確に世界を記述していることだろう。……すまなかった。そして、誇りに思う』


 サチの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。30年も自分を捨てていた男を憎んでいたはずなのに、その手紙に触れた瞬間、指先から熱い「何か」が流れ込んできた。それは、あちら側で自らを燃やし、娘の友人を現実へ押し戻そうとしている一人の男の……父親としての最後の体温だった。


「……わかったわよ、お父さん。私、縫い上げる。あなたの代わりに、あの子を絶対に抱きしめてみせるから!」


 サチは泣きながら、光り輝く刺繍に最後の一刺しを込めようとしていた。



———————————- ——————- ——-


—精神世界(あちら側) 最後の観測者—



「……見て」


 あちら側の居酒屋。

彼女は、崩壊する異界の縁で、現実世界の「彼」を見つめていた。

彼の瞳から、自分への意味が、一滴ずつ零れ落ち、宇宙の材料へと変換されていく。

ノアに背中を押された彼女は、自分が現実世界へ降り立つための最後の一歩を踏み出した…


— ———- —— ——————- ——- -





 —現実世界—


店内の銅メッシュが耐えきれずに焼き切れた。


モノリスの地鳴りが最大に達し、居酒屋の屋根が剥がれ、冬の夜空からスノーノイズが降り注ぐ。


 僕は、目の前の「完成しつつある彼女」の中に、右手を差し出した。


 記憶はない。


彼女との日々はすべて、今、目の前にある「彼女の肉体」へと姿を変えてしまったから。


 けれど、心臓の鼓動――バイナリ・パルスだけが、その光の主を「たった一つの1」だと叫び続けていた。


「君は……」

 


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