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ゼロの臨界


 ――次の瞬間、店内の熱量が臨界点を超えた。


 デジットとビットが肉体を捧げ、居酒屋『パラレル・ライン』がその歴史ごと分子レベルで分解されていく。


カウンターの炭素、グラスのケイ素、銅メッシュの導電体。


それらは光り輝く粒となって店内の中央で激しく渦を巻き、凄まじい熱を帯びていた。


 

「……しっかりしろ! データの転送率スループットを落とすな!」


 秋山が、火花を散らすラップトップを必死に叩きながら叫ぶ。


彼の背後では、棚の酒瓶が次々と粉砕され、中身の液体が意思を持つように宙に浮き、渦の中へと吸い込まれていた。


材料ハードウェアは揃った。


 そして今、僕から逆流させた「記憶」というソフトウェアが、その空っぽの器を満たしていく。


 僕の中から「彼女」という概念が一つ消えるたびに、目の前の虚空には、より鮮明な実体が描き出されていく。


 それは、残酷なまでの等価交換だった。


 僕が彼女を忘れ、存在の現実感が希薄になればなるほど、渦の中心は重力を持ち、この世界に確かな質量を刻み込み始める。


 消えゆく思い出の残影。


その境界線で、渦の中心から、あの懐かしい「鼻歌」がかつてないほど鮮明に響き渡った。


 そして、光の奔流を突き破り、一筋の細い「指先」が、迷うことなくこの世界に触れた。


 その指先は、実体化の衝撃に軋みながらも、まっすぐに僕の方へと伸ばされる。



サチの悲鳴が、物理法則の崩壊した店内に空虚に響き渡る。


「やめて、もうやめて!」


 サチが、粒子となって消えゆく店の光景に耐えきれず、顔を覆って叫んだ。


「猫たちまで犠牲にして、あなたの思い出まで奪って……。そんなの、あの子が戻ってきても、誰も幸せになれないじゃない!」


 サチが床に這いつくばり、「刺繍の設計図」を強く握りしめた時、窓の外に立つモノリスが、地鳴りのような共鳴音を響かせた。


宇宙のシステムが、最後の「例外」を抹消しようと圧力を強めている。


「サチさん……っ!」


 傍らで立ち尽くしていたはずの陽菜が、崩れ落ちるサチの肩を抱きしめた。


 陽菜の頬にも、涙が幾筋も伝っている。


21歳の彼女にとって、目の前で起きていることは理解の範疇を超えた地獄だった。


けれど、彼女が自分を妹のように可愛がってくれたこと、そして彼女の為に僕がどれほどの覚悟でここに立っているかを、誰よりも肌で感じていた。


「サチさん、今は……信じるしかないんです。彼は、思い出がなくなっても、また一から積み上げればいいって……そう決めたんですよ!」


 陽菜の叫びは、僕の意識の深淵にまで届いた。

 

 

「……あ」


 僕の口から、最期の記憶の欠片が溢れ出した。


 それは、2018年のあの夜、芳名帳の『Part 42』に署名した時の、彼女の誇らしげな笑顔だった。


 その瞬間、店内の空気が一変する。


 サチが握りしめた刺繍の糸が、まるで血管のように赤く脈動を始め、バラバラに分解されていた物質の粒子が、その「設計図」に従って猛烈な勢いで再構成ビルドを開始した。


 モノリスの共鳴をねじ伏せるような、圧倒的な「生の脈動」。


 エメラルドグリーンの光が爆発し、陽菜とサチ、そして秋山の視界を、慈愛に満ちた白濁がすべて包み込んでいった。


———————— ——————— ——- ——




—境界線の終焉(あちら側)—


「……いいか。これが私の、最後の命令だ」


 あちら側の世界。


 虚無に呑まれゆくカウンターで、ノア――秋月乃亜は、自分の存在の八十パーセントをすでに「鍵」へと変換していた。


彼の脚はすでに砂嵐となって消え、カウンターを掴む左手も、指先から透明な粒子へと変わっている。


「先生、何をしているの……!? やめて、そんなこと!」


 彼女の絶叫が、静止した空気を震わせる。


「あっちの彼が、自分の脳を焼きながらあんたを繋ぎ止めようとしている。だが、人間の記憶容量には限界があるんだ。あんたという巨大な、そしてあまりに複雑な知性をこの世界に定着させるには、一個人の思い出だけじゃ、解像度が足りない」


 ノアは、空中に広がる膨大なバイナリの海を見つめた。


そこには、現実世界で彼が必死に送り込んでいる「愛」という名の記憶パケットが、激しく渦巻いている。


「だから、俺が最後の一欠片パッチになる。37年間、俺という人生の情報の残骸を、あんたの不完全な魂に結合させるんだ。俺の知識、俺の演算能力、そして俺の存在そのものが、あんたを現実世界へ押し戻すための最後の一押しになる」


「ダメよ、ノア先生! そんなことをしたら、あなたは宇宙の塵にさえ戻れない。……あちら側の、あなたを覚えている人たちからも、あなたの記憶が完全に消えてしまうわ!」


 その言葉に、ノアは一瞬だけ、寂しげに、けれど晴れやかに笑った。


「構わんさ。誰かの記憶の中に生きるより、その誰かが今日を生きるための『礎』になれるなら、科学者としてこれ以上の光栄はない。……あちら側には、私が守るべきだった、名前さえ呼んでやれなかった者がいるんだ。その者の未来が、少しでも明るくなるのなら……現実世界の30年という空白にも、意味があったと思える」


 ノアの身体が、一際強い青白い発光を見せた。


 彼は残された知能のすべてを使い、現実世界と精神世界を繋ぐ「究極の同期回路」を、自らの魂を犠牲にして構築していく。


「先生……」


「……ノアでいいと言っただろう、あんたの執念は、俺の想像を超えていた。……行け。平行線が交わる場所へ、俺が背中を押してやる。あちら側の彼に伝えてくれ。……答えは『42』なんかじゃない。あんたたち二人の『1』と『0』だとな」


 ノアは、空中に広がるバイナリの海に、自らのコアを躊躇なく投げ込んだ。


 その瞬間、精神世界の居酒屋は目も眩むような白光に包まれ、あらゆる情報が一点へと収束していく。


 ノアの存在が消えゆく直前、彼の唇が音もなく動いた。


 それは、現実世界の誰かに宛てた、最期の、そして唯一の祈りのようだった。


その言葉は誰の耳に届くこともなく、けれど確実に、彼女の意識を現実世界へと突き飛ばそうとしていた。



———— ———- ———- ———— ———




 -現実世界-


 激しい閃光が走り、秋山のパソコンが過負荷で白煙を上げた。


「……あ」

 

 僕の中で、何かが音を立てて消えた。

 彼女と初めて手を繋いだ日の、あの夕焼けの色。


 喧嘩をして一週間口をきかなかった、あの苦い沈黙。

 

 大切なはずの思い出が、冷徹な「数値」へと書き換えられ、目の前の光の柱へと吸い込まれていく。


僕の中から彼女が失われるのと引き換えに、光の渦の中心に、透き通った「人の形」が、彫刻のように削り出され始めた。




「マジかよ……本当に……肉体が……」


 マスターが、空になった棚に寄りかかり、うわごとのように呟いた。


 猫たちの毛並みの柔らかさが彼女の髪になり、店の酒と水が血液になり、銅のメッシュが神経系を形作る。


 けれど、その「形」にはまだ、目も、鼻も、唇もない。


 僕は、自分の名前すら忘れそうになりながら、その「形」に向かって手を伸ばした。

 

「……誰だ……。そこに……いるのは……」


 僕の声は、ノイズに掻き消されて誰にも届かなかった。

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